三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「最後にして最初の人類」

2021年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「最後にして最初の人類」を観た。
 
 このタイプの映画は初めて観た。20億年後の人類からのメッセージを読み取ろうと努力したのだが、いかんせん言葉と言葉の間を埋める音楽が長すぎて、何がいいたいのかさっぱり解らなかった。多分音楽からイメージを読み取って、行間を埋めていくことができれば、本作品も理解できたのかもしれないが、当方には音楽の素養がないので、そんな芸当は不可能だった。
 
 ターミネーターが1984年のアメリカにやってきたのは2029年の近未来からである。本作品は20億年後だから桁が違う。そんな途方もない未来まで霊長目ホモサピエンスが存続し続けているのだろうか。人類の浅はかさを前提にすれば、世界大戦も今後何度か起きるだろうし、食糧危機や内戦や新型ウイルスのパンデミックや異常気象や巨大地震も起きるだろう。世界各地にシェルターが造られて、世界大戦や天災地変のたびに人口が減っていくし食糧も底をつく。
 それでも生きられるように、人類はやがて進化を遂げるだろう。呼吸だけで生きられるとか、鉱物を摂取してエネルギーに変換できるとかいった進化だ。あるいは環境と深く結合して、風力や地球の磁力や太陽エネルギーによって生命を維持できるようになるかもしれない。
 テレパシーなどの超能力もいくつか身に着ける。殆ど動かず、遠くまで届く脳波によって世界中の人と交信し、瞑想することで科学や文化を発展させることができる。言語は形を変えて、誰とでも円滑な関係性を築ける。脳が驚異的な発達を遂げて、もはやコンピュータは不要となる。あらゆる情報は人類共有となり、人類そのものが科学であり文化であり芸術となる。共有の範囲は時間軸を超えて、ついには過去とも交信できるようになる。しかし同時に人類が直面していたのは、アイデンティティの喪失であった。
 
 当方の想像力ではこの程度が精一杯である。ただ、本作品の音楽は大変に心地のいいものであった。加えてティルダ・スウィントンのナレーション。ティルダ・スウィントンといえば映画「ドクター・ストレンジ」や「デッド・ドント・ダイ」などを思い出す。妖しくも超然とした、独特の存在感のある女優で、声もイメージも本作品にぴったりである。あの半透明のような美しい顔を思い浮かべながら、陶然として鑑賞することができた。幸せな時間であった。

映画「復讐者たち」

2021年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「復讐者たち」を観た。
 
 まず本作品がドイツとイスラエルの合作ということに驚く。ネオナチなどの極右が勢力を伸ばしているドイツと、パレスチナ難民に対して暴力的な政策を実行し続けているイスラエル。両国とも不寛容が蔓延しつつあるように見える国だが、映画人はそういった狭量な情緒に陥ることなく、冷静に人類の未来を見つめていると感じた。台詞の殆どが英語なのは、ドイツ語にするとユダヤ人が異人に感じられるし、逆も然りだからだろう。英語にしておけば殆どの国で字幕がいらないという理由もあると思う。
 
 戦争は国家の犯罪だ。断罪されなければならないのは国家の指導者であり、その一味である。国家の指導者を特定するのは容易だが、問題は「一味」の範囲をどこまで広げるかということである。
 第二次大戦のあと日本の国民の多くは、自分たちは軍部とマスコミに騙されたのだと主張した。軍人は命令に従っただけだといい、マスコミは軍部の発表を伝えただけだと言う。では誰に責任があるのだろうか。東京裁判で裁かれた人間たちだけに責任があるのか。
 中国で厖大な人数の民間人を虐殺した関東軍の軍人たちには何の責任もないのか。戦争反対を叫んでいる者たちを逮捕し、投獄し、拷問し、殺した者たちには何の責任もないのか。彼らを密告した近所の人々には何の責任もないのか。「がんばれ日本」と戦争を応援した国民には何の責任もないのか。
 国は一部の横暴な指導者たちだけでは運営できない。国民の賛成がなければ、経済的な後ろ盾を得ることができず、結局は失脚する。クーデターで軍が政権を奪取したビルマも、近いうちに軍司令官のミン・アウン・フラインが失脚すると予想している。再度アウン・サン・スー・チーが政権を握り、少数民族に自治権を認めれば、世界各国からの援助や経済協力が得られるだろう。少数民族に自治権を与えると援助を打ち切るとアウン・サン・スー・チーを脅している国は、ビルマと国交を断絶するかもしれないが、それはそれでいいと思う。
 
 国民のコンセンサスがなければ戦争に突き進めないのは明らかだが、どの国の国民も、他国の民間人の虐殺など望んでいないと思う。虐殺は常に軍によって行なわれる。人を殺すための組織なのだから、当然のように人を殺す。相手が軍人か民間人かの区別は意外と難しいから、全部殺しておけば間違いはないのだ。軍人に深い考えはないから、スパイかもしれない敵国人は皆殺しにするのだ。
 しかし銃後の国民は戦場の現実を知らない。軍が戦場ではなく民間人の住む地域に行って略奪し陵辱し皆殺しにしていることなど知らされようがない。軍人と同様にこちらも深い考えはないが、残虐行為はしていない。ただ新聞を見て勝った、また勝った、日本軍はすごいと応援しているだけだ。その行為は戦争に反対しなかった不作為として責められるが、断罪されるほどのことではない。日本の戦争責任を取って日本国民全員が死刑に処されることはないのだ。
 復讐を考える人間は違う見方をする。学校でいじめられたら、平日の昼頃、つまり殆どの学生と教師が学校にいる時間に、その学校を爆破しようと考えるのだ。あるいはマシンガンを乱射して全員を殺す。
 
 本作品の主人公マックスはユダヤ人であり、腕に識別番号の入れ墨がある。ナチに捉えられた証拠だ。戦後になって妻と娘がナチに殺されたことを知る。復讐を誓うマックスはユダヤ人虐殺の報復を行なっているふたつのユダヤ人集団に合流するが、それぞれの考え方は異なる。マックスはより過激な集団に参加することにした。彼らの計画がプランAである。
 ポイントはみっつ。ひとつはナチスの「一味」の範囲をどこまでとするのか。ひとつはユダヤ人虐殺の報復をする人々に、ユダヤ人代表としての資格があるのかどうか。最後のひとつは、一度も人を殺したことのないマックスに人が殺せるのかどうか。
 
 事実に基づいた映画ということで、実際にそういう報復組織があったのだろう。ただ、ドイツ人とユダヤ人それぞれにホロコーストという史実が齎した澱のようなものがあって、人々がどのように折り合いをつけていったのかが解るし、戦後すぐのドイツ人には依然としてユダヤ人に対する偏見があったことも解る。その偏見は戦後78年を経過した現在に至っても、必ずしもなくなったとは言えない。
 戦後のニュルンベルクの街を驚異の再現力で表現して、演じる役者陣は皆とても達者である。映画としての完成度は高い。ニュルンベルクのシーンは緊迫感がずっと続いて、鑑賞後はどっと疲れてしまった。

映画「夕霧花園」

2021年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「夕霧花園」を観た。
 
 第二次世界大戦の日本軍は、アジアの各所に深い爪痕を残した。現地の人々をとことん痛めつけ、殺し、服従させ、苦役を強いたのだ。大東亜共栄圏などという耳障りのいい言葉で人々をごまかしながら、行く先々で悪行の限りを尽くしてきた。日本人は昔から薄汚い現実を言葉で美化してきた気がする。戦後になってそれらの言葉がすべて嘘だったことが明らかになったのに、政治家も新聞も手の平を返すように民主主義を讃えてみせた。そして国民は、自分たちは軍部に騙されていたと、自分たちには責任がないと言い張った。当然だが政治家の責任も新聞の責任も追及することはなかった。
 なんだか同じことがいまでも起きていないだろうか。モリカケ問題や桜疑惑では、安倍晋三の関与が明らかなのに、知らぬ存ぜぬで貫き通してしまい、何のお咎めも受けなかった。相次ぐ閣僚の不祥事では、任命者として「責任を痛感している」といいながら、結局何の責任も取らなかった。元国務大臣の甘利明は、大臣室で100万円の賄賂を受け取るという大胆不敵な収賄罪を犯していながら、入院するという王道の裏技を使って議員辞職もせず、しれっと国政に復帰して自民党の税調会長におさまっている。マスコミは追及しない。
 思うに、日本という国は、誰も反省しない国なのではないか。言い訳と自己正当化が国民性なのかもしれない。いじめを咎められて、遊んでいただけ、遊んでやっていると開き直るいじめっ子と、基本的に何も変わらない。その一方で権力者や強い立場の者には従順だ。弱い者をいじめて強い者にはヘーコラする。それが日本人の本質なら、これほど悲しいことはない。東京五輪での感染拡大の責任は誰が取るのだろうか。
 
 本作品はそんな日本人の犯した悪行の傷跡が残るマレーシアを部隊にした戦争映画である。雑魚キャラの日本兵の他にマレーシア軍の敗残兵も登場するが、兵士の例に漏れずこちらもクズばかりだ。沖縄で少女を犯す海兵隊員もそうだが、軍隊という組織は構造的に悪を生み出しやすい。軍隊そのものが人を殺すという悪行のための組織だからと言っていいのかもしれない。
 
 ヒロインはテイ・ユンリンという名前からして、中華系マレーシア人と思われる。演じたリー・シンジエも中華系マレーシア人だと思う。完璧な左右対称の顔が美しい。撮影当時は43歳くらいだったと思われるが、スタイルも綺麗である。ヒロインに相応しい女優さんだ。
 中村有朋という庭師を演じた阿部寛の台詞は殆ど英語で、発音はジャパニーズイングリッシュだったが、それがなかなかいい。思慮深い日本人の庭師の役がよく似合っていた。本作品ではその思慮深さが重要な鍵となっている。
 スパイは肯定されるべきなのか否定されるべきなのか、時代によって異なるのだろう。ジェームズ・ボンドは思い切り肯定されて映画の主役にもなったが、警察のエスや産業スパイ、社内スパイなどはいまでも否定的な評価だ。
 中村有朋が戦中戦後にどのような働きをしたのか、その秘密を有朋はユンリンに託した。有朋が築こうとしている庭は誰の命によって、あるいは誰の依頼で造られるのか。資金はどこから出ているのか。
 映画は異なる年代のシーンをパッチワークのように次々に貼り合わせながら、マレーシアにおける戦争の悲惨さと日本軍の残酷さ、自国の敗残兵の醜さ、正規軍の無力、そしてイギリス高等弁務官による統治下での英国人の贅沢三昧などを背景に、静かで美しい大人のラブストーリーが展開されていく。やがてそれらのシーンがユンリンの背中に凝縮されて、すべての秘密が解き明かされる。とてもよくできた作品だ。どこまでも相手を思いやる大人の恋愛物語は、時代に関係なく人の心を敲つものである。