映画「手」を観た。
セックスと女性の自立を描いたらこうなりましたといった作品である。男は常に能動的で女は常に受け身だと思ったら大間違いだ。セックスで女がどんなに感じても、どんなに深くオルガスムスに達しても、それで女を支配したと思ったら、それもやっぱり大間違いだ。
女が恋の奴隷だった時代はもう終わった。いまは女もセックスを楽しむ時代である。性器だけでなく手や口でも女に快楽を与えられるように、男を訓練する。男の快楽は女を悦ばせることにある。女の快楽はそのように男を仕向けることだ。
キスをする前に「キスしていいですか」と聞いたり、入れる前に「入れていいですか」と聞くのは、男の責任逃れである。女がNOと言わないことを見越しての質問であり、男の狡さが丸見えだ。
セックスは個人的なものだから、人によって千差万別である。性格と互いの関係性に大きく影響される。どのようなセックスを望むかも人それぞれだから、セックスのありようは無限と言っていい。
大江健三郎が描いた性交は、男は挿入時に形而上的な思考をし、女は男の肛門を刺激するというややこしいものだった。心理描写が的確だったから、なるほどこういうセックスもあるのだなと妙に納得したことを覚えている。
本作品のヒロイン寅井さわ子は現代っ子の側面もあるが、世間の価値観にとらわれないニュートラルな心の持ち主である。「ダサい」という言葉はさわ子にとっては褒め言葉だ。
おじさんたちの好色も狡さも厚かましさも、さわ子は可愛いと思う。世の中の男たちにしてみれば女神のような女である。
だから誘われる。そしてさわ子は断らない。幅広い年齢の男遍歴の挙げ句に、さわ子はこれまでの自分が本当に求めていたものを知る。それは父の手だ。そこから卒業しなければ、人生に次のステージはない。
ラストシーンのさわ子の涙とクスリとした笑顔は、女神あるいは菩薩のようなさわ子のこれからの人生が、きっと晴れやかなものになることを予感させる。とてもいい作品だった。