三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

「勝ち組」の姿勢

2006年07月29日 | 政治・社会・会社

 放送大学という番組がありまして、7月28日放送の桑原 知子(京都大学大学院助教授)による人格心理学を聞いていたんですが、どこか違和感があって、どうしてなのかなと考えながら聞いていると、ハッと気がついたのが、発音が標準語と違っているんです。あれは京都弁なんでしょうか。テレビでの講義なんてお堅いものなので、標準語が使われるのが当然、という思い込みがあったのかもしれません。もちろん方言を差別するつもりはなく、たとえば津軽弁や鹿児島弁はちょっと聞いただけでは理解できませんけど、だからといって排除されることはありません。しかしテレビの放送では字幕が必要になってきます。最近では標準語で話しているのに字幕を入れたりしますから、それはそれで構わないのかもしれません。NHKの朝の連ドラでは方言が忠実に使われていて、リアリティを裏付ける手助けをしています。
 ただ、地方の人も公の場などでは標準語を使って万人に理解してもらう努力をします。言葉は伝達道具なので伝わらなければ意味がないので、当然のことだと思います。しかし、関西の人だけはそれと少し違うような気がします。大学院の助教授がテレビの講義で関西弁を喋ることにご自身が変だと思わないことが、かなり問題のような気がします。ご飯を食べるのに橋を使ったり、飴が降ったりすると、ちょっと困るわけです。

 ついにというか案の定というか、アメリカ牛の輸入が解禁になりました。政治経済優先のこの政府の決定に、またか、とがっかりするだけならいいんですが、こと国民の生命に係わってくる問題なのだから、もう少しまともに考えてもよかったんじゃないかなと、ないものねだりをしてしまいます。そして、日本政府も変なら、アメリカもかなり変で、駐日している農務省の役人なんか、「全部安全なんて、誰にも言えないだろう?」と開き直っています。日本人が狂牛病で死んだところで何の問題もない、と言いたげでした。輸入が解禁されてしまったら、いくら個人が気をつけていてもさまざまな形でアメリカ牛が口に入ってしまうことくらい、日本人はみな知っているわけで、食べる食べないを消費者自身で決定できないところにこの問題の重大さがあるのに、政府は誰もそこのところを知らせず、しかもマスコミも厚生大臣に「アメリカ牛を食べますか?」なんて馬鹿な質問をして「立場上食べます」とこれまた馬鹿な答えをそのまま放送するアホさ加減なんで、日本はもう終わった国といってもいいと思いますね。

 明治安田生命なんて保険会社がいまだに存在し続けていること自体、日本の管轄官庁の腐敗を物語っていますが、その保険会社が臆面もなく営業活動、販売促進を行なっていることが非常に腹立たしいことだと感じている人は多いと思います。実は保険会社はみな同じ体質でして、保険料をできるだけたくさん集める、保険金はできるだけ支払わない、の2点を目標に事業を行っています。営利目的なんだから当然なのかもしれませんが、たとえば私たちがレストランを利用するとき、支払う金額に相応しい料理やサービスを期待します。そして期待通りなら満足、期待を大きく上回った場合は感動、ということになります。レストランとしては利益も追求しますが、顧客を満足させなければ継続的な利益はない、と知っているからそれなりの努力をするわけですね。これを対価という言い方をします。お客にとっては料金の対価が料理とサービスその他で、逆にお店にとっては料理とサービスその他の対価が料金となります。これが普通の商取引ですね。ところが、料金を取られたのに料理が出てこなかったら、それはおかしい。普通に考えれば、詐欺ということになります。おなじことで、保険料を取るだけとって保険金を支払わなければ、やっぱり詐欺です。保険金不払いの保険会社は詐欺で立件されなければおかしい。社長はじめ取締役の何人かは刑務所送りになって初めて政府の存在意義があります。
 しかしむろんそんな厳しい処分はなくて、保険会社各社は相変わらず詐欺まがいの営業活動を続けています。30年位前に「保険に入るのは金をドブに捨てるのと同じ」と言った人がいましたが、けだし名言です。保険会社の姿勢はいまも昔も変わらず、保険料は徴収すれども保険金は支払わず、を至上の目標としています。こういうのを「やらずぼったくり」と言います。
 「量は質に転化する」と言ったのはマルクスですが、企業も巨大になっていくと利益追求のほかに果たすべき社会的な役割や責任を背負うものです。しかし経営者にそういった意識は毛頭なく、相も変わらず利益、利益と、アメリカ人と同じことを言っています。

 こういった人たち、関西の助教授もアメリカの農務省の役人も保険会社の人たちも大企業の経営者、新興のIT社長たち、みな同じ姿勢なんですね。「勝ち組、負け組」と人や企業を分類して「生き残り」に全力をかけている拝金主義者の姿勢です。「生き残り」って、あんたどれだけ儲ければ「生き残れる」と考えているの?と、聞きたいくらい儲けている人たちもいますが、そういう人たちはさらに儲けようと必死です。どうして?