腸内洗浄が一時話題になったことがありました。最近ではデトックス。これは腸内洗浄も含んでいるのかわかりませんが、とにかく身体の余計なものを排泄して健康になろう、ということです。身体のリセットですね。
たぶん一番いいのは絶食で、消化吸収に使っていたエネルギーが身体の調整や余分なものの排泄に使われるようになるらしく、わずか一日絶食しただけでも、少し調子がよくなります。現代人はおそらく食べすぎなんでしょう。
古代エジプトの諺で「あなたが食べている食事は実は4分の1で十分であり、残りの4分の3は医者が食べている」というものがあって、これが6000年前の諺だということよりも6000年前にも医者がいたということに驚きを覚えたものですが、要するに「病は口より入る」という諺と同じことで、小食がよろしいということですね。
買い物をするときに新品と中古があって、もし値段が同じなら100人が100人とも新品を選ぶでしょう。中古の長所は新品よりも安いという、その一点だけですから。人間は新品が好きなんです。しかし身体のように買い換えが出来ないものの場合はどうするか。たとえば調子の悪くなった冷蔵庫の場合は、一度電源を抜いて中の物を全部出してガス圧やパッキンやファンや放熱板を調整したり掃除したりして、新品並みの機能に戻します。これをオーバーホールというのかな。
で、自分の身体の手っ取り早いオーバーホールが絶食ということです。絶食で排泄を促進して身体をリセットすると、新品並みとまではいかないけれども、ある程度は機能を取り戻すことが出来ます。もっとも有名な絶食の話はむろん聖書に書かれてあるイエスの40日間の絶食ですが、絶食の仕方についてイエスが注意しています。
『断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。』
聖書では触れられていませんが、エジプトとの関連とそのエジプトの先ほどの諺を考えると、健康法としての絶食が一般的にあったであろうことは容易に想像できます。昔もいまも、人の悩みは同じなんですね。
リセットしたい、という願望は誰にでもあるものなのでしょう。大正時代の詩人、中原中也は『汚れっちまった悲しみに』と言って、心身ともに浮世の色に染まってしまったことを嘆いてみせました。
身体だけなら絶食その他の方法で少しはリセットできますが、心は普通リセットできませんよね。心をリセットするというのはどういうことかというと、仮に記憶を消してしまったら人格を消し去るのと同じでその人ではなくなってしまうでしょうから、多分そうではなくて、心のかたくなな部分、こだわり、不安、恐怖、憎悪、自信過剰、自意識過剰、いろいろな欲望や嫌悪、そういったものを捨て去ってしまうこと、でしょうか。もちろんそんなことは出来っこありませんが、努力する人はいます。そしてもしできたら、お釈迦様になれます。
『リセットしたい』と言って家に放火して義理の母と弟妹を殺してしまった奈良の少年は、リセットできないことがわかっていた。だから二度とリセットできない行為を犯して、そして環境を劇的に変化させた。「二人は無期で三人は死刑」という慣例を出すまでもなく、死刑が適当ですが、少年にとって死刑は悪いことではない。むしろ望む結果なのでしょう。不幸なのは彼のお父さんです。ある意味で自業自得ではありますけれども。
一般に、悪い環境に置かれたとき、人間はその環境に慣れようとします。そして多くの場合、劣悪な環境であっても慣れてしまいます。しかし、現在の環境よりもましな環境を経験したことがあったり、違う環境も存在するという情報を得た場合には、人間はどのように振舞うのでしょうか。
方向は二つありまして、外部へ向かうもの、内向するものの二種類です。
外へ向かうのも多岐にわたりまして、環境自体を変えようとする者、つまり政治活動その他の活動を行なうことで共同体のありようから家族の形態まで変えてしまおうとする方向、あるいは環境は変えようがないと判断して別の環境へと逃げる者、他には現在の劣悪な環境の中でも快適な地位というものがあってそこまで上り詰めようとする者、いろいろな形があると思います。
内向する部分では、現在の環境は非常に劣悪で生きるのがつらいけれども、何とかしてそれに慣れるか、諦めきるか、または環境は環境、自分は自分と達観してしまうか、などといった自分の精神の持ちようで安定を図ろうとします。
人間は複雑で、外部にも向かうし内面をさまよいもします。どこかで折り合いをつけようとするんですね。しかしそう簡単に折り合いはつかない。ある者は怨念の塊と化して環境に復讐しようとする。どうもそういう類の事件が多いような気がします。
「衣食足りて礼節を知る」という諺もありますが、衣食がどこで足りているのか、人によって判断はまちまちでしょう。一度着た洋服は二度と着ない人もいる一方、ここ数年洋服を買っていない人もいると思います。私がそうです。で、不足を感じているかというとそういうこともない。
あまり洋服に興味がないからなんですが、別の考え方もありまして、「知足」という言葉がある。文字通り「足るを知る」ということですね。洋服は寒さを防げればよい、食物は空腹を満たし燃料になればよい、家は雨風を凌げればよい、それ以外は必要に応じて調達すべし、ということです。子供は元気に育てばよい、と簡単に考えることができれば、世間体を子供に押し付けることもなく、妻と子供を殺されなくてもよかったのではないかと、ちょっと思ってしまいました。