三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち」

2022年09月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち」を観た。
 
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ドキュメンタリー映画『原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち』公式サイトです。

映画公式『原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち』

 

 終映後の舞台挨拶で、プロデューサーの河合弘之弁護士は、原発の差し止める戦いは今後も訴訟やデモや集会を継続して行なっていく。一方で、原発に代わる自然エネルギーによる発電も進めていくと、わかりやすい主張をしていた。原理原則はその通りでいいと思う。

 映画は、司法が原子力ムラの強欲によって歪められてきた事例を紹介しつつも、その逆にどんな圧力にも屈せずに、ひとりの裁判官として虚心坦懐に判決を下した樋口英明元裁判長にスポットを当てる。樋口さんの主張はとてもわかりやすい。学術的なことに拘泥することなく、原発が危険なのか安全なのか、確からしさは原告と被告のどちらにあるのかを考えるだけだ。原発は危険で、天災地変に耐えられる準備はなく、住民の命や健康を奪う危険性が高いと判断して、稼働を差し止めた。普通の裁判官なら誰でもそうする、と樋口さんは言うが、それなら日本には普通の裁判官が少ない訳だ。
 
 河合弁護士が主張し、本作品が紹介している「エネルギーの民主化」が実現すれば、原発はその存在価値を失う。河合弁護士の言う通り、経済原則によって駆逐されるだろう。当たり前の経済社会ならそうなる。
 しかし日本社会は当たり前の経済社会ではない。人間関係が大きく物を言う縁故資本主義だ。電力会社と仲のいい政治家や官僚がいれば、電力の自由化、民主化の実現は困難である。送電線というインフラの権利を電力会社が持っている以上、電力供給の自由競争は、法律によって担保されなければならない。
 
 ところがその法律を作る政治家が電力会社と一緒になって原子力ムラを形成している。電力会社が電力の買い取り義務を果たさない可能性は捨てきれない。農家がソーラーパネルで発電した電力は、買い手のところに届かない可能性があるのだ。
 日本は国を挙げて脱原発、再生可能エネルギーの開発に取り組まなければならない局面に入っているのに、政官財の原子力ムラは未だに「エネルギーの民主化」に真っ向から対立する方向性で動いている。それもこれも縁故資本主義が幅を利かせているからである。政治家に二世や三世が多いのも、同じ理由だ。地盤や看板の他に縁故も引き継ぎ、利益供与を継続する。格差が固定するのも同じ理由だ。
 
 警鐘を鳴らすという点では、観客の思考に委ねられる部分があるが、概ね河合弁護士の理念に従って制作したいい作品である。音楽もよかった。沢山の人に鑑賞してほしい。

映画「LOVE LIFE」

2022年09月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「LOVE LIFE」を観た。
映画「LOVE LIFE」公式サイト

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主演:木村文乃 × 監督・脚本:深田晃司 inspired by 矢野顕子「LOVE LIFE」絶賛公開中

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 ヒロインを演じた木村文乃は本作品のために増量したのだろうか。妙な逞しさを感じた。それに笑顔を封印したような演技である。いずれも本作品に相応しかった。

 家族関係の安定を図ろうとする一方で、夫は未練に揺さぶられ、妻は母性とプライドで人格を壊しそうになる。それでも夫婦として互いに対する義務は果たさなければならない。鎹となるのは勿論子供だ。
 家族関係は脆いものだ。少し揺さぶられただけでガタガタに崩れてしまう。時の流れは愛を深めるどころか、憎悪を溜め込み、滾らせるだけである。ときどき報道される家族間の殺人事件は沸点に達した憎悪の噴出だ。
 
 言葉や態度を取り繕うことは、我々の日常茶飯事である。遠回しの言い方、婉曲な言葉選びをしなければ、往々にして誰かのつまらないプライドを傷つけることになるのだ。人間関係とはそういうものだ。沈黙は金という諺は真実を突いている。
 本作品では寛容か不寛容かの分岐点が何度か登場する。木村文乃の演じた大沢妙子に岐路が訪れるのだ。世間は構造的に不寛容だから、寛容を選択することは人間関係を破綻させてしまう危険性がある。
 
 妙子はどのように選択するのか。そして二郎は妙子の選択をどのように受け止めるのか。非常に実存的なテーマの作品である。どの選択が正しいとも言えない。一緒に寝起きして、一緒に食べて、そして別々に死んでいく。多分、それでいいのだ。

映画「グッバイ・クルエル・ワールド」

2022年09月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「グッバイ・クルエル・ワールド」を観た。
映画「グッバイ・クルエル・ワールド」公式サイト|絶賛上映中

映画「グッバイ・クルエル・ワールド」公式サイト|絶賛上映中

時代を、撃つ。豪華俳優陣が集結!世の中とチューニングの合わない奴らの銃撃戦クライム・エンターテインメント!映画「グッバイ・クルエル・ワールド」絶賛上映中 出演:西...

映画「グッバイ・クルエル・ワールド」公式サイト|絶賛上映中

 

 ヤクザや半グレといった不良の中には、堅気に引け目を感じている人がいるかもしれない。非合法の仕事で得たカネでは陽のあたる道を堂々と歩けないところがある。カネはカネだと割り切る者が多いだろうが、堅気と一緒に暮らすことができないことを引け目に感じる者もいると思う。

 もともと世間に適応できないから不良になった訳で、世界観も何もない。どうすれば上手いシノギができて、楽に生きていけるかだけを考える。そこは世間一般と同じだ。ローリスクローリターンの生活が堅気なら、ハイリスクハイリターンの危ない橋を渡るのが不良だとも言える。
 世界観がないから求めるのはいい食い物、いい女、いい服、いい車、いい住まいだ。もちろん自分なりの基準なんてものはなく、尺度は金だけである。高い食い物、高い車だ。女は金がかかる豪勢な美人がいい。そういえば銀座の女にジャガーを買ってやったことを自慢する社長がいた。バカ丸出しだった。
 
 世間に適応できない性格の人間でも、何かしらの能力があれば食っていける。グレずに済む訳だ。しかし何もなければ誰にでもできる暴力に頼ることになる。暴力を振るうには慣れが必要だ。人を殴ったり殺したりするのは、子供の頃から教え込まれた禁忌のメカニズムが働いて、抵抗を感じる。しかし何度も人を殴っていれば、暴力に対する抵抗が薄れる。満州の日本兵は中国の民間人を理由もなく何人も何人も殺すことで、殺人に慣れたという。堅気は暴力や殺しに慣れていないが、不良は暴力や殺しに慣れている。堅気と不良の違いはそこだけだ。
 
 他の動物と同様に、人間にも攻撃的な面が多分にある。不良だけではなく誰にでもあるのだ。被害を受けての反撃だけでなく、被害を受けそうだから先に攻撃するとか、または憎悪が高じて殺してしまうことがある。実際にそういう事件は後を絶たない。人類のすべてが寛容になるのは困難だから、今後も暴力は続いていくだろう。つまり戦争も続いていく。
 
 それが人間の闇とするなら、本作品には人間の闇が見え隠れする。大森立嗣監督はこれまでも人間の闇を描いてきた。日常が坦々と過ぎていく「日日是好日」にさえも、黒木華が演じた主人公が心の闇を語るシーンがある。
 人間の闇とは、ひと言で言えば不寛容である。あるいは代償を求める欲深さである。寛容で欲のない人間に闇はない。しかしそういう人間は往々にしてバカと呼ばれる。ドストエフスキーが「白痴」で描いたムイシュキン公爵がその典型で、周囲から見れば損ばかりしている。本人にはそもそも損得感情がないから損はしていないのだが、周囲の我利我利亡者たちにはそれが理解できない。昭和の時代には「欲のない人間は駄目だ」という仰天の教育をしていた。
 
「普通に生きたかっただけなんだ」と、西島秀俊の演じた安西は言う。不寛容の暴力の世界から足を洗い、欺瞞に満ちてはいるが、非暴力の平和な世界で慎ましく生きていきたい。人間は争いの緊張よりも平和の安寧を望むものだ。
 しかし安西は暴力の世界に長くいすぎたようだ。借りを返さないままで抜けようとするのは虫がよすぎる。不良の世界は不寛容の世界だ。落とし前をつけるのは容易ではない。残酷な世界からオサラバするのは、この世では多分無理なのだ。
 
 エンディング曲 The Mamas & The Papas の「California Dreamin'」は一世を風靡した有名曲である。発表された1965年はベトナム戦争が始まった翌年であり、平和への願いが込められた歌だ。なんともシニカルな選曲である。