三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

身近な人の死

2006年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 橋本龍太郎さんが亡くなりました。何度かお目にかかる機会があり、その度に一言二言、言葉を交わしていただいて、一度などは姪の方を突然ご紹介していただいたりして大変面食らったことがあります。誠に穏やかな人でした。

 橋本龍太郎さんが亡くなる3時間前、私の義兄が肺ガンで亡くなりました。妻と息子と娘の3人が残されました。この2年ほど患っていたらしいのですが、家族以外の親族はそれを知らなかった。今年初めに親族のひとりが事故で亡くなったときの葬式に来れなかったのを、みんなは仕事が忙しいのだろうと思っていました。実はガンがひどくなって動けなかったんですね。そして今年の4月に入院、3ヶ月ももたなかった。ガンの痛みは激しく、痛み止めを打っては沈静し、覚醒してはまた痛みに呻き、を繰り返したようで、看病する家族の心痛も推し測ると地獄のような毎日だったろうと思います。最後に会ったのは私の父親の葬儀の際だからもう何年も前になります。そのさらに数年前、義理の弟である私があまり帰省しないことを非難してきました。それほど、義侠心の強い人だったということです。しかしそのために疎遠になってしまいました。体が大きく、丈夫そうな人だったのに、わからないものです。
 母親が死に、父親が死に、甥が死に義兄が死んだ。順番ということもないのですが次は誰かなどと考えてしまいます。生は死を孕んで存在しますが、死はそれを体験したものが体験談を語るわけにいかない唯一のものなので、誰もその本質について介在的な認識しか持ち得ません。要するに他人の死を見て自分の死を想像する以外に死を理解する手段がないということです。しかも死ぬことに慣れることができないので死の恐怖を克服することは甚だ困難です。自分が若く健康なうちは誰も死を考えもしませんが、年を取ったり病気や怪我をしたりすると弱気になって死を考えるようになります。避けては通れないものだから、どのように受け入れればいいのか、自分自身の態勢づくりを考えるのです。どうすれば死の際でも毅然として平然として悠然として端然として超然として、そして自然に振舞えるか。
 もちろんそんなことは考えても仕方がないことで、かっこいい死に方とか無様な死に方とかそういったことは他人から見た印象に過ぎず、死んだ当人はというと、これはもう死んでいるわけですから格好もヘチマもなく、だから死ぬ準備なんかしても何の意味もない、ということです。しかし、しかしです。そういった見方は生きている側から見たものですから、本当の本当のところはどうなのか、誰にもわかりません。だからやっぱりみんな、死に対して準備しようとしたり身構えたりするんでしょう。
 そうした心の動きはその後、多方向に進むことになります。思想、哲学、宗教に向かうこともあるでしょうし、心理学、超心理学、オカルトや、守護霊、背後霊なんかの霊能者とかシャーマニズム方面、いずれにしても死の恐怖から逃れ現実の生を充実したものにしたいという人間の基本的な欲求からのことですが、こういったことよりも多分一番多いのが、現世でのご利益(りやく)を追求しているうちにいつの間にか利益(りえき)を追求してしまうこと。そうなってしまったのがたまたま宗教家だったり政治家だったり役人だったりすると、これは困ったことになります。そして実際に困ったことになっているのが、現実に私たちが生きているこの社会なんですね。ときどき、亡くなった人を羨ましく感じることがあります。合掌。