hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

日本橋本石町

2014-09-20 07:46:36 | 日記

日本橋街巡りシリーズ その11。今回は日本橋本石町。場所は旧日本橋區の西端で南は八重洲、東は日本橋室町、北と西は千代田区となり、地下鉄は三越前駅が域内にある。

ご存知のとおり、江戸時代にはここの辺りに金座があり、その跡地に日本銀行が立つ。街の名前の由来は米問屋が多く立ち並ぶため、穀類を数える単位である石から『石町』と呼ばれたが、神田に新石町ができたため、本石町と呼ばれるようになったらしい。

日本橋本石町は1~4丁目に分かれているが、1丁目には日銀貨幣博物館とMUFJ、東洋経済、三菱樹脂しかない。


2丁目は日本銀行本店だけ。


3丁目はセントラル短資や山口銀行など。4丁目は常盤小学校と小規模なビルというのが、実情でコンビニや牛丼チェーンの店はあるが、民家は今回見た限りでは見当たらない。



街歩きをしていても居酒屋や民家がないところは日本橋地区には今のところ他に見当たらず、10あまりの街を見て来たが、あまり書くこともない。


多分、日本橋の街の中で一番変貌してしまった町なのかもしれない。そして、やっぱり居酒屋のない街はあまり魅力を感じられない。

第3次昭和切手

2014-09-19 06:13:09 | 日記

第3次昭和切手とは昭和20年4月以降に発行された普通切手、滝野川の印刷局の工場が空襲で全焼したため、止む無くかなりの種類(一部高額切手を除く)を民間会社に印刷を委託して発行した。印刷も凸版平面版印刷や平版印刷で紙も質が悪く、目打や裏糊がない粗悪なものとなってしまった。

特に有名なのは10銭の敵国降伏の勅額を描いた切手。昭和20年4月に発行されたものは灰色で発行、当初は目打ちもあったが、5月発行からは無目打になった。さらに印刷色を水色に変えて印刷したのだが、実際の発売前に終戦となり、未発行切手となった。しかし、戦後の混乱からか一部収集家の手に渡り、未使用のみ存在する切手である。

他にも5銭の『旭日と戦闘機』、3銭の『盾と桜』などで10銭の『富士山と桜』は昭和20年10月31日発行と実は戦後最初に発行された切手である。
この『富士山と桜』の図案の切手を1次から3次までの3枚を比べて見たい。

最初は1940年(昭和15年)2月発行の20銭切手『富士山と桜』である。凹版印刷で外信書状用に使われたもので丁寧な仕事がなされた切手である。

次は1944年(昭和19年)1月発行の20銭切手『富士山と桜』で図案が大幅に簡素化、凸版で発行されている。

最後が1945年(昭和20年)10月発行の20銭切手『富士山と桜』である。図案は大幅には変わらないが、平版で目打も裏糊もない。粗悪な印刷であり、当時これが精一杯であったと思われる。このように切手一つ取っても戦局の悪化や混乱がよくわかる。


寒天デザートに挑戦~その2

2014-09-18 05:37:44 | 日記

寒天をつかったデザートに挑戦、第2弾。友人のO氏からたくさんのブドウを貰ったが、よく熟れているので果実だけで食べる以外に簡単にデザートで食べる方法を考え、寒天を作ることを思いつく。

しかし、夕食までにあまり時間もないため、今回はテングサを煮出すのではなく、止む無くブドウのフレーバーの入った粉寒天を使うことにした。

まず、ブドウを剥くところから開始、実は一つずつ皮を剥き、種を取る。これが時間がかかるが、丁寧に行う。それにしても種が2つのものと1つのものがあるのはなぜだろう。

次に、寒天の粉をボールに開けて、ブドウの汁と赤ワインを少々、これに80度のお湯500ccを注いでよく溶かし、ブドウの実を5~6粒入れておいたカップに注ぎ、粗熱を取り、あとは冷蔵庫で冷やすだけ。ブドウを剥く時も含め30分で完成する。 

粉寒天100g1袋で7つのカップにブドウ寒天が完成。夕食後早速食べてみたが、やはり伊那食品工業は凄い、硬さも適当でブドウの実も甘く極めて美味い。贈ってくれたO氏と農家に感謝する次第。
つぎはトコロテンにでも挑戦するか。

西馬込駅

2014-09-17 05:37:03 | 日記

『metroに乗って』その3。今回はこの企画では初の都営地下鉄、浅草線の終点である西馬込駅を取り上げる。よく都営浅草線の南側の終点を品川駅と勘違いしている向きも多いが、泉岳寺~品川は京浜急行の路線で終点はここ西馬込である。

駅の歴史は古く、開業は1968年だから46年になる。この駅の先には都営地下鉄の検修場があるのみで(元は車両工場があったが、2004年に廃止)ある。駅から地上にあがると目の前に第二京浜が走り、そこから直角に馬込文士村商店街が広がる。

周辺には(といっても歩くと11分かかるが。)池上本門寺以外に有名な名所もなく、正直なぜここを地下鉄の終点にしたのかという疑問が沸いてくる。


気を取り直して、商店街に戻り、先にいくとまず左に『夢告観音』が祀られているので手を合わせる。

さらに先にいくと左手に湯殿神社、先週の土日はお祭りだったようである。(山形県の湯殿山神社との関係は不明だが、江戸時代は羽黒権現社と呼ばれたらしい。)

その先の馬込桜並木通りを横切り、左手を見ると何と畑⁈、里芋とネギが植わっている。ここは確か大田区のはずだが・・・?


周辺にマンションや商店が途切れると大邸宅が点在、さらに坂を少し登ると右手に大田区郷土博物館。


ちょうど『馬込文士村』の企画展を開催中。馬込文士村とは関東大震災後の大正後期から昭和にかけて都下荏原村に芸術家に混じり、文士達が集まり移り住んだ地域の呼称で今の地域表示では大田区馬込・山王・中央辺りの一帯である。早速、博物館の中に入り2階に上がると馬込文士村にいた人々のプロフィールや大田区との繋がり、住んでいた場所などを詳しく説明。それを一つ一つ見ていくが、まず、その数に驚く。尾崎士郎、広津和郎、川端康成、和辻哲郎、室生犀星、高見順、子母澤寛、稲垣足穂、藤浦洸、萩原朔太郎等著名な文士や芸術家が満載で、今をときめく村岡花子もこの近く(大田区中央)に居を構えていたようである。無料でこれだけの展示が見られるとは、勉強にもなり、また尾崎士郎のスケッチなど感動ものである。

見学を終え、登り坂を回避して、もときた道を西馬込駅まで戻るが、やはり何故ここに都営浅草線の終点があるのかはわからぬ仕舞いだった。噂によれば池上線か目蒲線と接続する案も無いでは無かったが、なかなか東急や京浜急行との調整が付かず今の姿になったらしい。

それでも地下鉄のあまり下車したことのない駅には発見がやはりあった。

酒のなかがわ

2014-09-16 05:42:06 | 日記

三鷹・武蔵境周辺には中々いい酒を扱う酒屋が多い。日頃は宮田酒店によく行くが、今日は少し足を伸ばして武蔵境駅北口から5分程度歩いた静かな住宅街にある『酒のなかがわ』を訪問。入口の幟が作と風の森というなかなかの取り合わせ。

店にはいると若いご主人が迎えてくれる。先ほどの2銘柄以外にも、ちえびじん(大分県)、七田(佐賀県)、奈良萬(福島県)、九郎右衛門(長野県)、神亀(埼玉県)、雨後の月(広島県)、辻善兵衛(栃木県)など素晴らしい品揃え。


さらにこの店が凄いのは『風の森』という一つの銘柄でも(1)絞り方/『しぼり華』『真中取り(中どり)』『いかきとり』、(2)酒米/山田錦・雄町・秋津穂と酒米により幾つもの組み合わせがあるが、そのバリエーションもかなりのしゅるいが揃っていること。


同じく『作』もプロトタイプM、H、N、Gの違いを教えていただいたり、店にいるだけでみんな欲しくなる酒ばかりの店である。


なかなかどの酒にするか決まらず悩んでいたが、結果、風の森(純米吟醸 雄町)と作(プロトタイプG)を購入した。

(他の人のブログに載っていたこだわりのおにぎりやさんは今日はあけていなかったが。)それにしても食欲の秋、美味い酒で長い秋の夜も楽しめそうである。

酒のなかがわ
武蔵野市境2ー10ー2
0422513344
日曜休

第2次昭和切手

2014-09-15 00:17:15 | 日記

切手シリーズ その29。第2次昭和切手が出されたのは昭和17年、それから昭和20年4月まで発行された。ご存知の通り昭和17年は第二次大戦に参戦した翌年である。そして開戦の影響を受けて物価上昇となり、昭和17年4月1日には郵便料金が引き上げられたため、切手も新たなシリーズに切り替えられた。 

この頃には対日禁輸策などにより、資材不足から目打ちも不完全となり、紙質の悪化やインキの不足なども深刻化、昭和20年ころには目打ちも裏の糊もなくなった。

第2次昭和切手の図案の一部は第1次と重複(乃木希典、東郷平八郎、オーロワンピ灯台、厳島神社など)しているが、例えば40銭のオーロワンピ灯台のように背景の一部がカットされるなど、当初の凹版から凸版平面印刷に変えた際に簡易に変更されたものがある。


また、新たな図案には公募の図案を積極的に採用し、15銭少年航空兵、10銭大東亜共栄圏、10銭敵国降伏の勅額や4銭八紘基柱や17銭靖国神社のように戦時色・神道色の強いものが加わった。

特に10銭の敵国降伏は福岡市の筥崎宮楼門にあり、元寇の際に戦勝を祈願して亀山上皇が書いたものである。まさに大戦での『敵国降伏』を祈念した図案だが、昭和20年4月に発行直後、印刷局滝野川工場が空襲で焼けて製造中止を余儀無くされた皮肉な切手である。

さらに印刷局滝野川工場消失後に作られた第3次昭和切手については次回解説したい。

日本酒Bar 川口酒店~日本橋グルメ

2014-09-14 07:25:50 | グルメ

今回の店は『日本酒Bar 川口酒店』、場所は日本橋高島屋の裏手にある。この店を経営しているのは老舗穴子料理店『玉ゐ』でその角を曲がった路地に入り口がある。(この店が玉ゐ)


店は一間少しの小さな店のように見えるが、奥行きはあり、鰻の寝床ならぬ『穴子の寝床』のような造り。

店に入るとすぐカウンター、1階は立飲みで今日は右手奥の階段で2階の一般席でゆっくり飲む。席は4人掛けが2つ、2人掛けが2つ程度のこじんまりした造り。定刻に到着するともう1人は到着しており、すぐにスタート。

まずはビールで乾杯。お通しは3品、穴子の縁側の南蛮漬け、釜揚げしらすのミョウガ和え、ゲソの粕漬けとそれぞれかなり凝っており、味もいい。これは期待できそう。

ついでカツオのタタキ、ミョウガ・ショウガ・青じそなどが乗り、ポン酢をかけて食べるが、このポン酢が絶妙。

酒はひやおろし試飲を注文、全10種から選ぶシステムで今回はいづみ橋(神奈川県)、川鶴(香川県)、御園竹(長野県)をチョイス、これが60mlずつ、しかもさっぱりしている方から順番に並べて客に供する。この時はいづみ橋が1番美味い気がした。


ここで穴子の肝の串焼き、鰻より脂がなく、少し硬いが、タレが甘口にしてあり、中々のもの。さらに穴子の白焼き、これにはワサビ・山椒・柚子胡椒が添えてあるが、柚子胡椒が好みだった。



そして、最後の1人がやって来て、また乾杯。酒も鳳凰美田(栃木県)、錫のしっかりしたタンブラーで供される。つまみは『サンマのなめろう』『舞茸天ぷら』『クジラのタレ』、何れもいいが、クジラのタレは温めてあり、酒に合う。

酒は東一(佐賀県)、なかなかしっかりした酒。珍味三点盛り(クジラのベーコン、カラスミの粕漬け、煮こごり)と穴子の七味揚げを注文。穴子料理は本当にどれを取っても美味いの一言。


最後に穴子の太巻きを食べたが、これは美味い。豪華版太巻きの海苔の代わりにふわふわの煮穴子が巻いてある逸品。いや、これは反則と言いたくなるくらい、旨さのコラボレーション。ボリュームもあり、2切れ食べて、あ~あ満足MAX。また来たい店が一つ増えた。

階下を見ると満員の立飲みコーナー、こちらもそそられるが、やはり小生はゆっくりやるのが好きである。とにかく、つまみは勿論、酒の種類とレベルが高い、あまり人に教えたくない店である。

川口酒店
中央区日本橋2ー9ー6
0362252850

こけら~下北沢グルメ

2014-09-13 00:05:29 | グルメ

今日の店に前回行ったのは2011年7月だから3年ぶり。場所は下北沢駅南口から茶沢通りにぶつかったら右折して約5分のところにある『こけら』。ご主人は地元の居酒屋で有名な魚真から独立した方らしい。

今日は娘と会社帰りに一杯。予約を直前にしたが、やはりほぼ満員で流行っている。

まずは生ビールで乾杯。やはり、魚が中心ということでまずは『骨せんべい』、わずか200円と侮るなかれ、鯵の骨が5尾、鯛の背びれが1枚、穴子の中骨が1本、それも揚げたてだからビールのつまみにぴったり、『ポテサラ』もカイエンペッパーが効いていい味。

ここで伯楽星(宮城県)を投入、『白魚の天ぷら』は軽く揚げてあり美味い。付け合わせのシシトウが激辛でビックリしたが。

ついで『おこぜの唐揚げネギソースかけ』、思っていたより魚が大きく、お徳感満載。味も醤油ベースに酢が効いて、ネギと良く会い、慌てて食べたため写真はなし。

ついで『出し巻き卵』ほのかに甘く、やはり外せない。さらに『毛蟹ハーフ』、剥いてあるカニをゆっくりほうばると外から秋風が吹き、秋の酒もいい。ここで酒はたかちよ(新潟県)の薄濁り、これは美味い。ねっとりしているが、甘くなく、酸が立ち、中々いい。つい気に入ってお代わりも。

最後に『いぶりがっこ、クリームチーズと酒盗乗せ』でゆっくり飲んでお開き。中々でした。


こけら
世田谷区北沢2ー3ー12
0334133231

東急大井町線

2014-09-12 06:12:58 | 日記

鉄道シリーズ その78。今回は東急大井町線。この線は名前が無くなったり、復活したりと紆余曲折を経て来た線である。

経路は大井町~溝の口の間12.4kmを結んでおり、途中、旗の台で池上線、大岡山で目蒲線、自由が丘で東横線、二子玉川で田園都市線と東急の主な線のうちで接していないのは多摩川線(多摩川~蒲田)、世田谷線(下高井戸~三軒茶屋)くらいなものである。(二子玉川~溝の口は田園都市線と並走)急行も走っておいるが、綺麗に大井町~旗の台~大岡山~自由が丘~二子玉川~溝の口と乗り換え駅のみ停車する。


この線は1927年に大井町~大岡山が開通、開通時から大井町線と呼称していた。1929年には大岡山~自由が丘が開通し、自由が丘~二子玉川間の二子玉川線を統合し、大井町~二子玉川を大井町線として全線開通した。しかし、1963年に溝の口~長津田の着工を機に大井町線を田園都市線に改称、大井町線の名前は一度消滅する。

その後1966年に長津田まで、1968年につくし野まで、1972年にすずかけ台まで、1976年につきみ野まで延伸した。その後、1977年に新玉川線開業後、二子玉川から先を渋谷から新玉川線と直通運転にして田園都市線と変更、大井町~二子玉川は大井町線として14年ぶりに前の名前が復活した。

その後、溝の口まで運転区間を伸ばし現在に至っている。

車両は主に急行用の6000系と各駅停車用の8500、9000系が運用され、特に後者は『大井町線』というステッカーを貼り、他の線と乗客が混同しないように工夫されている。

地味ながら東急各線を縦に結ぶ大切な役割を持った線で、しかも自由が丘や二子玉川といった一流の住宅地を結ぶセレブな線でもある。


第1次昭和切手

2014-09-11 06:14:14 | 日記

切手シリーズ その28。このシリーズも2ヶ月以上ストップしていたが、久々に再開。
切手や貨幣の図案はどの国でもその世相を反映するもの。日本切手の中でそれを強く感じさせられるのが昭和の普通切手であろう。戦前~戦後までの変化を何回かに分けて触れていきたい。
大正時代の通常切手は田沢切手、富士鹿切手、そして関東大震災後に慌てて作った震災切手、風景切手と変遷したが、風景切手、高額切手を除き、具体的な図案はあまりなかった。(風景切手は震災後、富士山、日光陽明門、名古屋城の3種類、高額切手は神功皇后の肖像が2種類発行)

昭和切手といっても発行は昭和12年だが、それまでは大正時代の図案の切手が発行され続けた。新切手は大幅に図案が変更され、高い印刷技術を駆使して、より具体的なものが描かれるようになった。

第1次昭和切手は昭和12年から15年までに発行された。その図案はバラエティに富んでおり、2銭乃木希典、4銭東郷平八郎、12銭航研機あたりには軍事的色彩がある一方で、産業的な図案の1銭稲刈り、3銭水力発電所もある。さらに10銭日光陽明門、14銭春日大社、25銭法隆寺、30銭厳島神社、50銭金閣寺、1円鎌倉大仏など歴史的な建築物が図案にしたものが多くを占める。そして、これらの一部は戦後も追放切手にならなかったもの(追放切手は後記)すらある。


しかし、そのなかで小生が注目するのは6銭オーロワンピ灯台と7銭クムガンサンである。実はこのシリーズには5銭上高地を含めて3カ所の景勝地が入っているが、うち2カ所が当時外地といった日本が支配をしていた台湾・朝鮮なのである。6銭切手の図案の『オーロワンピ灯台』はガランピとも言う台湾島最南端の灯台である。当時日本が帝国最南端と呼び、また、台湾八景にも数えられていたものである。

さらに7銭切手の図案の『クムガンサン(金剛山)』は当時日本領の旧朝鮮(現在、北朝鮮)にある景勝地。20世紀初頭までは不便であったため、訪れる人も少なかったが、朝鮮総督府が鉄道を整備してからは観光地化し、大いに栄えていた。最近では韓国人に北朝鮮が許可する金剛山観光が有名になった。

この2つの図案を採用した理由は朝鮮や台湾が日本領であることを知らしめるためであることは間違いないであろう。昭和12年は盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった年でまだ戦争が見え始めた頃である。しかし、切手の図案も細密で目打ちも裏のりもあり、戦争の足音はするが、まだ物資の余裕もあり、平和が残っていた最後の時代なのであろう。

しかし、第2次昭和切手では戦時色が一気に濃くなるが、その話は次回としたい。