hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

東京の紛らわしい2通りの地名

2015-10-22 05:00:05 | 日記


東京だけではないかもしれないが、紛らわしい地名は数多くある。それらがよく気になって調べてみたくなる。
(1)千束と洗足
品川区、目黒区の地図を見ると不思議な位置関係に『千束』と『洗足』がある。南から行くと東急池上線の旗の台から2つ目の駅は『洗足池』。

そのほぼ真北に位置する東急大井町線の旗の台の次の駅は『北千束』、さらにその真北にある東急目黒線の駅は『洗足』と『せんぞく』の表記は入り乱れている。日蓮上人が味を洗った伝説が残る『洗足池』は『南千束』にある。なぜこんなに複雑なのか。

これは元あった地名は千束だが、江戸時代の頃より景勝地だった池に伝説を被せて『洗足池』の名前にしたことが真実なようで伝説をうまく取り入れて名前を売り出したため、2つの表記があるようだ。
一方、大田区南千束、北千束に対し、目黒区洗足は由来はどうなのか。1924年設立の平塚裁縫女学校が1926年にこの地に移転し、創設者の敬虔なるクリスチャンである前田若尾はイエスキリストが弟子の足を洗ったことにちなみ『洗足高等女学校』としたと学校側は説明している。(洗足池とは由来が異なる)

しかし、実際には東急が沿線開発の一環で洗足田園都市という名前で宅地販売を開始、そのため、駅の名前は『洗足』駅にしたようである。つまり、この洗足は少し離れているが、洗足池から付けられたものらしい。(学校説が正しいならば足を洗った人がキリストと日蓮上人の2つあることになるのだが。)

(2)多摩川と玉川
奥多摩を水源に最後は東京都と神奈川県の境を作り、東京湾に流れ込む多摩川だが、玉川と表記することもある。

例えばかつて東急が運行していた路面電車は玉川線、通称玉電が走っていたり、その通りは玉川通りだったり、現在は二子玉川となっているが、かつては二子玉川園という遊園地もあった。(同じ東急も東横線沿線にあった遊園地は多摩川園であった)

また、田園調布も世田谷区部分は玉川田園調布という地名である。

実は多摩川と玉川は両方が江戸時代からある呼び名であり、元々は上流の丹波川(たんばがわ)が転じて多摩川になったと言われる。その美称として『玉川』が使われ、江戸の飲料水を供給するため、開削された上水を『玉川上水』と命名した。

玉川を冠する地名は現在の世田谷区南部に多く見られるが、これは明治時代には『玉川村』があったことによる。つまり、二子玉川もまさにここに起源がある。

さらにややこしいのは『多磨霊園』の多磨である。これな府中市の一角はかつて『多磨村』があったことによるもので既に使われていた多摩と混同されないため、多磨の字を使っていたが、その多磨村も1954年には府中市に合併され、自治体としての多磨村は消滅している。

(3)神代と深大寺
府中市の隣、調布市にある深大寺は東京では浅草寺に次ぐ歴史を持つ古刹である。しかし、行ってみるとわかるが、近くにある都立の植物園は『神代』植物園である。なぜ、わざわざ違う字を使うのか、実は、ここも歴史的な地名の変遷が絡んでいる。

江戸時代はこの周辺の地名は『深大寺村』であった。しかし、1889年に周囲の旧佐須村、柴崎村と合併する際に『深大』を使うのでは不公平という周りの村の意見もあり、『神代村』となった。そして、大戦前夜の1940年に防火緑地(26万平米)がこの地に作られ、当時の行政区の名前から『神代緑地』と名付けられた。戦後、一部の土地は収用した農地に返されたが、残った土地で1963年東京都により『神代植物公園』が作られた。つまり神代緑地の名を残したものなのである。

一方、1955年に調布市と神代町は合併しており、この時点神代の地名はなくなっていたのだが。こうした経緯からお寺は深大寺、植物園は神代植物園としてその名を残しているのである。
[user_image 08/cc/6cc18bcd8b6790f5177b82895e472f10.jpg
とこうして調べてみるとその経緯は面白いことがわかる。地名は変遷し、さらに自治体の名前としては消えても駅名や学校、公園、池の名前などとしては残るため、なぜ2通りの書き方があるのかが、分からなくなってしまうもののようだ。地名は調べてみると面白い発見がある。