hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

東芝浦橋、浜崎橋

2017-06-20 05:00:04 | 日記

『ぶらり橋めぐり』その49。今回は浜松町駅から芝浦運河にむけて歩く。駅から伸びている話題の東芝本社ビルの通路を通り、地上に降りて左手に向かう。かなり広々とした敷地を抜けると左手には公園、その先に芝浦運河に架かる橋が見えてくる。これが東芝浦橋である。


そうか、橋にまで『東芝』が入ってると思ったが、よく見ると橋の名前は『ひがししばうらばし』。芝浦運河の橋だからこの名前となったのだろう。橋の長さは46.6m、幅は9.5mと人道橋にしては幅が広い。


橋を渡りながら右手を見ると水門があるが、これが古川水門、古川と芝浦運河の境に位置する。古川の上流は渋谷川と呼ばれ、天現寺橋から下流の名前。ユニークな魚のイラストが描かれている。因みに古川の名前の由来は古くからあった川という単純なものである。

そして、東芝浦橋は合流地点で海岸通りの下を流れて海に向かうが、さらに下流にある橋が浜崎橋である。車を運転する人ならば渋滞情報で一度は聞いたことがあると思うが、ちょうどこの橋の上にあるのが首都高速道路都心環状線と羽田線の浜崎橋ジャンクションである。

高速道路の下には沢山の屋形船が並べられて係留されている。これより上流の古川の上にはずっと高速道路が走っているのである。(以下、次回)

中延駅

2017-06-19 05:00:25 | 日記

『メトロに乗って』その61。今回は都営浅草線中延駅で降りて歩いて見る。中延駅を降りると目の前に第二京浜(国道1号線)が走っており、その交通量の多さに驚く。


西馬込方向に歩き、二葉四丁目の交差点を反対側に渡る。すぐ右側には東急バス荏原営業所があり、多数のバス車両が整備を待っている。


この道は細いがバスも通り、次の交差点には歩道橋も完備。朝の通勤時間や通学時には車も多いのであろう。

その先を左に曲がると上神明天祖神社がある。立派な銅板が張られた鳥居をくぐり中に入る。

この辺りはかつて蛇窪村と呼ばれており、1644年に上蛇窪村と下蛇窪村に別れたのだが、昭和7年東京市に編入の際に神明社(現、天祖神社)に因み、上神明町と下神明町に改名されたものである。


神社の奥に行くと白蛇、龍神、弁天様を祀った社と池があり、その前に蛇窪の白蛇大神をかたどった像、さらに撫で白蛇の石像も置かれている。まずはこの願いを叶えてくれる白蛇様に仕事の成就をお祈りする。


今度は来た道を戻り、中延駅前の交差点を左に行く。すると東急大井町線中延駅の前に出てくる。少し歩き、右に曲がると『中延スキップロード』というアーケードの入口になる。

周辺では戸越銀座の商店街が有名だが、中延スキップロードもここから池上線荏原中延駅まで330mのアーケードが続く。


入口には肉屋、すぐ先には八百屋、さらにチェーン店ではない家電ショップなど珍しい店も沢山ある。


ただ、薬屋は閉めていて、さらにまいばすけっとや弁当のチェーン店、マッサージ、歯科医院などが幅を利かせ、昔ながらの商店は減っているのかもしれない。

しかし、シャッターを下ろした店は少なく、まだまだ庶民の味方の商店街は健在のようである。その先の荏原中延駅まで歩き、今日の散歩は終了した。

神田錦町更科〜神田ランチグルメ

2017-06-18 06:00:03 | グルメ

神田界隈を歩いていたら店構えの古いというか、歴史を感じさせる店を発見、提灯を見ると『神田錦町更科』反対には『5代目布屋堀井』とある。もしかして麻布十番にある更科系総本家『更科堀井』の分店かなと思い、暖簾をくぐる。


調べて見ると確かに麻布永坂町の更科堀井から最初に暖簾分けされた店である。創業は1869年、つまり明治維新の翌年ということになる。現在は四代目と五代目が暖簾を守っている。

店を入ると昭和レトロそのもの、美人の女将が迎えてくれる。1時半のため、先客は1組のみ。暑いので冷やし生姜天そば(1100円)を注文する。

女将さんが調理場に『冷やし生姜一丁』と声をかける。するとにわかに生姜を切る音、そばを茹でる様子が見える。次は油で揚げる音、そして7.8分で冷やし生姜天そばが運ばれてくる。

蕎麦猪口もあるのでつゆを取り、まずは蕎麦を一箸。機械打ちのため長い蕎麦だが、つゆの風味も良く、中々美味い。それにしても更科堀井本店に比べ、盛りがいい。


揚げたての生姜天は新生姜をきんぴらの様に細切りにしてあられの様に集め、衣を付けて揚げたもので富○そばの紅生姜天とは違い、塩味はしないが、辛みも風味も強い。揚げたての天ぷらに加え、三角に切った油揚げが3切れ、カイワレ、海苔がトッピングされている。もちろん、カリカリの天ぷらと蕎麦の相性がいい。


蕎麦の量も多く、たっぷりの具も入り一食で十分満足、最後の蕎麦湯もダシが効いて美味い。手打ちではないが、老舗の味を堪能しました。夜も良さそうだが、閉店は7時半、早く呑み始めるに限る店である。


神田錦町更科
千代田区神田錦町3ー14
0332943669

天守台と富士見櫓

2017-06-17 05:00:11 | 日記

『江戸城・皇居を巡る』その8。前回の続き、平川門から入り、梅林坂を上り、その先にある北桔橋門の前は広場となっている。その手前には石垣のみが残されているが、これが天守台である。

もちろん、今は天守閣はないが、江戸時代初期の家康から家光までの将軍時代には確かに天守閣は存在した。特に1638年に家光が将軍だった際に作られた元和の天守閣は江戸図屏風にあるように5層の天守閣であった。


しかし、1657年明暦の大火で焼け落ち、建設には取り掛かったが、4代将軍家綱の後見人であった保科正之が幕府財政が厳しいことも睨みつつ、天守閣はもはや無用であるとしてその後は建設されなかった。


天守台は東西41m、南北45m、高さ11mある。反対側に回るとスロープが付いており、回りながら登る。それほど高くはないが、上からの眺めは良い。ただ、登っても説明板とベンチがあるだけである。

目の前の広い園地は本丸跡、そして左側にあるのが桃華楽堂、これは1966年に昭和天皇のお后様にあたる香淳皇后の還暦を祝い完成した音楽堂である。


その前を通り、左手に歩いて行くと展望台と書かれている。ゆるい坂になっており、これを上がると前面が広がる。ここにはかつて御台所前三重櫓があったのだが、1863年の火事で焼失し、再建されていない。

すぐ下には白鳥濠がある。現在では高いビルがいくつも立てられているため、大手門が見えるくらいではあるが、江戸時代には海まで見ることができたのであろう。

元の道に戻り、右手に道が分かれる。これをしばらく行くと江戸城南端にあたる富士見櫓がある。その名前の通り、江戸時代には富士山が見えたであろう。今の富士見櫓は1659年に再建されたもので長く天守閣のなかった江戸城に取っては天守閣の代わりとも言える三重櫓である。


まあ、それにしても本丸は広いことを実感、最後は百人番屋の前を通り、大手門から退出した。


平川門

2017-06-16 05:00:17 | 日記

『江戸城・皇居を巡る』その7。今回は平川門を訪れた。東京メトロ東西線竹橋駅で降りて堀に沿って大手町方向に少し行くと右手に濠に架かる平川橋が見えてくる。


この橋が最初に架けられたのが1614年であったが、現在のものは1988年に架け替えられたもの。
その途中には江戸城550年の記念碑があり、その先が橋の入り口。橋の上からは竹橋がよく見渡せる。(なお、皇居東御苑は月曜、金曜は休みのため、入ることはできない。)


橋を渡ると警察官が手荷物検査をして中に通してくれる。平川門は高麗門、渡櫓門、木橋が揃っているが、これは平川門のみ。


平川門は不浄門とも言われ、大手門が表門であれは平川門は裏門にあたる。そのため、大奥女中の出入り、罪人や死人の出る門とされていた。ただ、罪人や死人は木の橋を渡ったのではなく、脇の小さな門から舟で濠を渡ったらしい。


平川の名前は門前に上平川村・下平川村があったためと言われている。門の中に入ると事務所があり、入る際にはプラスチックの入園票をもらい城内に入る仕組みとなっている。

中に入るとすぐに梅林坂があるが、これが結構きつい坂で坂の上には宮内庁書陵部(古文書を管理・保管や陵墓の管理をしている部署)の建物があり、右手が北桔橋門、その先は乾門となるようだ(乾門は一般には、入れない)(以下、次回)



あやめ、花しょうぶ、燕子花の切手

2017-06-15 05:00:13 | 日記

『切手シリーズ』その66。この季節に私のブログによく登場する花にあやめ、花しょうぶ、杜若(カキツバタ)があるが、この区別は中々難しい。よく言われるのは乾燥した畑などに咲くのがあやめ、少し湿ったところに咲くのがカキツバタ、水辺に咲くのが花しょうぶと言われているが、実はかなり区別は難しい。
というのはさておき、このあやめ類は日本切手にもよく登場する。

一番古いのは1961年6月に発行された『花しょうぶ』である。これには白と紫の二色の花が美しく描かれている。

次いで1962年6月の水郷国定公園の切手、船の前に花しょうぶが咲いている。

絵の中に描かれているのが1970年3月発行の日本万国博(第一次)の50円切手の尾形光琳作、『燕子花(カキツバタ)図屏風』である。

また、変わったところでは近代絵画シリーズ第13集に岡田三郎助作、『あやめの衣』がある。これはよく見ると女性が着ている着物の柄があやめなのである。

ふるさと切手にはたくさんあるので紹介は1つにしておくが、2003年5月の茨城県発行の『筑波山と水郷潮来のアヤメ』である。これは白無垢の花嫁さんが船で嫁入りをするのを描いたもので可愛らしい意匠である。

また、普通切手にも平成切手シリーズで1994年1月に420円切手としてノハナショウブが描かれている。

アヤメ類の切手は色々とあるが、その美しい姿は切手のデザインだけでなく、昔から絵画に描かれてきたことがよく分かる。まあ、個人的には紫色の花がすきなのでついつい気になってしまうのだが。梅雨の中で咲き誇る花しょうぶはいいものである。

あきば〜秋葉原ランチグルメ

2017-06-14 05:00:33 | グルメ

『あきば』というとついAKBと思うようになったのはいつからだろうか。元は旧国鉄が駅をこの地に作った1823年に『元は秋葉神社のあった原っぱ=あきばっぱら』、つまり『あきばはら』を駅員が間違えて『あきはばら』としたのがそもそもの経緯。つまり、駅名をそのまま略すと『あきは』だが、実は『あきば』が正しいのである。

いや、今回は鉄道シリーズではなく立ち食いそばの話だが、秋葉原駅から昭和通りを渡り、上野方向に歩くと飲食店、特に立ち食いそばが並んでいる。まずは富士そば、さらにその先には『みのがさ』という店、これも名店がある。これを通り越した先にあるのが『あきば』という店である。

前置きが長くなったが、店は新しいビルの一階、しかし中に入ると懐かしい雰囲気。特筆すべきは店の端に蕎麦打ちコーナーがあり、石臼も完備。ご主人が食べる分を打つ、三立て(挽きたて、打ち立て、茹でたて)の店なのだ。

一方、注文は券売機で食券を購入する。今回は悩んだ末に『冷かけたぬきそば』(410円)にしてカウンターのややお歳をめしたおばさんに渡す。すごく感じがよく、できたらお呼びしますと言われ席で待つ。立ち食いそばとはいうもののセルフサービスの椅子に座って食べる店なのだ。

5分ほど経過して『冷やしたぬきあがりました』の声。丼に盛られた蕎麦がトレイに乗せられたのを受け取る。丼をみると盛られた蕎麦に天かす、ワカメ、刻みネギ丼に共にモヤシも乗り、ワサビが添えられている。ワサビをツユにとき、まずは蕎麦を一口。さすがに三立てだけあって角の立った腰がある蕎麦は美味い。少し硬めかなと思ったが、ツユに浸しているうちにちょうど良くなる。

ツユはあまり香るわけでもなく、インパクトに欠ける。また、天かすは市販品、モヤシもあまり合わない。ただ、蕎麦はとても立ち食いそばとは思えない完成度で単なるザルか、天ザルにでもした方が良かったかも知れない。さすがに口コミで評判が良いのがよく分かった。

また、ご夫婦なのか、蕎麦の礼をいい、店を出るとご夫婦からありがとうございした、また、お待ちしていますの声。本当に好感の持てるお店であった。ごちそうさまでした。

あきば
台東区台東1ー10ー3

和泉橋

2017-06-13 05:00:52 | 日記

『ぶらり橋めぐり』その48。今日は神田川に架かる和泉橋を渡って見る。上には昭和通り、JR秋葉原駅から岩本町に向かう途中にある。

橋の歴史は古く、寛永年間(17世紀前半)には『いつみ殿橋』とある。橋の名前の由来は神田川の北側に藤堂和泉守高虎の屋敷があったためとも、高虎の創架によるためとも言われている。現在の橋は大正5年に作られたもので関東大震災前の古いものである。

橋のたもとには『既製服問屋街発祥の地』の看板。


反対側に渡ると『柳原土手跡』『和泉橋』について書かれた看板がある。橋の南側は大火の跡、火除け地にされ、さらに凶災に備えたお赦い米を入れる籾蔵が建てられていた。しかし、蔵が小菅村に移され、再び人家が立ち、さらに柳森稲荷が作られたため、繁盛した。しかし、関東大震災で焼失、その後は古着を売る店などができた。ただ、明治に入り土手も壊されて今に至っている。

橋のすぐ横には災害時用の船着場も作られ、喫煙所となっている。

ふと見ると古い石造りのオブジェのようなものがあるが、これは昭和8年に在郷軍人会により作られた国旗掲揚台だが、周りには説明板もなく、殆どの人はこの碑が何なのかもわからず放置されている。

戦前にはたぶんこのような国旗掲揚台が色々なところにあったのであろうが、今は人知れず朽ちるのみである。

一之江駅〜瑞江駅(2)

2017-06-12 05:00:35 | 日記

『メトロに乗って』その60。仲井堀親水緑道を歩くと500mくらいで終点となる。少し戻り、左手に向かうと新中川に出る。

ここには涼風橋という新しい橋が架かっているが、これは『すずかぜばし』と読む。2006年に出来たばかりの橋であり、確かに橋の真ん中あたりは涼しい風が通り、気持ちが良い。


隣の春江橋やひとつ先の瑞江大橋のような1960年に新中川ができた際に作られた橋よりデザイン性もかなり高い。

橋を渡ってしばらく歩くが、この辺りは全てがフラットで川と道路が平行になく、また、住宅街であることからどこに向かうのかが分からなくなる。

途中で見当を付け、左に曲がると大きな木が立ち並ぶ場所を発見、ようやく大雲寺に辿り着く。


大雲寺は1620年に天蓮社梵誉上人が二代将軍秀忠に浅草に寺地3000坪を拝領して創建した由緒ある寺であるが、1668年に焼失、さらに関東大震災で焼失して1931年にこの地に落ち着いたものである。

この寺は通称『役者寺』と呼ばれ、江戸から明治にかけての歌舞伎役者の墓石がまとまってある。


その名前は市村羽左衛門、坂東彦三郎、寺嶋家、松本家、中村勘三郎、初代尾上菊五郎など12もの墓石が静かに並んでいた。大雲寺の向かいは葬儀場で一帯はしずかなものである。

ここからは瑞江駅まで15分くらい、これもフラットな道が続く。歩く人は殆どおらず、皆自転車で追い越して行く、江戸川区のフラットな地形を感じた町歩きであった。

かいのみ〜四谷グルメ

2017-06-11 05:00:24 | グルメ

最近は銘酒飲み放題の居酒屋が増加している。今までにもやまちゃん(新宿御苑前)、日傘雨傘(四谷三丁目)などに行ったことがあるが、今回のお店は四ツ谷駅から近い『かいのみ』というお店である。

新宿通り沿いに店はあり、2階に上がるともう待ち合わせの飲み友が2名。最初にシステムを教えてもらう。生ビールや焼酎、ソフトドリンクもあるが、メインのお酒は冷蔵庫の中。これを出してきてテーブルで適量ついで席で飲む。

120分2000円、150分2500円、もちろん無制限もあるが、今回は150分をチョイス。つまみは店の名前の通り貝料理中心だが、『貝』のみではなく、通常のつまみもあるから大丈夫。

お通しをあてに生ビールで乾杯。つまみは刺し盛り、色々な貝の缶焼き、枝豆などをお願いする。
日本酒は最初に手取川(石川県)からスタート。

ぐい呑が1合のものだが、ついたくさん入れてしまう。次いで風の森アルファ(奈良県)、鳳凰美田(栃木県)、墨廼江(宮城県)などを頂く。初めは悩みながら呑んでいたが、だんだん人のも一口とやっているうち、分からなくなってくる。

刺し盛はタコ、ほっき貝、トリ貝、ホタテ、タイなど結構美味い。肝心の貝の缶焼きはよくあるせんべいの缶にホタテ、牡蠣、ムール貝、ハマグリを入れてコンロで焼く物。

しばらくすると蒸気が出てきて蒸しあがりを食べるが、貝の出汁がよく出て美味い。ただ、正直、この店はあまり凝った料理は出てこない。

酒は種類も多く、量的な満足感はあるが、やはりこの歳になるといいものを少し食べ、美味い酒を少し飲む方がよくなるため、まあ、若い人と来る店というのが正直な感想である。確かに周りを見渡しても女性が少ない店であった。


かいのみ
新宿区四谷1ー19ー16第一上野ビル2階
05032621455