三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ナポレオンと私」

2021年07月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ナポレオンと私」を観た。
 
 こういう映画もたまには悪くない。毒にも薬にもならないが、ほのぼのしていい気分になる。能書きみたいな台詞が多めで、シーンが少なめなのは予算の関係だろう。それでもヒロインの武田梨奈はよく頑張った。喜怒哀楽の表情をわかりやすく演じるのは、この手の作品の王道だ。
 スマホゲームの王子キャラクターが現実に登場するためには、スマホゲームらしい古い価値観が必要になる。女性の結婚願望と、結婚だけが幸せではないという意識、仕事はまじめにやって会社の利益を出すことが自己評価につながるという仕事人間的な価値観、二股や不倫は悪いことだという錯覚。そういった、やや古めの価値観が本作品の底流にある。
 時代はすでにそういった価値観を昇華させつつあるのだが、スマホゲームにはまだ新しい価値観によって勝ち負けのない世界に対応するだけのスキームがないのだろう。というか、スマホゲームのほとんどが勝ち負けによって最終評価が決定されるのであれば、時代はもはやスマホゲームを淘汰しつつあるといっても過言ではない。
 本作品のようなゲームからのファンタジーは、そろそろジャンルとしての終焉を迎えるのだろう。ある意味、貴重な作品かもしれない。時間つぶしには有用だった。

映画「アジアの天使」

2021年07月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「アジアの天使」を観た。
 https://asia-tenshi.jp/

 例えば我々がニューヨークやロサンゼルスに行ったとして、現地の白人や黒人にいきなり日本語で話しかけるだろうか。たとえ拙くても英語で話しかけるか、英語がまったくできない場合は「日本語わかりますか」くらいは最初に聞くだろう。
 ところがソウルや北京に行ったら、現地の韓国人や中国人にいきなり日本語で話しかける人が多いと思う。そういう人は次のように弁解するかもしれない。仕方がないだろう、韓国語も中国語も習っていないし、英語は世界の公用語として習っている訳だからと。しかし韓国や中国に行くのに少しは現地の言葉を覚えるのが筋ではないか。英語が世界の公用語と言うなら、日本語ではなく英語で話しかければいい。
 このあたりに世界の中での日本人の立ち位置みたいなものがある。それは植民地根性と無関係ではない。そして当方の中にも、残念ながら同じようなバイアスがある。

 冒頭から石井監督の仕掛けを感じた。「大事なのは相互理解だ」と繰り返し言いながら、ソウルの赤の他人にいきなり日本語で話しかける主人公青木剛。植民地根性と差別意識に満ちた酷い主人公である。一方ではクラクションが響き合う町に、ヒステリックで暴力的な韓国人が登場する。主人公も酷いが、ソウルの町も韓国人も酷いと、そう思わせるシーンである。
 妻を亡くした後、日本での負債やら人間関係のしがらみやらが溜まってどうしようもなくなったと思われる小説家青木剛。逃げ出した先はいい加減な兄貴が暮らすソウルだ。到着早々韓国の荒っぽい洗礼を受ける。兄弟の再会の場面は腹の探り合いみたいでもあり、無責任な性格の兄弟のやけくその語り合いのようでもある。

 韓国には兵役がある。自国のために他国の人間を殺す訓練を受ける訳だ。必然的に国家主義の考え方が植え付けられる。兵役の時間が人生の無駄な時間とならないためだ。最近では女性にも兵役を課そうという動きもある。その一方、儒教の考え方がいまだに残っており、家長といった概念が若者の間でも通用する。そしていまだに男尊女卑だ。しかしそれを変えようという動きもある。失脚してしまったが、前大統領は女性だった。
 つまり価値観が大きく変わろうとしているのが韓国の現状で、個人によって人生観や世界観はまったく異なる。家族間、友人間などの中での世界観の対立構造を映画にすれば自然に立体的な作品になる。最近の韓国映画が高く評価されているのはそのためだ。

 本作品はそこに日本人も加わり、価値観の錯綜は糸がもつれ合うようだ。この辺りは石井監督の得意技で、登場人物それぞれの価値観の違いを明確に対比させながらストーリーが進んでいく。そこに言語の違いや文化の背景の違いも重なって、人間関係はいよいよ複雑になっていく。整理しきれないまま終わったような部分もある。
 その不完全燃焼が、次の尾野真千子主演の映画「茜色に焼かれる」に収斂していった気がする。といっても本作品が助走に当たる作品というのではなく、登場人物の心の揺れ具合が(オダギリジョーの青木(兄)を除いて)そのまま作品の揺れ具合になり、揺れながら互いに理解し合い、触れ合って、離れがたい愛着に至るという、珍しい大団円の作品なのだ。
 冒頭のシーンを相互理解からほど遠いイメージにしたのは、相互対立から相互理解に至る道筋を明確に表現するための石井監督の仕掛けだった訳だ。相互理解には共有のイメージが必要になり、石井監督は中年の天使を登場させる。同じ星を見て美しいというよりも、同じ風変わりな天使を見たほうが何倍もインパクトがある。本作品には石井作品の秘密がたくさん詰まっている気がした。