藤原新也という写真家が、箱根ホテルが工事のためにツバメの巣を撤去したことについて激しい非難を行なっています。この人は変わった考え方をしていて、ひとつの図式を示しています。
ユダヤ人=経典にやたらに数字が登場=組織では数値優先=非人間的
アリコ=ユダヤ資本→営業はメディアのみ。人間の営業活動なし=非人間的
箱根ホテル=ユダヤ資本→日本人従業員が精神的にユダヤ的に変化=非人間的
そういう理由から箱根ホテルがツバメの巣を撤去したという「ひどい事件」が起こってしまい、その後の謝罪文も「官僚が書いたような文章」ということで、藤原さんはこれも「非人間的」だと言いたいみたいです。日本人にはツバメに対して「特別な親近感」があり、「残酷な手段」でツバメのヒナを殺すのは考えにくい、ということを書いていて、それはユダヤ資本のせいで精神構造が非人間的なものになってしまったからだということも言いたいようです。
藤原さんがこういうことを書くきっかけになったのが、箱根ホテルを定宿にしている人からのメールで、その人はツバメの巣が撤去されたのを知ると、工事を担当した工務店まで行って、ツバメの巣がどうなったのかを調べたようです。そして工務店の事務所の裏の土嚢袋にヒナが巣ごと無造作に捨てられていたのがむごいことだと書いています。
鳥獣や環境を保護する活動をしている人たちは社会的にそれなりの役割を果たしているのかもしれませんが、ときどきヒステリックになったり無茶な行動に出たりすることがあります。いかがなものでしょうか。
そもそも、なぜ鳥獣や環境を保護しなければならないのか?
昨日(7月18日)放送の「踊るさんま御殿」に柳生博が出ていましたが、日本野鳥の会の会長さんなんですね、知らなかった。で、さんまの「とりは食べないんですか?」という質問に対して「鶏(家禽)は食べます」と正直に答えていました。
私は競馬をやるので、どうも馬肉を食べるのに抵抗があります。しかしもちろん他人が馬肉を食べるのはまったく平気で、それは自分の好き嫌いを他人に強制することはない、という常識的な感覚です。馬肉以外の牛肉や豚肉、羊肉、鶏肉は食べます。あと魚介類、野菜もむろん食べます。
「命の大切さ」という教条を振りかざすのであれば、生きていること=食べること=他の生物を摂取すること、ですから、何も食べられないことになります。生きていけません。
野鳥野獣の命と、家畜家禽の命は、どちらが大切なんでしょうか?
倫理や道徳、法律などは主に共同体の存続が第一の目的ですから、人間の命が一番重いことになっています。次はというと、他人が飼っている生物の命ですね、これは他人の財産に相当しますから「民の生命、身体、財産を守る」という趣旨に適っています。従って法律的には野鳥よりも家禽の命のほうが大切だということになります。(最近では鳥獣を保護する法律もできているようですが、箱根ホテルと同じく、私も知らなかった。)
では法律的にではなく、野鳥と家禽を比較するとどうでしょう? ツバメの命と名古屋コーチンの命ではどちらが「大切な命」なんでしょうか?
あるいは逆に、罪の重さの比較でいうと、ツバメを殺すのと食肉目的で飼っている鶏を殺すのとでは、どちらが罪が重いのかというと、 「命の大切さ」を言うのであれば、どちらも罪は同じということになります。しかし感覚的には違いますよね? 鶏は食べるのが目的だから道理があるが、ツバメを殺すのは単に残虐な行為だから道理はない、ということでしょうか。 実は鶏を殺すのもツバメを殺すのも、殺す行為自体はどちらも同じで、一方が残虐で一方は残虐ではない、ということはありません。
鶏を殺して食べることはシステムとして安定しているし、そのこと自体が共同体に不安定をもたらすものではなく、一方、ツバメを殺すのは商売でやっているわけでもなく、共同体に不安と不安定をもたらす行為だから、それを「残虐な行為」と感じてしまうんですね。
雉や鴨、ホロホロ鳥、ウサギなんかは「ジビエ」として食材になりますが、ツバメはそうなっていないので、殺すのに抵抗があるというわけです。日本ではジビエさえも一般的ではないので尚更でしょう。
藤原新也さんは、ユダヤ人は幼少から経典その他で数字に親しみ、数字を基本に考える非人間的な組織運営をするので、ユダヤ人がトップになった会社の日本人従業員も同じように非人間的な精神構造に変化させられてしまったのではないか、それがツバメの巣撤去などという「ひどい」行為につながったのではないか、と書いておられますが、ツバメを殺すことが「ひどい」ことだという感性そのものが、共同体の存続のために刷り込まれたものである、という皮肉な話になってしまいました。
環境を保護するという行為は人類特有のもので、何から保護するかというと、これまた人類の行為から保護する、という形になります。保護しなければ絶滅してしまう、という観点から希少動物を保護するのが世界的に当然のような話になっていますが、もともと人類登場以前からたくさんの動物が進化の過程で絶滅していったわけで、人類が登場してからの絶滅のスピードが比較にならないくらい上昇していることを考慮に入れてもなお、絶滅するべくして絶滅しているのが大部分です。
環境保護について、次の図式が成り立ちます。
環境破壊の主体=人類
環境保護の主体=人類
環境保護の究極の形=人類不在=環境保護の不成立
命を食べて生きている我々人類は、道具を使って狩猟を行い、定住して農耕を営み、品種改良や肥料の工夫で植物分布を変化させ、または家畜を飼育して動物の品種改良や分布も変化させてきました。誰も環境破壊の「罪」から逃れることはできませんし、環境保護を謳う資格もありません。