『日本橋七福神を巡る』⑦、7社目は末廣神社、笠間稲荷神社東京別社からは人形町駅方向に向かい、一本左側の道沿いにある。間口の狭い本社はまさにビルの谷間でこの場所だけ昔の町が残されている。
末廣神社は1596年には鎮座していたという記録がある。江戸時代初期のこの周辺は沼地でこれを庄司甚右衛門らが幕府の許可を得て開拓、江戸町1、2丁目、京町1、2丁目と定めた。そして江戸で初めての遊郭『葭原(吉原)』と呼び、本社を鎮守とした。
しかし、1656年に明暦の大火で焼失、今の浅草に遊郭は移転した。街の繁栄はその後も変わらず、難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の氏神として信仰された。今の社殿は1947年に再建されたものである。
末廣神社が近づくと周辺にたくさんの人がいて参道から外れた横まで人が並んでいる。ランチの時によく近くを通っても誰もいないはずなのにと警備員に聞くと、直前にテレビで紹介されたらしい。
やむなく列の後ろにつき、お参りをする。また、社殿に祀られている毘沙門天像は寅の日には開帳されるとのことであった。
御朱印は神社のものと毘沙門天のものの2種類があり、頂く。参拝に並んでいると境内には『養母世稲荷』が祀られている。これは旧高砂町にいた徳の高い女性を祀ったものである。
彼女は助産婦をしながら、働く女性のために子供を預かり、親から見捨てられた孤児の面倒をみるなど多数の女子供を助け続けた。この女性が亡くなった後に人々が稲荷社を建て、今も子供と女性の守り神として信仰されている。
さらにその奥には赤字で石に彫られた『は組』の石碑がある。これは多くの火消しがいた火消し屋敷(現代の消防署的なもの)が浜町にあり、火事の多かった江戸では彼らへの信仰が篤かったと思われる。
小さなお社ではあるが、街の人から強い信仰を集める神社、徳の高い人たちも崇められているのである。
七福神もあと残すところ1社、水天宮です。