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このような事件のたびにマスコミに腹が立つことは多いが、これには同調する。以前からぼくは、完全に安全にするには、仙台育英高校のように高い塀で囲み、入り口には大学のようにガードマンを置くのがいちばん安全である、と思っていたので。それを言うと必ず出てくるセリフが「開かれた学校と矛盾する」ですって。笑わせるんじゃないよ!といいたいですね。
大体、「開かれた学校」と「誰でも自由にことわりもなく入れる」とは別の問題であるし、そもそも最優先なのは職員と通っている子どもの安全であろうに。
どこかの学校でやっているような「笛」で安全なわけがないのは誰でもわかりそうなのだが、よっぽど予算がないのか……
実は私の大阪の友達は寝屋川市内の小学校に勤務しています。亡くなった先生といっしょに勤務した人も身近にいたりしてすごくショックを受けているようです。PTAの役員会を開いて対策について話し合ったり、インターホンを設置するなど改めて危機管理のための環境整備をしたりしているそうです。
こういう事件があるたびに思うのは、もちろん危機管理のための条件整備をすることも大事だとは思うのですが、それだけでいいのかな、ということです。目先の対応だけに終わるのではなく、もっと本質的なところというか、もっと大切なことがあるんじゃないかと思うのです。うまく表現できないのですが、教育についてもっと根本的なところから考えていくべきだと思います。すぐに成果を求めて、だめだったら方向を変えていくやり方を繰り返していたらこれからどうなるのか不安です。
……この二つの意見の相克こそ、学校がどうあるべきかという本質への論議の中心だろう。どちらにも理があることはもちろんだが、共通するのはあらゆる意味で今回の事件が学校にとって不幸な事態を呼ぶことへの予感だ。
少年O(2ちゃんねるよ、いいかげんに実名は削除しろ)が切り裂いたものが、教諭の命だけではないことをこれから誰しもが感じてしまうだろう。学校は安全な場所という神話はすでに崩れ、つまり安全な国家という日本のパブリックイメージもまた……
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