三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

愛着=帰属意識=愛国心=差別=戦争

2006年07月08日 | 政治・社会・会社

 何らかの組織に属してしまう、属さざるを得ない、というのは社会生活をしている以上、避けられないものです。政治、宗教、趣味の会合から普通に就職して企業に所属することまで、あるいはただ住んでいるだけで入ってしまうマンションの管理組合や商売の関係で入る町内会や業界団体など、さまざまな組織に属さざるを得ない、かかわらざるを得ないのが、現代日本の構造となっています。お気づきと思いますが、日本に住民登録をしているだけで日本という国家組織に属していて、税金を取られたり、選挙公約を裏切られたりしなければなりません。
 すでにかなり薄れつつあり、または価値を減じつつある「帰属意識」というものがあります。高度成長の時代は企業に対する帰属意識が大変強いものでした。永久就職、年功序列といった雇用形態に由来するものですね。いい意味では、「会社はあんたのことを定年まで面倒見るよ、だから一生懸命働きなさい。または「会社がいろんな面倒を見てくれるから、会社のためにがんばって働こう」ということだったのでしょうか。もちろんそんなふうに考えない人もいました。組織に属することは自由を捨て去ることだという考え方ですね。そういうアンチ帰属意識の考えかたを実行した人々は「ヒッピー」と呼ばれていました。同じアンチ帰属意識の人々でも大多数は「長いものに巻かれて」帰属意識のあるフリをしつつ、企業や官公庁で働きました。
 最近では転職が当たり前みたいな部分もありヘッドハンターなんてのもありで、会社に対する帰属意識は明らかに薄れていますが、それでもやはり、自分が働いている会社の悪口や批判を聞いたら、まったく関係のない別の会社と比べるとどうしても反応してしまうというか、まったく平静でいることは出来ませんよね。会社以外の組織でも同じような心理メカニズムがあって、政治宗教から国家に至るまで誰もが何らかの帰属意識を持っているわけです。どうして帰属意識を持ってしまうかというと、「長いものに巻かれろ」の人もいますが、「愛着」を持つ人がたくさんいます。その心理はというと、たとえば道端で猫を見かけますよね。その段階ではまだ普通の猫なんですが、それを家に連れて帰って「タマ」と名づけたとします。するとその猫はもう普通の猫ではなくて「タマ」なんですね。だから「タマ」が別の猫と争っていたりしたらどうしても「タマ」を応援してしまいます。自分の子供と他人の子供ではどうしても自分の子供を応援してしまうのと同じことですね。これを「愛着」と呼びます。猫にしても人間にしても、名前をつける行為が「愛着」のはじまりで、名前をつけたり名前を知った相手が組織の場合「愛着」と呼ばずに「帰属意識」と呼ぶことになります。国家の場合は「愛国心」となります。
 この帰属意識同士の争いが非常に多い。中には暴力沙汰に発展するものもあり、言うまでもなくその最大のものは戦争です。逆に国家対抗のスポーツなどの平和的なものもあって、日本政府が大嫌いな人でもワールドカップやオリンピックではついつい日本を応援してしまったりしますし、広島県に住んでいたらどうしてもカープを応援することに(ならざるを得ない?)なります。

 戦争は悪くてオリンピックはよい、と思う人がほとんどでしょうが、由来する心理はどちらも同じなんですね。名前をつけること。名前をつけることが愛着につながり帰属意識、愛国心へと発展して、区別、差別、利益の独占、利益の強奪、戦争へと発展していきます。
 では名前をつけるのをやめればいいかというと、それはもう不可能なんです。子供が生まれたらどんな国でも名前をつけるし、そもそも国家という共同幻想に名前がつけられちゃっているし、もともと人間は自分と他人、他人と他人を区別したがって、名前をつけて競争したり勝負したり差別したりいじめたり虐殺したり侵略したり、愛したり恋したり結婚したり子供を作ってまたまた名前をつけたりするのが、好きなんですね。
 無人島でひとり暮らし、という状況設定の中でいろいろな質問をするのはもう定番ですが、生まれてまもなくそうなったら自分の名前も必要ないし、物事を認識するのは言葉ではなく別の方法を取ることになるでしょう。これが三人以上になったら伝達手段として言葉が発明され、自分と他人、他人と他人を区別するのに手っ取り早く名前をつけることになり、そうすると愛着が生まれ、そしてそこから人類の不幸な歴史が始まりました。人間が社会的な生き物であると言われるのは、他人との係わり合いの中でしか喜び(あるいは生の充実)を得られないからだと言えるでしょう。

 程度の問題があります。法律では重要性の問題として認識されますが、ある事柄が法律違反になるかどうかはその事柄の重要性に由来する場合があります。もっと日常的なことをいいますと、会社である機械を修理した場合、修理額が小額である場合は資産計上せずに費用計上してもよい、という税法があります。
 この伝でいくと愛着にしても帰属意識にしても愛国心にしても、ほどほどにしておけば重要な問題にならない、ということになり、まさにその通りなんですね。ところがほどほどにしておけない場合があります。ある組織に所属していることが利益をもたらす場合です。宗教組織の場合もご利益(りやく)ではなく利益(りえき)です。
 社会生活をしていると国家だけでなく他の複数の組織にも所属しているのが普通ですから、たとえばあるお役人が個人的にA会に属していて、役人としてのお役目上で、A会とA会員にさまざまな便宜を図ったとしたら、A会に所属していない人は不作為の不利益を被りますよね。これが普通にお金をもらってやったことだったりすると収賄や贈賄となって社会的に責任を取ってもらうことができますが、直接的なお金のやり取りはない場合はそうはなりません。これをコネ(コネクション)と言います。このコネというのが社会に多くの弊害をもたらすのですが、決してなくなることはありません。人間は愛着する生き物だからですね。「コネは正当じゃないから利用しまい」と心に決めてもいいし、「コネを上手に利用するのが世渡り上手」と考えるのも結構です。

 いずれにしろ名前をつけてそれに愛着すること、組織に所属してその組織に帰属意識を持つこと、組織の利益を守ろうとすること、組織に属さないものを排除しようとすること、利益を組織で独占しようとすること、そういったことが家族愛から愛国心まで同じ心理で働き、その同じ心理で戦争が起こるわけです。
 どうも話が悲観的絶望的な方向になってしまいましたが、こういう話を悲観的と感じてしまうのは人間にあらぬ希望を持っているからで、人間に希望はない、人類に救いはないと割り切ってしまえば、そうひどい話でもありませんよ。むしろ、救いがないのに救いがあると喧伝している宗教家や政治家のほうが不誠実だと思います。だって彼らの目的は金儲けですからね。

 それにしても、聖書には不利益を受け入れよ、と書かれてあるのに、キリスト教徒の多いヨーロッパであれだけ戦争が起きた現実は、いったい何なのでしょうか? 「右頬を打たれたら左頬を差し出しなさい」とか「上着を盗もうとするものには下着をも与えよ」というのは、あれは実はたとえ話ではなくて、そのままの意味なんです。自分の利益を守ろうとするな、ということ。仏教の経典にも同じ意味のことが書かれています。なのに仏教徒同士の争いが絶えません。いったい何なのでしょうか?


テポドン=金正日=いじめ=暴力

2006年07月05日 | 政治・社会・会社

 「秋茄子嫁に食わすな」という諺があります。これはもともと他人だった嫁に、貴重でおいしい秋の茄子を食べさせるのはもったいない、という意味であったはずなんですが、それがあまりにも浅ましい心情なので「茄子は体を冷やす働きがあるので子供を生む嫁が食べるのはよろしくない」と、もっともらしい理由を考え出したわけです。
 暴力はどんなことがあっても感情の産物であって、決して「教育」ではありえないことは明らかなんですが、たとえば教師が生徒に、親が子にに暴力を振るうのを「愛のムチ」というと教育のひとつの形みたいに聞こえますし、そう信じているタカ派の人もいるかもしれません。「愛のムチ」という言葉が生れたのは「体を冷やすのはよくないから嫁には秋茄子を食べさせない」という言葉が生まれたのと同じ事情です。こういうのを一般的に「正当化」といいます。教育する側が自分を正当化することほど、教育にとってよろしくないことはありません。
 東京の有名なフランス料理店のオーナーシェフが従業員を殴って書類送検されました。これまで誰も訴えなかったことが不思議なくらい、従業員を殴るので有名なシェフでしたから、「やっと訴えられたか」というのが正直な感想です。いわゆるオーナーシェフの草分け的存在ですから、そのカリスマ性に従業員が従ってきたので、だから殴られても訴えたりしなかったんでしょう。このところの不景気で店の経営とか人気とかに翳りが出て、同時にカリスマ性が薄まってしまったということが訴えられた理由でしょうか。こちらは経営者で教育者ではありませんから、言い訳は「愛のムチ」ではなく「指導の一環」とでも言うんですかね。
 北鮮がテポドンを発射したようです。ノドンから進化したテポドン。トムクランシー(『レッドオクトーバーを追え』などで有名なアメリカの作家)が詳しかったような記憶があります。ともかく、アメリカが言うことを聞かないから発射した、ということでしょうね。金正日の苛立ちが発射レバーを押したわけです。
 無理やりかもしれませんが、子供や生徒や従業員に暴力を振るう人と、金正日との違いがわかりません。弱い立場の人に対しては暴力を振るっていうことを聞かせようとするという点では、まったく同じ構図なんですね。だから日本人の中にもウヨウヨいるわけです、金正日が。不思議なことにそのミニ金正日たちが一番、金正日に対して腹を立てているわけです。それから領海問題や海底石油開発問題なんかで、中国や韓国に対しても、怒っています。そして言うのが「日本は普通の国にならなければならない」ということ。それは軍隊を持って核武装して近隣のとんでもない国々(南北朝鮮と中国ですね)に対して備えなければならない、とのたまうわけです。暴力を否定する一般庶民から見れば、同じ仲間なんだからもっと仲良くすればいいのに、と思ってしまいますが、金正日と一緒にするな!と怒られそうです(笑)。狼同士は仲良くしません。
 二週間くらい前に、奈良県で高一の男の子が自宅に放火して義理の母と義理の弟妹の計三人を死なせた事件がありました。この事件の構図は、窮鼠猫を噛むというか、言うことを聞かせようとした父親の暴力に対して相当長い年月にわたって我慢してきた少年が普通の反応をしたわけで、押し入ってきた強盗の隙を見て反撃したのと同じです。男の子は自分にできる範囲で最大の反撃を行ないました。児童相談所なんていう気休め的な組織もありますが、もともと日本には弱いものを救うシステムがないというか、施政者が強い者、お金持ちの見方ですからね、起こるべくして起こった事件ですし、これからも同様の事件がたくさん起こるでしょう。
 繰り返しますが、弱い立場のものに対して暴力で言うことを聞かせようとするのは金正日とまったく同じですし、人類の不幸な歴史をつくってきたのは、まさにそういう人間たちでした。なぜかというと、暴力で言うことを聞かせようとしないような「いい人」たちは決して世の指導者になれないし、なろうとしないからです。そこで世の中は相変わらず、いじめられる人といじめられない人の二つに分かれて、これからも不幸な歴史を重ねていきます。やっぱり人類には救いはありません。

 次回はいじめられる人に対して中学生の男の子の立場で書いてみた作文をご紹介します。


身近な人の死

2006年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 橋本龍太郎さんが亡くなりました。何度かお目にかかる機会があり、その度に一言二言、言葉を交わしていただいて、一度などは姪の方を突然ご紹介していただいたりして大変面食らったことがあります。誠に穏やかな人でした。

 橋本龍太郎さんが亡くなる3時間前、私の義兄が肺ガンで亡くなりました。妻と息子と娘の3人が残されました。この2年ほど患っていたらしいのですが、家族以外の親族はそれを知らなかった。今年初めに親族のひとりが事故で亡くなったときの葬式に来れなかったのを、みんなは仕事が忙しいのだろうと思っていました。実はガンがひどくなって動けなかったんですね。そして今年の4月に入院、3ヶ月ももたなかった。ガンの痛みは激しく、痛み止めを打っては沈静し、覚醒してはまた痛みに呻き、を繰り返したようで、看病する家族の心痛も推し測ると地獄のような毎日だったろうと思います。最後に会ったのは私の父親の葬儀の際だからもう何年も前になります。そのさらに数年前、義理の弟である私があまり帰省しないことを非難してきました。それほど、義侠心の強い人だったということです。しかしそのために疎遠になってしまいました。体が大きく、丈夫そうな人だったのに、わからないものです。
 母親が死に、父親が死に、甥が死に義兄が死んだ。順番ということもないのですが次は誰かなどと考えてしまいます。生は死を孕んで存在しますが、死はそれを体験したものが体験談を語るわけにいかない唯一のものなので、誰もその本質について介在的な認識しか持ち得ません。要するに他人の死を見て自分の死を想像する以外に死を理解する手段がないということです。しかも死ぬことに慣れることができないので死の恐怖を克服することは甚だ困難です。自分が若く健康なうちは誰も死を考えもしませんが、年を取ったり病気や怪我をしたりすると弱気になって死を考えるようになります。避けては通れないものだから、どのように受け入れればいいのか、自分自身の態勢づくりを考えるのです。どうすれば死の際でも毅然として平然として悠然として端然として超然として、そして自然に振舞えるか。
 もちろんそんなことは考えても仕方がないことで、かっこいい死に方とか無様な死に方とかそういったことは他人から見た印象に過ぎず、死んだ当人はというと、これはもう死んでいるわけですから格好もヘチマもなく、だから死ぬ準備なんかしても何の意味もない、ということです。しかし、しかしです。そういった見方は生きている側から見たものですから、本当の本当のところはどうなのか、誰にもわかりません。だからやっぱりみんな、死に対して準備しようとしたり身構えたりするんでしょう。
 そうした心の動きはその後、多方向に進むことになります。思想、哲学、宗教に向かうこともあるでしょうし、心理学、超心理学、オカルトや、守護霊、背後霊なんかの霊能者とかシャーマニズム方面、いずれにしても死の恐怖から逃れ現実の生を充実したものにしたいという人間の基本的な欲求からのことですが、こういったことよりも多分一番多いのが、現世でのご利益(りやく)を追求しているうちにいつの間にか利益(りえき)を追求してしまうこと。そうなってしまったのがたまたま宗教家だったり政治家だったり役人だったりすると、これは困ったことになります。そして実際に困ったことになっているのが、現実に私たちが生きているこの社会なんですね。ときどき、亡くなった人を羨ましく感じることがあります。合掌。


「ICO」

2006年07月01日 | アニメ・コミック・ゲーム
 近所のツタヤでプレイステーション2用の中古のゲームソフトを買ってきました。「Kunoichi」と「MAX PAYNE」それに「ICO」の三本。 みんなタイトルがローマ字なのは単なる偶然です。

 で中身はというと、

「Kunoichi」は芳しくなかったねえ。主人公のアクションが人間離れして速いのはまあいいとしても、ストーリーもそこそこにやたらと敵が出現して、ゲーム中はほぼずっと戦闘中なんで、これはアーケードゲームの「ゼビウス」とかとほとんど変わらない印象を受けました。ま、作ったのがセガだからしかたがないと言うしかないでしょう。同じ忍者ものでも「天誅」シリーズのように緩急あり特色あり必殺技ありのゲームと比べると足元にも及ばない、いいところなしのゲームでした。ゴミ。

「MAX PAYNE」は期待していたのに、操作性や視点関係が悪すぎて、パッケージには「銃の弾道や薬莢までをリアルに再現!!」なんて書かれてあるのに、やってみたらぜんぜんリアルじゃないの。多分製作者は「リアル」の意味を誤解している。素人が撮った写真とプロが撮った写真、違いますよね。素人の写真が全体に平板で印象の薄いのに対し、プロのそれは見る人に伝えたい対象やテーマがあって、その部分を突出させている。絵画なんかも同じで、たとえば富士山を遠景で見たままに描いてもそしてそれがいくら実際に見たのと同じように描かれていても、まったくリアルじゃない。むしろ不自然な大きさ、ありえない形の富士山に見る人はリアリティを感じる。このゲームは素人が撮った写真、素人が描いた絵を一冊にまとめて売っている感じ。

「ICO」は一番期待していなかったゲーム。パッケージになんとあの有名作家の宮部みゆきさんの推奨の言葉があったりしたので買ってみました。
で、やってみると、これがメガトン級に面白い。登場人物はほぼ二人だけ。これがいつも手をつないでとにかくある城から脱出するだけのゲームなんだけど、独特の世界観というか雰囲気があって、ゲームをしつつ同時にアニメーションの世界に浸っているような気分になれます。かつてバイオハザードをはじめてプレイしたときにも匹敵するような感動がありました。文句なし。満点。

ファイナルファンタジーも嫌いではありませんが、ゲームに引き込まれる度合いからいくと断然「ICO」に軍配が上がります。このゲームって発売当時、話題になったのかなあ? どれくらい売れたのか分かりませんけど、少なくとも「メタルギアソリッド3スネークイーター」と同じくらい(80万枚以上)売れてもぜんぜん不思議じゃない出来のよさですね。製作はSONY。外人が最高責任者になったりしているけど、やっぱり腐っても鯛。作るものはすごい。もちろん私はSONYの回し者じゃありませんけど、この「ICO」は突出して面白いのでかなりおすすめです。