『東京の坂、日本の坂』その198、泉岳寺駅周辺の坂②。洞坂から桂坂まで戻り、坂を降りていく。第一京浜との交差点のところに高輪海岸の石垣石が展示されていた。


これは区の1995年の発掘調査で見つかったのだが、高輪海岸に沿って3段に渡り築かれていた石垣に使われた石である。


左に曲がり、バス停(高輪北町)を発見、先ほど歩いた坂を再び登るのも疲れるので魚藍坂下までバスに乗ることにする。具合よく3分でバスが到着、4つ先まで乗車。

魚藍坂下まで行き、ここから今来た坂道を登る。この長くて険しい坂が『魚藍坂』、坂の途中に魚藍観音を祀った魚藍寺があるためという。


坂道を登ると左側にはお寺が並んでいて日本における三味線の始祖とされる石村近江という人が眠る大信寺をはじめ、寳徳寺、その奥に清久寺などが続く。


朱塗りの山門があるのが魚藍寺、もちろん本尊は魚藍観世音菩薩であり、1652年に創建された古刹である。本殿にお参りするが、ほかにも薬師如来などが祀られている。


坂上が『伊皿子』交差点。さらに先に登る坂が『伊皿子坂』である。伊皿子とは面白い地名と思っていたが、坂道の案内板には『中国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝わるが、他に大仏(おさらぎ)がなまったとも言われる』と書かれていた。


この辺りの土地の旧町名は伊皿子町。1909年10月1日の報知新聞の『芝伊皿子の名の由来』の記事がネットに乗っていてその内容は『この地にあった長応寺が移転する際に明からの渡来人の墓が見つかった。

江戸初期に明からの渡来人が7人住み、人々がエビスやイビスと呼んだため、うち1人が自らを伊皿子(いびす)と名乗った。1662年に彼が亡くなり、丘の下に葬られた』さらに『伊皿子は地域の主要人物だったため、寛文年間に江戸町奉行が上高輪村の一部を伊皿子と命名した』とある。はっきりはわからないが明からの渡来人である伊皿子に因む名前なのであろう。

伊皿子の交差点を三田方向に歩く。二本榎通りと名付けられた通りをしばらくいくと右手に大きな公園が現れる。三田台公園と名付けられており、中に入ると伊皿子貝塚遺跡を記念して作られたものである。


伊皿子貝塚遺跡はNTTビル建設のため、今は壊されてしまったが、1978〜79年に詳細な発掘が行われ、その様子を公園内に展示してある。また、竪穴式住居も造られ、当時の人々の生活がわかるように模型も作られている。


通りを反対に渡り、少し行くと右に分かれる道が出て来る。下り坂がずっーと続くが、これが(三田の)『幽霊坂』である。


都内に幽霊坂はたくさんあるが、これだけ近い位置に同名の坂があるのも珍しい。
再び二本榎通りの反対側に亀塚公園が現れる。公園の中に入って行くと左側に間違いなく古墳だろうと思われる築山が見えて来る。(以下、次回)