hokutoのきまぐれ散歩

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風呂場で暗殺された武将たち

2020-11-09 05:00:00 | 日記
下らない話と思われるかもしれないが、風呂に入っていてふと考えた。ここで襲われたら間違いなく死ぬのではないかと。というのも戦闘能力は皆無に等しく、武器を持った敵には勝てないだろう。じつはそんな最期を遂げた武将は意外に多い、その経緯について調べてみた。風呂で暗殺されるというのは武士の世になってからはよくある話らしい。武士は普段から刀を持っていたが、さすがに風呂に入る時は置いていたからである。

まずは『源義朝』、鎌倉幕府を開いた源頼朝の父である。平安時代末期(1123年)に生まれ、河内源氏の大将として活躍、父・源為朝との戦いでもあった保元の乱に勝利、しかし、平清盛との格差に不満を持ち、平治の乱を起こすが敗れてしまう。
敗走し、尾張国野間に乳母子の鎌田政清と政清の舅・長田忠政に身を寄せた。しかし、恩賞目当ての忠政父子に入浴中に襲撃を受けて38歳の命を落としたとされている。(平治物語)

2人目は鎌倉時代の頼朝の急死後に二代将軍になった源頼家である。18歳で将軍となっが、独走し、さらに実朝の後ろ盾となった北条氏から恨まれ、頼家の後ろ盾となった比企氏を滅ぼされた頼家は伊豆の修禅寺に幽閉されてしまう。そして1204年に北条の兵により、入浴中を襲われ、激しく抵抗するも殺されてしまった。愚管抄には刀さえあればと強く悔やんだとある。

風呂で殺されたということで最も有名なのが、太田道灌である。江戸城を作り、江戸の開発をした道灌は優秀な武士であった。摂津源氏(源三位頼政の流れ)を組む源広綱を祖とする名門の出で、扇谷上杉氏の重臣として仕えていた。太田道灌の活躍もあり、30年にわたる関東の戦乱を終わらせることができた。しかし、主君の上杉定正は道灌が自身以上に力をつけてきたことを恐れていた。

1486年8月、わずかな手勢と糟屋の館(現在の神奈川県伊勢原市)に入った道灌は湯を馳走されるが、風呂の小口で定正の手下である曽我兵庫に槍で刺され、『当方滅亡(扇谷上杉氏は滅亡するの意)』と叫んで殺された。その言葉通り、扇谷上杉氏は力を失い、北条氏康に滅ぼされたのである。

この3人の武将は風呂で殺されたのであるが、一方で斬り合った場合に武勇に秀でて殺すことが難しかったということもあったのであろうか。本人にとっては腹立たしい最期となったことは容易に想像できる。