三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

愛国心は必要か?

2006年07月25日 | 政治・社会・会社

 パトリオットミサイルという名前をはじめて聞いたのは、たしか湾岸戦争のときだと思いますが、パトリオット=愛国者というのはトム・クランシーの小説『愛国者のゲーム』で知っていました。この小説に登場する愛国者はIRAのテロリストでしたけれども。
 テロリストというと破壊活動、暗殺活動を行なう人たちだと思っていましたが、ちゃんと辞書を調べてみると、テロリズム=恐怖政治、テロリスト=恐怖政治家となっていまして、恐怖政治というと高校生の頃に世界史で習ったフランス革命後のロベスピエールらによる恐怖政治を思い出しまして、さらに調べると、恐怖政治はフランス語でTerreurであり、テロという言葉の語源であるとのことです。テロがテロリズムの略だと思っていましたがそれは誤りでterror(=恐怖)という言葉が先にあったようです。どうしてこういうことを調べたかというと、ホラー映画を調べていまして、そういえばホラー映画とは言うけどテラー映画とは言わないな、そもそもホラーとテラーはどう違うんだろう?ということから始まったわけです。ホラーもテラーもどちらも「恐怖」という意味だとは知っていましたが、テラーとテロ~テロリズムが同じだというのは私の中では結びついてはいなかったので、辞書を引いてみて少し驚いてしまいました。
 さて再びトム・クランシーの小説『愛国者のゲーム』ですが、主人公を狙うIRAのテロリストが同時に愛国者であるという設定が別に不思議でもなんでもないところがこの小説のリアリティの所以なんですね。愛国者は同時にテロリストでもありうる、ということ。もちろん愛国者がみんなテロリストである、とは言えません。しかし逆はどうでしょうか? テロリストはみんな愛国者、そういわれればそうであるような気がします。殺し屋もテロリストと呼ぶ場合がありますが、英語ではだいたいhitmanヒットマンと呼ぶみたいです。ちなみにこのヒットマンは企業においては費用や人員の削減など、非情な仕事を肩代わりする人のことも言うそうです。
 テロリスト=恐怖政治家と考えれば、テロリストは押しなべてみな愛国者、ということができそうです。算数で習った必要十分条件で言うと、テロリストは愛国者であることの十分条件であり、愛国者はテロリストであることの必要条件であると、そうなります。印象に過ぎないのかもしれませんが、アラブ諸国のイスラム原理主義者たちのテレビ等の映像を見る限り、アメリカ人などよりもずっと熱狂的な愛国者であるように見えます。自分たちの文化を守りたい、自分たちの風俗習慣信仰を守りたい、自分たちの国家とプライドを守りたい、そんなふうに見えます。見えるだけかもしれませんけれども。
 印象だけを比較するなら、日本人は愛国心の薄い民族に見えてしまいます。もともと表現方法の違いということが文化としてあります。わかりやすく言うとアラブ人が「動」なら日本人は「静」で、あちらの表現方法が体を動かす、声高に叫ぶ、拳を振り上げる、といった動的なものに対して、こちらはじっと座って、静かに語り、婉曲な物言いをする、といった極めておとなしい静的なものです。それは日本人の「距離感」に由来するのかもしれません。
 他人と会話するときの顔と顔との距離、これは親しさの度合いにも国民性にも左右されます。よく、パーソナルスペースなんて言い方をしますが、自分の守るべき範囲ですね、ここに他人が入ってくると警戒態勢になる距離のことです。日本人の場合はそれがかなり広いようです。初対面の相手との距離は、日本では最低でも互いにお辞儀ができる距離以上ですが、アメリカではたぶん握手ができる距離以下なんでしょう。日本ではある程度距離を置いて、ちゃんと聞こえる程度の声で話すことが礼儀正しいとされています。近すぎたり、声が大きすぎたりすると、下品だとか厚かましいとか思われてしまいます。
 だからたとえどんなに愛国心のある人でも「俺は日本を愛しているぞ」とは叫びません。しかし他の国の人の中には叫ぶ人たちも大勢います。だからといって日本人もそういった表現をしなきゃならん、とは誰も思いませんよね。かつて「日本は天皇を中心とした神の国だ」と発言した総理大臣がいましたが、それなりに問題になりました。政教分離の原則に反するとか、国民主権を否定するものだとか言われましたが、当の総理大臣の人柄から察するに、発言の舞台が神道政治連盟の会合だったことからして、単純に組織におもねる発言をしただけなんでしょう。愛国心の発露でもなんでもなかった。だから、彼がその発言をしたとき、「あ、やっちまったな」とは思いましたが、違和感は覚えなかった。
 もし彼が「私は日本国を愛しています」と大声で叫んだのであったら、それは違和感を覚えたろうと思います。日本人には公衆の面前で自分の気持を大声で吐露する習慣はあまりなく、もしそんなことがあったら、聞いているほうが恥ずかしくなるというものです。愛の告白は小声で言うほうが真実味があります。
 愛国心の強い日本人もいることはいるが、あまり表立って表現することはない、という認識がないと、「日本人は愛国心がない、どうしてもっと国を愛せないのか?」という発想になってしまったりします。
 ところで、そもそも愛国心というのがどうして必要なのか?
 泉谷しげるさんが昔「国旗はためく下に集まれ」と歌っていました。私が通っていた当時の高校では大はやりでしたね。「愛国心」とは対極のところにあるような歌詞で、あれが好きだった私たちには「愛国心」はなかったのかもしれません。
 愛国心というのは、たとえば校庭や訓練場に生徒または兵隊を並ばせて「右向け右、正面に敬礼!」と号令をかけさせて、壇上から返答の敬礼をしたい人たちがいますよね、そういう人たちが大好きなもののような気がします。
 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのご両親、滋さんと早紀江さんは、あれだけのひどい目に遭っていながら激することもなくご自分たちの考えをいつも冷静に述べられていて尊敬に値しますが、お二人の口から「愛国心」という言葉が出ることはなく、それも当然のことで、拉致問題と日本人の愛国心とは別の問題だからです。
 拉致問題は愛国心などという小さな問題とは違って、人権という、いかなる共同体においても共通の基本的な問題ですから、愛国心のあるなしに係わらず解決しなければならない問題です。それがどうも、タカ派の政治家、評論家、フリージャーナリストたちが絡んできて、話がややこしくなっています。なんとかならないものかね。
 靖国神社の参拝問題に関して、天皇のメモが見つかったとかで騒いでいましたが、ここでも問題にされなかったのが、靖国参拝のそもそもの動機が何なのか、ということです。遺族会の票集めのためなのか、それとも本当に愛国心があって参拝するのか知りませんが、そもそも愛国心というものが本当に必要なのか、ということについては、なぜか一度も議論になったことがありません。
 別に愛社精神がなくても会社で働けるし、愛国心がなくても住民登録をして税金その他の公共料金をお上に支払えば、ひとりの国民でいられます。世の中はもともと、たいていの場合醜い欲望を原動力として動いているわけで、それをいい言葉で飾る必要があるのは円滑な人間関係を形作る上で仕方のないことと納得せざるを得ませんが、飾りだったはずの「愛国心」や「愛社精神」そういったものが一人歩きしていわば「信仰」の対象となってしまっている部分があります。
 カルト教団と同じ構造なんですが、あまりに一般的な教条なので誰も気がつきません。カルト教団の信者が「どうしてうちの教祖を拝まないのか?」と世に問うたら、頭がおかしいのかな、と思ってしまいますが、「どうして愛国心を持たないのか?」という発言を聞いても、頭がおかしい人の発言だ、とは思いません。しかし実は同じなんです。
 たとえば他人が「いやあ、うちの会社は最低の会社です」などと言うのを聞くと、自分の会社なんだからそんなふうにひどく言わなくても、と思ってしまいますよね。または、だったら、辞めればいいのに、とか。この心理が、実は愛国心と同じ構造の心理なんです。娘のことをけなした父親に対して「自分の娘をひどく言う父親がどこにいますか!」と非難したりしませんか? 「両親を尊敬しています」と言う若者を「立派な若者だ」と感じたり、「両親を尊敬しなさい」と子供に言ったりしていませんか? 外国人から日本を批判されたら頭にきませんか? そしてこれらの心理を当然だと思ったりしていませんか?
 構造的には、

「自分の国を愛するのは当然のこと」と考える心理、

「誰もがうちの教祖を拝むのは当然のこと」と考える心理、

「家族を愛するのは当たり前」と思う心理、

みな同じです。

「尊師を拝みなさい」と言うカルト教団の信者の心理は「日本を愛しなさい」という愛国者の心理と構造的にはなんら違う点はありません。

 他人から自分の親または子供を批判されたら、誰しもあまりいい気持はしません。かなり不快に感じたり、憎悪したり、あるいは批判した人に対して暴力行為を行なったりするかもしれません。実はそれは戦争行為となんら変わるところはないのです。
 トム・クランシーの小説に出てきて戦争を行なう登場人物たちはみな、家族思いの人ばかりです。家族思いの心理が戦争につながるのですから、人間というものはそもそも救いのない存在なんですかね。