ばあやの のんび~り日記  

還暦をむかえてからパソコンの勉強を始めて
傘寿も越えてしまいました。
いつまでパソコンできるやら・・・

自然におとずれるもの ・・・2

2010年07月02日 | ばあやの本棚



胸をおさえて、「救急車よんで、くれ・・・」
かぼそい声で、いまにも倒れこむような夫の青白い顔・・・
6月26日(最後の日曜日)午後8時半ごろのことだった。


その朝は、元気だった。
「朝市に行こうか」という夫に
「雨がまだ降りよるよ、止めた方がよかよ」と言葉をさえぎって、
「あと一眠りしたら・・・」といって時計をみた、午前3時だ。


お昼前ごろに今度は「温泉にいってくるよ」と一人バスででかけた。

夕方、ご機嫌で帰り「ほら、杏子が好きやろ?」

ふわふわのメロンパン1ヶをテーブルの上におくと、
「ひと眠りするねぇ・・・」といって2階へトントントン・・・


もしかしたら、この会話が最後の「別れのことば」になっていたかも・・・


救急車のなかで隊員の冷静なはずの言葉が胸にささった。
「心筋梗塞、呼吸脈拍弱の状態 いまからT病院へ搬送します。」

「心臓の動脈、大きな3本のうち、2本を血栓がふさいでいます。すぐに手術にはいります」

当直医のDrと2人の専門医が駆けつけてくださり、4時間余手術はおわった。
ICU室へ運ばれるじいやの表情は・・・

唇は固く閉じられていたが、目はうっすらとあけていて
少しうるんでいるように見えた。




まさに”九死に一生”を得たその瞬間だった。

昭和20年6月20日に戦死した父親
今月、7月16日に3回忌をむかえる母親
その姿にひかれるようにして死線をさ迷っていたのだろうか?

そう思うと、「まだ迎えには来ないでください、お義父さん、お義母さん、お願いですから…」と私は祈った。 

軽いひと眠りが、永遠の眠りになっていたかもしれないのだ・・・・・・


救急車手配の私は、妙に落ち着いていたのが不思議だった。

火事場の馬鹿力とでもたとえようか
しかし、入院用具を取りに家に戻った時からの私は放心状態だったようで、
荷物は、次女が手際よくそろえてくれたので助かった。

夫は今、ひたすら回復への道を歩いている。

一昨日はベットの上で上半身を起こす練習、
昨日は、つかまり立ちが出来たとよろこんでいた。でも体の真ん中には、まだ道尿の管が
ついているので、自由がきかないらしいが・・・

そして今日も、ICU室へ行こうとしたら、
「あら、もう普通のお部屋ですよ~」と看護師さん

「え?もうですか?」

4人部屋でニコッ!!として、ベットに座っていた
ひげずらだ。
「これは似合わないナ・・・」

3~4週間の入院だといわれたが、体力回復後に、あと1回の手術が待っている
複数の動脈狭窄分の手術を受ける予定だ。

畑のことが気になるらしくて、次女の婿に「からいも苗の植え付け」を頼んでいたようだ。

もう、丈夫だなと思った。



突然にやってくるかもしれない異変を見逃さないように、
「普段の健康志向を大切にしないと行かんなぁ」と、
はベットの上でつぶやいていた。

「ネ、わたしの言っていること、やっとわかったやろ?」
「うん、うん杏子の辛さがしみじみわかったタイ

そんなら、よかったたい~、もう~」
コメント (14)
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