hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

つくばエクスプレス その1

2014-06-20 05:05:23 | 日記

鉄道シリーズ その68。首都圏新都市鉄道と言ってもピンとこない方も『つくばエクスプレス』『TX』といえば秋葉原~つくばの比較的新しい鉄道ということは分かるだろう。第一回はその建設に絡む話。

実はこの鉄道は色々な失敗の上に今がある。もともと1978年に茨城県が『第二常磐線』構想を発表、その後茨城県による調査は進められて来たが、実際には筑波研究学園都市建設時点で東京と結ぶ鉄道駅を視野に入れた用地買収はされていた。

その後1985年の運輸政策審議会答申で『常磐新線の新設』という項目が作られた。しかし、当時国鉄は累積債務からとても鉄道建設の主体になりえず、1990年の関連自治体の協議で三セクを設立、2000年開業ということが決まった。

1991年に三セクは予定通り設立されたが、2つの問題が立ちはだかった。一つ目は用地買収である。茨城県内や地下を通る東京都は比較的簡単に済んだが、わずかに通過する千葉県柏市は収用委員会もなく、時間がかかることになる。 

もう一つは三セクの不良債権問題、当時、大阪や東京の三セクの借入が問題化する中で借入が難しいことが明らかであり、その運営資金をどう確保するかが問題化していた。特に東葉高速鉄道の場合は用地買収が困難を極め、会社設立が1981年だったにも関わらず、開通したのは1996年と15年もかかった。そのため、開業前の利払いなどで赤字が嵩み、今も800億円を上回る累積赤字に苦しんでいる。

一つ目の問題は結局開業が5年遅れ、また地下化する部分を増加させることで対応、二つ目の問題は関係自治体である東京、埼玉、千葉、茨城の出資分を最初から多くすることで切り抜け、2005年8月24日に開業した。

首都圏で最も新しい鉄道らしく、様々な機能、例えば高架部分と地下部分で大半を占めており、最高時速が130km/hである点やホームドア、ワンマン運転、曲面通過速度の向上など他の鉄道を凌駕するものが多くある。

来年で10周年になるが、当初より計画を上回る乗客数を誇り、2005年度の輸送人員が3469万人であったものが、2012年度は11066万人と3倍近くも増えて来ており、その沿線開発の凄さをものがたっている。

縁(えにし)~銀座グルメ

2014-06-19 06:50:29 | グルメ

最近は銀座通りを中心とする所謂『銀座』とい場所より昭和通り近くの住所のみ銀座というあたりが新しい店が増え流行っているらしい。今日、お邪魔した『縁』(えにし)もそんな店の一つ。最寄駅は有楽町線新富町、都営浅草線宝町といった感じである。

店は古民家風の3階だて、一階はカウンター、2階は椅子席、3階は座敷となっている。店の奥の階段をあがり、今日は2階で落ち着く。

最初はビールで乾杯、お通しは蕪と魚のあら煮に肝ソースが掛けたもの。なかなかうまい。最初にポテサラ、鶏皮ぽん酢、冷や奴を注文。ポテサラと鶏皮ぽん酢はふつう、特に鶏皮ぽん酢は量も少なく工夫の余地大。冷や奴は『だし』(山形名物、キュウリ、ナス、ミョウガなどを細かく刻み、昆布に付けたもの。)がかかっており、暑い季節には最高。酒は食べログクーポンで3人で1合半はサービスと聞き、豐盃(青森)を注文、やはりうまい。

次につまみは牛スジ煮込み、だし巻き、燻製盛り合わせを注文。その間に刺身盛り合わせが登場、マグロ赤身、イサキ、黒ハマチ、タコなどの盛り合わせだが、可もなく不可もなし。酒は風の森(奈良)を注文、よく削ってある割りに味がしっかりしている。

先ほどの3品はなかなか美味い。少し濃い目の味付けがついつい酒がすすんでしまう。燻製盛り合わせはレバー、たらこ、チーズなど少しずつつまむのにいい。其の後に注文した夏野菜の煮物と生ハムもラタトゥイユを思い起こさせ、野菜の甘みを楽しむ。

酒はあたごのまつ(宮城県)、幻舞(長野県)などなかなか好みの銘柄が多く、2/3合ずつ飲むと次々いって良くない。ただ、残念だったのはチェイサーの水がイマイチ。漬物もあまり好みではなかった。
ここで少し腹に溜まるものと肉吸いそばを注文、大きな丼に肉と沖縄そば、カツオだしがなかなかいい。豚の炙りも食べたが、アッサリしていた。接客も気持ちがよく、また足を運んでもいいなあと思った。まあ、今日は食べ過ぎの飲み過ぎである。

縁(えにし)
中央区銀座1ー22ー12
0355799686

飛露喜(福島県)

2014-06-18 06:36:52 | 日記

新シリーズ『きまぐれ酒蔵散歩』その1。今までに日本を旅する毎に色々な酒蔵巡りをして来た。好きな酒、気になる酒、懐かしい酒、色々あるが、酒蔵の対応も様々。予約もしないのに蔵の見学だけでなく、説明もしていただいたN酒造、近くから電話をしたら、来ないで欲しいと言われたK酒造。色々な対応があるが、その酒の故郷を観たい思いでついいってしまう。

まず、第一回は福島県の廣木酒造である。今でこそ有名な『飛露喜』の製造元だが、かつては苦しい時期もあったと聞く。透明感がある中にじっくり旨みのある独特な酒は今では入手困難な銘柄の一つとなっている。

訪ねた場所は福島県会津坂下町、これを『ばんげ』と読める人はよく知ったお方。この辺りには観音様が多く、そのついでに昨年5月に訪問した。もちろん車でいったが、鉄道ならば駅は只見線会津坂下駅で下車、15分ほど歩いた所に酒蔵はある。しかし、滅多に気動車はやって来ることもなく、駅は静けさの中にある。(ただ、駅のスタンプはある。)
そして、よくある街道沿いの滅多に人が通らない静かな町の中心に廣木酒造がある。地元用の『泉川』という銘柄と出荷用の『飛露喜』を作っているが、地元の酒屋でも滅多に入荷しないとこぼしていた。

建物や蔵の、昔ながらの佇まいは実に素晴らしいが、そのガラスの戸には『飛露喜は完売しました。』の文字、折角だから話だけでもしようと思ったが、昼どきで人もおらず、写真だけを撮って帰る羽目に。

でも、会津にはほかにも良い酒が沢山あり、左党がいって、自分好みの酒を探すなら、若松の『会津酒楽館』(渡辺宗太商店)がなかなかいい。


浄瑠璃寺(京都府木津川市)

2014-06-17 05:00:00 | 日記
古刹を巡る その15。今回は浄瑠璃寺を取り上げる。浄瑠璃寺を訪れたのはもう2008年の春、奈良の寺めぐりの途中である。場所は京都府木津川市ではあるが、奈良からいったほうが近く、この寺と岩船寺は近くにありセットで回ると良い。駐車場からのどかな風景を見ながら寺に向かうと唐辛子やら山菜、佃煮、梅干などを参拝客・観光客に売る露店がいくつかある。どの店もおばあさんが品物を並べており、愛想もよく、サービスもなかなかである。この当尾(とうの)の里の周りには石仏群が有り鎌倉時代に作られた石仏・石塔が点在、笑い石仏などがあって面白いらしい。

浄瑠璃寺の創立は寺伝では1047年に義明上人により本堂が建立された。当初からの本尊は薬師如来で次号も薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界に由来する。そして1107年に建立された新本堂が今の本堂と言われている。境内は往時の浄土の理想郷を思わせる浄土式庭園を形成しており、寺の中心の池は興福寺の僧・一乗寺恵信がほったもので、中央に小島があり、弁財天を祀る祠がある。池の東には薬師如来を安置する三重塔、西岸には阿弥陀如来を安置する本堂(九体阿弥陀堂)が位置する。池の反対側から本堂を見ると中央の阿弥陀如来の顔は見えないが、池に映った姿を見ると顔も見え、池に映して見ることで極楽浄土の世界を見るように設計されていたらしい。寺に入っていくと三重塔が見え、次に池が見える、そしてその先に本堂、そして寺務所から阿弥陀堂に入っていく仕組みである。

本堂も国宝で中に九体の阿弥陀如来坐像(国宝)がやや薄暗い中に横一列に安置されている。反対側は自然光が入るのではと思われ、開け放てばイケから仏像が見えるようになっている。また、九体の仏像の中で真ん中に位置する中尊のみが大きい。これは11~12世紀の白河院・鳥羽院の時代に数多く作られていた阿弥陀堂で『九品往生』の考えに基づくものだが、今は当時からのものはここにしか残っていない。九体の阿弥陀像は9種類の印相を結ぶものとの書物もあるが、この9体のうち中尊のみが来迎印、残りの8体は弥陀の印を結んでいる。時代については平安~鎌倉のものらしい。定朝様の平安貴族好みの穏やかで丸顔の仏様である。ただ、とにかく素人目でもこれだけの仏像が一列に並んでいるだけでもとにかくありがたいものと感じることができる。当時の人々はさらに素晴らしいものと感じたことは間違いなく、東寺の立体曼荼羅ではないが、極楽浄土を再現しようとしたことは間違いない。また、四天王像も国宝であり、間近に見ることが出来るだけでも感動ものである。厨子入りの吉祥天立像も素晴らしい。

また、三重塔も国宝、三軒三重塔婆、檜皮葺き。京都一乗大宮から1178年移築された、可愛らしい三重塔である。平安時代には寄る、阿弥陀堂打ちに灯火を入れて、塔の石段から池に映える九体の金色の輝く仏像を拝したと伝えられる。当時、まだ真っ暗であった夜に微かな光で仏像を拝したらさぞや神々し方であろうことが想像できる。なお、この三重塔の薬師如来坐像は特別な日にしか公開されず、小生も見ることはできなかった。

そう言えば寺務所にいた人懐っこい猫どうしているだろうか。紫陽花も素晴らしいと聞いて、また行ってみたくなる古刹である。

象潟(秋田県にかほ市)

2014-06-16 05:05:00 | 日記
『日本の風景再発見』シリーズ その6。今回は秋田県にかほ市にある象潟を取り上げる。まず、『にかほ市』であるが、あまり馴染みのない名前かも知れない。にかほ市は平成17年10月にいわゆる平成の大合併によって出来た市でそれまでは仁賀保街、象潟町、金浦町の3町であった。位置は秋田県では最南端の海岸沿いの市である。象潟を『きさかた』と読むことができる人は中学時代や高校時代に芭蕉をよく勉強した人だと思う。というのは松尾芭蕉が奥の細道を書いた1869年当時は太平洋側の松島と並ぶ風光明媚な場所であり、『松島は笑うがごとく、象潟は憾む(うらむ)が如し』と書いていり、『象潟や雨に西施がねぶの花』と詠んでいる。ちなみに『西施』は中国の伝説的な女性で紀元前5世紀、春秋時代の人、『ねぶの花』はネムノキの薄ピンクに咲く儚い花のことである。


この部分を読んで2006年に奥の細道の有名な場所『松島』『平泉』『尿前の関』『最上川』などを巡り、また佐渡に行った際に『出雲崎』には立ち寄ったが、なかなか象潟には行く機会がなかった。ちょうど『きらきらうえつ』で北上した機会を捉えて訪問したもの。元々は鳥海山が噴火して、発生した小規模な山岳崩壊による流れ山が日本会に流れ込み、浅い海と多くの小さい小島を作った。そして小さな小島には松が生い茂り、松島のような(同じではないかもしれないが)地形を作った。江戸時代までは名所として有名だったが、1804年の象潟地震で改訂が隆起し、陸地化した。その後干拓により平地は水田化されて、すべてが水田化されようとしたが地元の寺の住職が保存運動を行い、今の姿にとどめたものである。

そのため、今も102の小島(のあとで小高い部分)が点在しており、水田の中に小高い場所が有り、そこに松が生える独特な風景となっている。
行った当時は夏のさなかで鳥海山、海には遠く飛島が見えるものの地表では水田の中にこんもり丘のある田舎という感じだった。しかし、素晴らしい風景は道の駅『ねむの丘』の展望塔から眺めるよくわかる。確かに松を頂いた島が点在するのがよくわかる。そして係りの人に聞くと年に一回だけ田んぼに水を入れて田植えをする頃だけ昔の風景を彷彿させる水の中に小島が点在するようにみえるとの話を聞いた。この風景を残した住職に感謝するとともに、田植えの時期に再訪してみたいものだ。


日本の鉄道の電化~戦後編

2014-06-15 06:31:28 | 日記

鉄道シリーズ その67。『日本の鉄道の電化』戦後編。戦後になるとエネルギーの状況が一変、石炭価格が高騰したこともあり、加えて輸送力増強が1950年代に叫ばれたことから全国的に電化の機運が盛り上がった。

東海道本線は1956年に残された米原~京都が電化を完了し、ほぼ同時期に長岡~新潟の電化も完成、上野~新潟で特急ときが運転された。その後山陰地区を除く本州、九州は電化が進められていくが、一方で北海道と四国は電化区間が一部に留まった。


こうして大都市圏を中心とした電化の進捗率が高い地域と地方の非電化がそのままとなった地域が混在する状況となり、気動車の燃費など機能の向上もその拍車をかけた。

その結果、奈良・大阪・神奈川・東京のように全て電化されている都道府県がある一方で、路面電車の土佐電気鉄道以外は非電化の高知県や全く電化区間のない徳島県などこれだけ均質化が進む中で両極端な状況にあるのは面白い。

また、電化後のメンテナンスコストが耐えられず,電化を廃止した名鉄八百津線やくりはら田園鉄道(ともに廃止)などの例もある。くりはら田園鉄道は実際に乗りに行ったが、途中駅の若柳駅の待避線に今は使えなくなった電車が放置されていた姿が痛々しかったのを思い出す。



紫陽花

2014-06-14 04:50:49 | 日記

入梅以来これだけまじめに毎日雨の降ることも珍しい。通常は入梅したが、雨が降らずいつになったら雨が降るのかと言って雨が降るものだ。

その中でひときわ美しくなってきたのがアジサイである、毎日出勤の途中で美人コンテストをしているように色々な意匠、色合い、種類がきそいあっている。
有名な話だが、敢えて言うとあの花のように見えるのはガク(萼)で本当の花は真ん中の小さい部分である。

この花は日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカなどでも咲いており、鑑賞用に品種改良されている。原種はヤマアジサイまたはガクアジサイと呼ばれ、花は一斉に咲かない。

また、萼の色はアントシアニンの一種デルフィニジンが含まれている。色は土壌のph(酸性度)により決まるので『土壌が酸性ならば青、アルカリ性ならば赤』と大まかに言われている。

東京にはアジサイの名所は多いが、京王井の頭線や江ノ電、箱根登山鉄道のように車窓からみるのもまたいい。もちろん出勤の途中に傘を差しながらもホッとさせてくれる姿もまたいい。本当にアジサイは雨がよく似合う。


サッカー切手~日本

2014-06-13 06:21:11 | 日記

切手シリーズ その27。いよいよ12日から(日本時間でな13日)サッカーワールドカップブラジル大会が始まる。日本は15日10時(日本時間)が初戦のコートジボワール戦だが、この国には子供の頃の不思議な思い出がある。というのは小学校の頃に使っていた地図帳に載っていたアフリカの地図に、周りの国はギニアやスーダン、エチオピアなどカタカナ表記ばかりのなかでこの国だけは『象牙海岸』と漢字で国名が書かれていた。この国は1960年の独立前から象牙海岸とよばれており、公用語のフランス語(レピブリック・ドゥ・コートジボワール)を直訳して英語圏Ivory Coast(アイボリーコースト)、日本や中国では『象牙海岸』と表記していたらしい。もちろん、いまはコートジボワールとしてもらいたいというこの国の要請を受けて、象牙海岸とは書かないようだが。

話はそれたが、日本の切手にサッカーが登場したのは意外に古く1950年10月発行の第5回国民体育大会の4枚のうちの1枚。(左下の切手)それでも球技の図案の国体切手では第2回のバレーボール、第3回の野球、第4回のテニス(1回は切手が発行されず)につぐものである。

次に採用されたのは1964年(切手の発行は6回に分けて1961年から開始)の東京オリンピックの切手の第6次の図案(1963年11月発行)である。

再度、国民体育大会の切手に登場したのが、1974年の第29回茨城大会である。もう一回は2003年の第58回静岡大会である。

そして2002年5月に日韓共催で行われたワールドカップの記念切手がだされた。これは80円切手が出された以外に全国版の黄色のシート、会場版の赤色のシート(会場名の入った10種類、決勝と準決勝の3種類)が発行されている。


さらに2010年のワールドカップ南アフリカ大会では400円と1600円のシートが発行された。


もちろん、今回も発行されているのはご存知だろうか。5月12日に公式トロフィー、公式マスコット、公式エンブレムが各3枚、82円×3の小型シートが発行されている。

あまり、記念切手ばかり発行するのがいいかは分からないが、民営化の特色ではある。

日本橋兜町

2014-06-12 06:32:42 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その7。日本橋兜町を取り上げる。ものをあまりよく知らなかった頃は東京証券取引所があるので『兜→株』だから兜町と付いたと本気で信じていた。

しかし、前にこのブログでも取り上げたが、兜町は平将門が兜を埋めて塚にした所を兜山と言ったことがその由来で、その地に祀られたのが兜神社である。ただ、兜神社の由来は源義家が東北征伐に行く途中で暴風雨に会い、鎧を沈めて龍神に祈り、同じ場所に帰途兜を埋めて塚を作り、神を祀ったという故事を縁起とするものもある。


この辺りは元は沼地だったが、江戸時代に江戸城築城のために埋め立てられ、大名屋敷が立ち並んだ。明治に入り、三井家などが恩賞として受け取り、今の『兜町』の名を付けた。渋沢栄一を中心に1871年に第一国立銀行、1878年に東京株式取引所(現、東京証券取引所)が設立され、周囲には証券会社や銀行が軒を連ね、今の金融の町となった。



しかし、僅か10年程度であるにあれだけあった証券会社の数は激減し、また、今は場立ちもコンピュータ化によりいなくなったため、その様子はかなり変わってきた。ただ、その中でかつて人で溢れかえった喫茶店やうなぎ登りと縁起を担いだ鰻屋などはまだまだ残っている。今は株や債券と関係ない会社もかなり増えて来ており、沼地→武家屋敷→金融界→?と変遷を続けていくのかも知れない。

また、かつては楓川という運河が兜町から京橋まであったが、首都高速環状線になってしまい、今は埋め立てられてない。ただ、当時の橋の中で海運橋だけが、欄干のみこの町には残されていた。



クールビズとシャツの雑学

2014-06-11 06:35:26 | 日記

クールビズがかなり浸透してきているが、小生が銀行に入った30年前頃はなかなか半袖のワイシャツを着るにも勇気がいった。その後も夏になってもネクタイ、スーツは当たり前、なんとかならないかと思ったらいつの間にか5月に入るとネクタイすらしなくなった。

実はクールビズは2005年当時の環境大臣に就任した小池百合子議員が小泉首相に進言したのがきっかけらしい。その前に第二次オイルショックの1979年に省エネルックが提唱され、羽田孜が着ていたが、定着しなかった。しかし、今回は室温28度とセットにしたせいか、6月から9月末までのこの習慣は定着した。さらに東北大震災の影響から2011年より5月スタートになり、10月末まで、つまり半年はネクタイをしなくなった。これは営業マンにとっては大変ありがたい事件である。

ところでついでにシャツについて調べてみるとなかなか面白い。まず、Yシャツは和製英語、元はホワイトシャツが語源、外人風に発音するとなるほどホワイトシャツになる。

次に『カッターシャツ』のカッター、これはミズノの商標だが、1918年にミズノ創業者の水野利八が『第一次世界大戦に勝った』からカッターシャツと名付けたのだそうだ。

さらにホンコンシャツ、最近はあまり言わなくなったが、開襟シャツのことで、その名付け親はVANの石津謙介。蒸し暑いイメージの香港を付けたところ大ヒットしたもの。

最後に『ボタンダウン』はカジュアルシャツの代表でクールビズには欠かせないが、これはブルックスブラザーズの創業者ジョンブルックスがポロの際に襟が風でバタバタしないようにボタン止めした選手を見て考案したらしい。シャツの名前は有名人が名付け親となっているのには驚いた。