切手シリーズ その31。今回は新昭和切手を取り上げる。昭和20年8月15日にポツダム宣言を受諾した日本は色々と変化が起きた。それを如実に表しているのが『新昭和切手』第1次~第3次に起きた変化であろう。
昭和22年7月にはGHQから軍国主義的或いは神道の象徴に関係あるとされた切手の使用が禁止された、これがいわゆる『追放切手』である。ただ、逆に考えると、それまでは従来の切手は使用できたことも驚きであるが。
第1次新昭和切手は昭和21年(1946年)8月頃より発行された。もちろん図案は戦闘機や軍人ではなく、平和を意識して歴史的な建物や絵画なが中心とはなったものの、未だに戦前の切手同様に『菊の紋章』がつき、『右書き』である。戦前と異なるのは『大日本帝国郵便』から『日本郵便』に変わったことくらいで、紙も灰白紙と白紙が混ざっており、目打ちもなく、低額切手は平版印刷と戦時下と変わらない粗末な切手であった。
しかし、次に発行された第2次新昭和切手からは一部糊付きになり、さらに目打ちも付いた。まだ、菊の紋章は残ったが、日本郵便も左書きに変わり、かなり落ち着きを見せて来ている。
その変化の中で典型的と云われるのが30銭の『法隆寺五重塔』の切手である。
第1次新昭和切手のものは『糊なし』『無目打』『右書き』である。(一部糊付きのものも後期に発行)
しかし、第2次新昭和切手にはバリエーションがあり、平山秀山堂という民間印刷会社に委託したものは、『ルレット』という押し抜き目打ちでアラビアゴム糊が付いたものとなっている。
しかも、それ以外にも同じく民間の凸版印刷が製造したものは分割目打ちという日本で唯一の目打ちのもの。
さらに日本郵便が左書きになったものと僅かな期間にいくつもの種類に分類され、収集家には好まれる切手である。それもこれも戦後の激しいインフレの中で切手需要に追いつかずこのような事態になった。
しかし、この辺りからさらにインフレが激しさを増して1948年には大幅な郵便料金の引き上げがあり、切手の図案も大幅に変わっていく。このあたりは次回触れて見たい。