映画「秘密の森の、その向こう」を観た。
不思議な感動がある。差別的な意味合いではなく、この物語は母と娘だから成立した。父と息子ではまったく別の物語になると思う。いや、そもそも物語にさえならないかもしれない。父と息子がたとえ本作品のように出逢ったとしても、互いに関わろうとしないのではないかという予感があるのだ。
子宮を持つ者同士にしか分からない感覚というか、本作品からはそういうものが感じられる。同じ監督の映画「燃ゆる女の肖像」でも同じことを感じた。竹林のような存在感なのである。竹は一本ずつ独立しているようにみえるが、竹林の竹は地下で殆どが繋がっている。女たちは竹林のように見えないところで繋がっているような気がする。それは生を肯定する精神性であり、母性と言ってもいいかもしれない。本作品を鑑賞された男性諸氏は如何だろうか。どこか理解不能なところがなかっただろうか。
森の映像が美しい。双子のサンス姉妹が作る秘密基地は、色づいた黄色い葉っぱで飾られる。何をするのでもない秘密基地。少女が作ることで子宮のオブジェのようにも思えてくる。マリオンが秘密基地を作っているときにネリーがやってきたのは偶然ではない。
8歳の娘は微妙な年頃である。ママゴトをするには年長すぎるし、恋をするにはおさなすぎる。ママゴトの代わりのクレープづくり、恋の代わりのお芝居ごっこがとても楽しそうだ。他人と心を通わせた初めての体験に違いない。
邦題の「秘密の森の、その向こう」はややひねり過ぎた感もあるが、決して悪くはない。原題の「Petite Maman」の「プチ」は多義的な意味合いがあるから、訳すのが難しい。「小さい」「幼い」はどちらもピンとこないし、かといって「子供の頃のママ」というのもおかしい。無理に邦題をつけずに「プチット・ママン」でもよかった。何年か経って、本作品を思い出そうとしたときにはタイトルが「プチット・ママン」のほうがすぐに思い出せそうだ。