三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

靖国神社

2006年08月15日 | 政治・社会・会社

 あまり触れたくないのですが、靖国神社に小泉さんが参拝するのかどうかが大問題であるかのようにマスコミは扱っています。しかし国民にとって、本当のところははどうなのでしょうか。
 私の周りでは誰も、靖国参拝のことを真剣に考えている人などいません。どうでもいいことを大げさに騒いでいるな、というのが正直な感想です。朝鮮人や中国人が騒いでいるというのも、テレビや新聞を見る限りは大騒ぎしているように感じますけれども、マスコミが報じているのはごく一部の人々の動きに過ぎないかもしれないし、もしかすると、天安門広場でデモをしたり騒いだり日の丸を燃やしたりしている人々が実は中国政府に雇われた人たちかもしれないわけで、本当のところはよくわかりません。

 よくわからないというと、61年前の戦争の真実も闇の中で、

 天皇が直接に攻撃命令を出したのか、
 真珠湾攻撃はアメリカが用意したスクラップの船を壊しただけなのか、
 軍人はどこまで戦争責任を問われなければならないか、
 民間人には戦争責任はまったくなかったのか、
 大本営の発表とマスコミとの関係はどうだったのか、
 マスコミの戦争責任は問われないのか、

 そういったことはこれまでもこれからも、決して明らかになることはないと思います。それぞれの立場の人にそれぞれの都合があったり思い込みがあったり、信じている真実が人によって違ったりしますから、誰もが本当のことを話したとしても、矛盾だらけになってしまうでしょうし、誰もが本当のことを話すなんてことを期待することも、無理な話です。

 と、ここまで書いたところで、テレビが小泉さんが終戦記念日の今日、まもなく靖国神社に参拝する、と報じました。
 そうですか、やっぱり参拝しますか。
 ・・・・。
 あまり触れたくないと冒頭に書いたのは、小泉さんが参拝するとかしないとかより以前に、靖国神社や61年前の戦争に何の興味も関心もない人間としては、これといった感想が何もないので、書くことが何もないからなんです。マスコミが取り上げなければ、世間はこれほど騒ぐことはないでしょう。
 現に、イラクで武器をせっせと運んでいる航空自衛隊のことはどのマスコミも取り上げないので、国民はほとんど知らない状態です。マスコミが報じるのは無意味な総裁選の行方やら鈴香容疑者やら停電やら北朝鮮やらで、北朝鮮がどんな国なのか散々知らされる一方で、日本政府が海外で何をやらかしているのかについてはまったく何も知らない、ということになってしまいがちです。
 ことほどさように、政府なり権力者なり権力者に影響を及ぼす圧力団体なりの思惑がマスコミの報道内容を左右して、そこからしか情報を得られない国民は、マスコミによって操作されやすくなっており、たとえば中国や朝鮮の反日運動なんかを報じると、誰もあまりいい感じはもちませんよね。中には反発を覚える人やここぞとばかりに愛国心を高揚させる人まで出てきます。日の丸を燃やしている映像を見てその行為の可否を論じたりすること自体、マスコミに操作されていると思わなければなりません。
 マスコミが真実を報道するのは甚だ困難で、それはマスコミも存続を前提として営業活動を行なっている企業に過ぎず、資金の流れを滞らせることは決して行なわないからです。だから反日運動は誰がどのような目的でやっているのか、その内容まで突っ込んで調査したり報道したりすることは決してありません。
 実はそれは中国や朝鮮においても同じことが言えるわけで、それぞれの国民はそれぞれのマスコミを通じて、権力が知らせたいことだけを知らされているのです。そのことを肝に銘じておかなければ、戦争の不用意な肯定になってしまったり無用な愛国心を喚起されたりします。つまり61年前に逆戻りですね。
 今はインターネットがあってそこからも情報を得ることができますが、テレビや新聞の情報に比べてずっと、取捨選択が困難な情報源であり、パソコンの操作や知識の違いがありますので、人によって得られる情報が異なります。とんでもない嘘の情報から真実に近いであろう情報まで、さまざまな情報があって、どれを採用してどれを切り捨てるかという作業が非常に難しいものとなっています。マスコミにもインターネットにも頼らず自分で調査するのはもっと大変です。ですから、時間的にも物理的にも経済的にも一般の人々にとって真実の情報を得ようとするのはかなり無理な話なんですね。
 そこでやっぱりマスコミの情報から取捨選択するしかないのですが、この取捨選択という作業をしないで、マスコミが報ずるそのままに信じてしまう傾向が強い。複数のマスコミが同じ報道をしているのを見たり聞いたりすると、間違いなくそれが真実だと信じてしまうでしょう。実はそれが一番の問題なんですね。
 これは中国や朝鮮の国民も含めて、戦争の真実もさることながら、現在の各国の状況はどうなのか、報じられる情報が真実なのかどうか、常にその疑いを持って情報に接しないと、国民感情が煽られっぱなしになってしまいます。

 とここまで書いたところで、ついに小泉さんが靖国神社に到着しました。

 とまれ今日は敗戦の日です。戦争で亡くなった方々にはご冥福を祈らずを得ません。


偽装請負

2006年08月13日 | 政治・社会・会社

「偽装請負」というわかりにくい言葉があります。これが最近流行っているらしい。

 どういうものかといいますと、まず「労働者派遣法」という法律がありますよね。正式には「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律」というらしいのですが、要するにいわゆる人材派遣に関する法律です。これが1985年に制定され、1999年に改正されました。
 人材派遣については、大体のところはご存知だと思いますので簡単に説明すると、AさんとB社とC社という三者の関係がありまして、AさんはB社に雇われていて、給料はB社から貰います。しかし仕事の現場はC社で仕事の指揮命令もC社から受けます。これが労働者派遣ですね。
 労働者派遣は、1985年以前は「間接雇用」となるから、という理由で禁止されていましたが、禁止できないほど多くの事例があったため、法律で監督官庁に報告させようということで、「派遣法」ができました。要するに「偽装請負」が多すぎたため、取り締まるにはもはや手遅れだったから、新しい法律を作って少しは管理しようとしたわけです。最初は限られた業種だけだったのですが、1999年の改正で禁止された業種(建設・警備・港湾・医療)以外は派遣できるようになりました。これも現実を法律が追いかける形ですね。現実を調査しないで机上だけで法律を作るからこういうことになってしまいます。

 請負というと、ゼネコンと下請の形が典型的で、ある仕事をC社がB社に依頼して実際の仕事をAさんが行なう場合は、

 雇用関係・・B社とAさんの雇用契約、就業規則等
 指揮命令・・B社がAさんに指揮命令を行なう
 契約形式・・B社とC社の請負契約

 となります。これが労働者派遣の場合は、

 雇用関係・・B社とAさんの雇用契約、就業規則等
 指揮命令・・C社がAさんに直接指揮命令を行なう
 契約形式・・B社とC社の派遣契約

 です。

 さて、これからがややこしい。
 もともと、C社はバブルの崩壊から業績が悪化して、赤字転落を防ぐためには経費を削減するしかなく、そのもっとも大きなものは人件費である、ということでとにかく人員を削減した、と言いますか、要するにたくさんの人をクビにしました。しかしその結果、急に仕事が増えた場合、社員のサービス残業だけではこなしきれないときがある。かといって再び人を雇うのではたくさんの人をクビにした意味がない。ではどうするか。
 そこで経営者が考えたのは、労働者派遣の会社から忙しいときだけ短期的に人を派遣してもらえば、ヒマになったら契約を解除すればいいから、新規雇用に比べて大幅に経費を節約できる、ということです。直接人を雇うのに比べると割高ですが、賞与引当金だとか法定福利費だとか退職給付費用だとかを考えると、そんなに差はありません。「労働者派遣」を「アウトソーシング」と言い換えるとグッと印象も違ってきて、派遣業者の数も増えました。

 ここまで書いて、おかしいな、と思いました。というのは、労働者派遣法ができて、それまでの「偽装請負」が合法化されて、さらに改正によってより多くの「偽装請負」が合法化されたのに、最近になって「偽装請負」が流行っているというのは、ちょっと変だ、ということです。
 ひとつは、実は最近になって「偽装請負」が流行っているのではなくて、ずっと「偽装請負」をやっていたのが、最近になってバレた、というだけの話なんです。なんとも情けない話。もうひとつは、「派遣法」では何かと都合が悪かったり、「派遣法」に規定されている禁止業種だったりする場合に、請負契約ということにして派遣を行なってきた実態があります。
 どうしてそういうことをするかというと、派遣労働者に労働基準法を超えて長時間労働をさせたくて、しかも超過勤務手当てを払いたくない場合だとか、派遣法の基準を超えて長期にわたって仕事をさせたい場合だとか、そういう場合に「偽装請負」が行なわれます。たとえば労働者AさんがB社に雇われていてC社に派遣されているとき、残業があったりするとその分をC社がB社に支払って、B社はAさんに残業手当として支払いますが、これが請負契約だと、ある一定量の業務を委託されているという形になっていて、どれだけ残業しようが関係なく、C社はB社に対して一定の請負金額を支払えばいいことになります。もちろんB社からAさんに残業手当が支払われることはありません。その「一定量の業務」というのがC社が恣意的に決定できるものですから、正当な契約とは呼べませんね。

「偽装請負」は「間接雇用」だからいけませんよ、と規定しているのは職業安定法、その職業安定法の適用を逃れることのできる規定が労働者派遣法、ということなので、たとえば他の警備会社に自社の警備員を派遣してこれを「請負契約」とした場合は、職業安定法にも労働者派遣法にも違反しているわけで、かなり悪質な行為です。
 これと同じことを大企業が、しかも長期にわたって行なっていた、というのが発覚したので最近話題になっているわけです。トヨタとキャノンが有名ですが、調べればほとんどの大企業が「偽装請負」を行なっているのが明らかになるでしょう。この問題は実は相当、根の深い問題で、戦後の復興期から連綿として続く強制労働の一角として現れているものです。現在でも月間200時間を超える残業や有給休暇どころか普通の休日もちゃんと取れない人がたくさんいると思います。そしてそういった労働に対してまったく対価を支払わないで平然としている経営者もたくさんいます。悲しいことは、そういった状況が当たり前になってしまって、変だと感じない労働者がたくさんいることです。

 人間は環境に慣れる動物でこれを「適応」などという言い方をします。環境が変化して、それに適応できない者は淘汰される、そうやって人間は発展してきたし、生物の進化も同様だ、そう考える人は多いかもしれません。しかしながら、「適応」するのがいいことなのか、それともよくないことなのか、それを検証しようとする人はあまりいないでしょう。
 不適応、不適格、順応性がない、負け組、こういう言葉は印象が悪く、それに対して、適応、的確、フレキシブル、勝ち組、こういうのはなんかいい感じですよね。環境に合わせてうまく生きる、要領のいい、頭のいい生き方なんでしょう。しかし要領の悪い、頭の固い、どうにも適応しない生き方を否定してしまうことはありません。

 「偽装請負」が明らかになったのはそういう頑固な人が告発したのではなくて、適応しようと無理をして体を壊したり怪我したり、鬱になったりした人がいたためだ、という点が、この問題の悲しいところでもあります。


暴力と殺し合いの歴史

2006年08月06日 | 政治・社会・会社

 某夕刊紙に「サラリーマン相談室」と題して矢島正雄という人が相談に答えています。おそらくその第一弾ではないかと思われますが、8月5日号に掲載された記事の内容が、暴力を肯定するという、大胆なものでした。
 「ネチネチ上司」という類の上司がいて、それを殴りたい、というなんとも子供じみた相談なんですが、これに対してこの矢島正雄なる人物は、自分にも経験があった、銀行勤めのときで、当時の上司を銀行の裏に呼び出してボコボコにやっちゃった、嫌な上司にははっきりとやめろといって聞かないときは殴っても仕方ない、というすごい回答をしています。この後もすごくて、「なぜか日本の組織って、こんな嫌なヤツがソコソコ出世する」と書いた直後に「大事なのは〝自分の将来は明るいはず〟と信じること」と書いていまして、そういう嫌なヤツがソコソコ出世するような日本で、どうして自分の将来が明るいと信じられるのか。このあたりの自己撞着もなんのその、上司を殴ったとしても道は開ける、殴らずに後悔したヤツはいっぱいいる、などと殴ることを奨励しているとしか思えない結論で結んでいます。
 人類の歴史は暴力と殺し合いの歴史でしたから、人を殴る人間がたくさんいて、そういう人間は子供も殴り、殴られた子供は人を殴る人間に育ち、ときには人を殺します。そうして殺し合いの歴史が連綿と続いていくのです。矢島正雄なる人物は、自分がその歴史も奨励していることに気がついていません。こういう人がいる限り、暴力と殺し合いの歴史はジャイアンツよりもずっと永遠に続きそうです。いったい誰が歯止めをかけうるのでしょうか。
 歯止めをかけようとする人は当然ながら、人を殴らない人ですから、殴る人に負けてしまう可能性が高い。そして、殴っている人と殴られている人を見たとき、自分に被害が及ぶことをまず人間は恐れます。自分が殴られることがないようにしたい、それが普通の心理です。これが道端で見知らぬ他人同士が殴ったり殴られたりしていたら、警察に通報すればいいだけの話ですが、たとえば自分の所属する組織や共同体の中で行なわれていたときはどうでしょう。会社で同僚が理不尽な理由で社長に殴られている。では警察に通報するかというと、まずしません。
 「人はパンのみにて生きるにあらず」と聖書には書かれていますが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には「人はパンのために喜んで自由を投げ出す」と書かれています。定期的に支給される給料や被雇用者であることによるさまざまな安定した利益、現代人にもっとも必要な利益ですね、その利益のために人格を投げ出しているのが現代の被雇用者の実態です。そこでなかなか上司には逆らえない。この構造を知っていて、なおそれを利用して社員を殴る社長、部下をいじめる上司は、人間的には最低のランクですが、そういった最低のランクの人間が社会の上部構造にいる、というのが現実です。ソコソコ出世する、どころではなくて、会社のトップ、役所のトップ、政治のトップまで出世します。
 人格的に最低ランクの人間が最も高い地位にいる国が北朝鮮で、日本はそれとは違うと思っている日本人がたくさんいると思いますが、実は構造的には日本も北朝鮮も同じなんですね。基本的に、殴る人が殴られる人の上に立つ社会です。社会自体が暴力団と同じ構造と言っていい。いや、違法行為を命令されてもそれには従わないから、暴力団と一般社会の構造は違う、と言いたいところですが、岐阜県庁の裏金作りや各保険会社の保険金不払いなどの事件を持ち出すまでもなく、命令されれば、人間は違法行為も含めて、たいていのことをやってしまうものです。その構造は会社も役所も暴力団も同じです。
 だから社長が理不尽に社員を殴っていても、誰も逆らわないし、警察に通報もしません。警察に通報する行為が非常識と思われかねない雰囲気さえあります。これは実は異常な事態なんですが、この異常事態がずっと続いていると、異常でなくなってしまいます。この感覚の麻痺が恐ろしい。
 非暴力を説いて支持された有名な人物はイエスやブッダ、ガンジーなどですが、非暴力が歴史の主流になることはついになく、逆に暴力の極みである核兵器を所持する国が増加する傾向にさえあります。これは非暴力主義が現実的でない、という考えに基づくもので、「平和憲法」を頂く日本でも軍隊の存在はやむを得ない、とされています。文化人の中にはガンジー的な非暴力を説く人もいますが、議論や座談会の現場では一笑に付されて終わっています。
 ことほどさように、暴力を肯定する勢力が世の中の支配層であるにもかかわらず、たとえばジダンの頭突きが問題になってしまうのはどうしてかというと、これは簡単な話で、権力者ではないからですね。権力者による暴力は大体許されてしまいます。ブッシュがイラクで何千人殺そうと、「人殺し」と呼ばれることはあっても「殺人犯」にはなりません。しかし一般人が暴力を振るったらそれを罰しないと、暴力が権力者の特権でなくなってしまうので、だから取り締まるわけです。
 ところが、これがたとえば家庭内の問題になると、家庭で暴力を振るう父親を取り締まることはあまりありません。「ときには殴ることも必要だ」という無茶な論理がまかり通ってしまう世の中です。幼児が殺されたり病院に運び込まれ、不審に思った医者が警察に通報してからやっと、家庭内の暴力が問題になります。児童相談所にはなんの力もなく、家庭内で「教育」の大義名分を振りかざしたりまたはなんの脈絡もなく子供に暴力を振るう親が、のうのうとのさばっているのが現状です。
 殴られて育った子供は、必ず人を殴る人間になります。殴ることに抵抗がないからです。良心の呵責もない。殴られずに育った子供は人を殴ることに抵抗を感じますし、良心の呵責を覚えます。だから人を殴れません。愛情を持って子供に接する親に育てられた子供は、そうでない子供に比べて他人に愛情を持って接する度合いが強くなるのと同じで「子は親の背中を見て育つ」というのは真実なのです。
「最近の子供はけんかの仕方を知らない」という意見があります。これはどのくらい殴ると相手が怪我をするかを知らないから手加減が利かない、といった意味で使われており、「だからときにはけんかも必要」となって、暴力を擁護する理由に使われたりしますが、これは論理のすり替えに過ぎません。そもそも互いに暴力を用いてけんかをする、という事態が起きなければ暴力によって大怪我をさせたり、場合によっては殺してしまったりすることもないわけです。「殴られたことのない子供は殴り返すことができず、その分怒りが深くなって、相手の家に火をつけるとか殺してしまうとかいった極端な行動に出てしまう」という議論もあります。これもなんか変です。だったら、殴られたり殴り返したりという野蛮な行動をする子供が理想的な子供なのか、ということになって、「理想の子供は暴走族」ということになります。それでいいのでしょうか。
 ハンムラビ法典ではありませんが、たいてい「先に殴ったほうが悪い」という論理があって、「だから殴り返すのは当然」となりますが、これが強く殴りすぎたりすると「先に殴ったほう」の人間が死んでしまったりして、殺人事件になったりします。こうなると「先に殴ったほう」が被害者扱いで、いい人、真面目な人、思いやりのある人、誠実な人、と褒め言葉のオンパレードになって、そして「真面目で誠実のあまり殴ってしまった」ということになって、「その真意も理解できないノータリンが殴り返して殺してしまった」のが真相だった、なんてことになりかねません。マスコミは大衆迎合権力者迎合だから、どんな報道でもします。
 人を殴って、強く殴り返されたから、もっと強く殴って、するともっともっと強く殴り返されたから、さらに・・・・なんて馬鹿な繰り返しになってしまったとき、先に殴ったほうが悪いのか強く殴り返しすぎたほうが悪いのかは不毛な議論です。繰り返される暴力の連鎖をどこで断ち切ることができるか、それを考えなければなりません。
 ミサイルを発射された国が相手国に核ミサイルを撃ち込めば、それは国際的に非難されるでしょう。しかし核ミサイルに反応した自動反撃装置が水爆を何十発も撃ち返していたら、どうでしょうか。先に撃ったほうが悪いのか、先に核を使ったほうが悪いのか、それとも何十発も水爆を撃つ反撃装置を設置していたほうが悪いのか、そんな議論よりも、当事国の国民はみな死んでしまって、議論自体、する必要がなくなってしまいます。これは悲劇です。やはり暴力の連鎖をどこかで断ち切らなければなりません。
 日本は専守防衛といって「先に殴る」ことはしませんよ、というスタンスです。絶対に殴らない、とは言っていません。最近の傾向はむしろ逆で、殴られたら殴り返しますよ、から、殴られそうになったら殴りますよ、という方向に進みつつあるようです。しかしもしここで、憲法の条文どおりに、戦車やミサイル、戦闘機に至るまで武器という武器を廃棄してしまったら、世界中の笑いものになるのか、尊敬される国になるのか、どっちなんでしょう。原爆記念日の今日、少し考えてみたい問題ではあります。
 少なくとも、上司を殴っていいかどうかの相談には、決して人を殴ってはいけませんと、常識のある人間としてまっとうに答えたいと思っています。


八百長の証明?

2006年08月05日 | 政治・社会・会社
 イギリスの競馬で、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスという長い名前のレースがありまして、日本からもときどき挑戦する馬がいますが、今年はハーツクライという馬が挑戦し、3着になりました。実況ビデオを見ましたが、日本の競馬でしたらゴール前で抜け出したハーツクライが普通なら勝ち馬になるところでしたが、そこは本場の競馬で、3コーナー過ぎから追い通しだったはずのハリケーンラン、さらにはエレクトロキューショニストというよくわからない馬名の馬にも抜かれて、惜しい3着となりました。日本の競馬だったら考えられない展開で、勝った馬と2着になった馬の強さは別格です。おそらく凱旋門賞で対決することになるだろうディープインパクトも、もしかしたら勝てないかもしれません。ハーツクライには有馬記念で負けていますし、その比較からすると分が悪いのはたしかですね。

 競馬を八百長だという人がいます。調教師に話を聞いたと。八百長が多すぎて、しかも競馬は25%も主催者がピンハネするから、こんなもんにお金を賭けるなんてアホらしいと、そう言う人がいます。たしかに八百長をする調教師も騎手もいたかもしれませんし、現在でもいるかもしれません。物事の実態というのは綿密に調査しなければわからないものだし、時には当事者でもわからないことがあります。八百長の実態というと、当事者はみんな隠したがるわけですから、なおさら明らかにはなりにくいでしょうね。
 厩舎の思惑というものがあって、たとえば2頭の馬がいて、同じくらいの獲得賞金で、つまりクラスが同じで、しかも適距離と得意なコースが同じだったら、どちらかに勝たせてクラスを上げて、同条件のレースにぶつからないようにしたいと、調教師なら誰でも考えます。また、たとえばこのレースで勝っちゃうとクラスが上がって、同厩に適距離と脚質と得意なコースが同じ馬がいて、それと同じクラスになってしまうと次のレースでぶつかってしまうことになる。そうならないように、先に上のクラスの馬をさらにその上に勝ち上がらせて、それから下のクラスの馬を勝たせて上のクラスにあげると、ぶつからずに済む、というふうに、管理馬の効率を考えて出走レースを考えたり、馬の仕上げ方を変えたりするのも、これまた調教師なら当然のことです。
 競馬ファンはそういった厩舎の思惑まで考えながら、馬券を買うのです。新聞に書かれてある厩舎のコメントの裏の意味を考えながら馬券を買います。血統も追いかけますし、データも重視するし、前走や前々走の印象も大事にします。それでも騎手が失敗したりすることもあるし、馬が躓いたり出遅れたり骨折したり、かかったりフケが出たり馬っけを出したり(すみません、競馬用語です)、不確定要素が非常に多く、馬券の的中を難しいものにしています。それは見方を変えれば、八百長がやりにくい、ということでもあります。レースでわざと負けるのはパトロールビデオの存在があってバレやすいので、騎手生命をかけるには危険が多すぎますから、八百長はたとえばレースの前の日に水をぜんぜん飲ませず、当日にガブガブ飲ませれば馬は走れませんから、そういう八百長はできるかもしれません。
 しかし、八百長かもと言いはじめたらどんなレースも八百長かもしれないわけでして、世界の競馬やF1、パリ・ダカ、インディ500、オリンピックやワールドカップなどが八百長でない証拠を提出するのは悪魔の証明に似て、大変難しいものだと思います。

 さて、亀田興毅の試合についてはもういろいろな意見が出尽くしているようです。判定が八百長なのかどうかは今後判明するかもしれないし判明しないかもしれませんが、もしブックメーカー等であの試合に賭けていた人たちにとっては大きな問題でしょうね。
 ブックメーカーというのはイギリスの公認の賭け屋で、スポーツはもちろん、政治経済までいろいろな賭けを受け付けています。ちなみにかつてダイアナ妃とチャールズ皇太子の長男の名前はブックメーカーが一番人気にしたウィリアムになりました。どうしてわかったのか、わかりません。世界中の出来事についてオッズを出しているので、このところ日本のマスコミが勝手に騒いでいる自民党の総裁選なんかも、オッズを出しているんじゃないでしょうか。ブックメーカーの情報がないのでどうなっているかわかりませんが、どなたかご存知の方いらっしゃいますか?
 ところで日本語の八百長についてはその語源はわりと最近のことでして、明治時代の相撲の年寄相手に碁を打っていた八百屋の長兵衛さんが、商売のことを考えて時々わざと負けていたということらしく、わざと負けることを八百長ということになりました。互いに示し合わせて勝負することも八百長と呼ぶようにもなりました。
 従いまして、今度の亀田の試合は、亀田側と対戦相手側が示し合わせていたかというと、それはまるっきりそう見えないので、八百長とは言えません。大方の人が疑っているように、もし審判が間違った判定をわざとしたとすると、それはでっち上げ、イカサマ、インチキ、デタラメなどの言い方ができますが、どうもピッタリというには無理があるようです。
 ということで気がついたんですが、日本では審判が間違えることを誤審といいますが、わざと誤審する、という言葉はないんですね。審判がわざと誤審したり、裁判官がわざと間違った判決を下したりする習慣がない、ということです。
 それはそうでしょう、車を運転しているときも対向車が急にこちらの車線に来ることはないと思って運転していますよね。道路交通法ではこれを「信頼の原則」と呼びます。私の場合は、もちろん運転者を全面的に信頼するなどという危険な賭けをすることなく、青信号の横断歩道を渡るときも左右を確認してから渡ります。大阪の知人が「大阪では、黄色は突っ込め、赤は踏み込め、があたりまえ」と言っていましたから、横断歩道で横断する人がたくさんいてもそこに猛スピードで突っ込んでくる無法者がいないとも限らないので、横断歩道を無警戒に渡ることは無謀というものです。
 とはいえ、裁判官が無罪の人間をわざと有罪にすることは通常では考えられず、もし裁判官の意思を信頼する原則が壊れたら、民主主義そのものが壊れてしまう可能性があります。「裁判官の意思」と書いたのは、裁判官そのものはもはや、あまり信頼されていないのが現実だからです。ちゃんとした判決を下せる裁判官は少ないと思います。しかしすべての裁判官は、たとえどんなに頭が悪くても一般常識に乏しくても、例外なく、ちゃんとした判決を下そうとしている、とは思っています。もしそうでなくて被告や原告から金を貰って判決を曲げるようなことがあれば、それは世紀の大事件であって、裁判官の綱紀粛正が緊急の課題となります。場合によっては暴動が起こったり、非常事態が宣言されるかもしれません。
 競技の審判の場合はそれほど重大な結果をもたらすことはないでしょうが、競技のあり方というか、審判のシステムが見直されなければならないことにはなるでしょう。今回の試合の審判については、問題はボクシングだけでなく、かなり深刻な影響を各種競技全般にわたってもたらすことになります。
 だから、といってはなんですが、この試合の審判については副審の三人がそれぞれに採点した結果に過ぎない、という結論になると思います。それ以外の結論だと、たとえば誰かこの試合の結果によって利益を左右される立場の人間なり組織なりが副審三人に何らかの働きかけを行なうことで、採点が本来とは違ったものになった、ということが明らかになったりしたら、審判がいるすべての競技、つまり競技すべてが成り立たなくなってしまうからです。


刑法改正

2006年08月03日 | 政治・社会・会社

 社会が注目している刑事裁判があるとき、該当する刑法の条文が紹介されますが、そのたびに感じるのは、はっきりしない刑罰規定ですね。

 刑法 第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する

 五年の懲役と死刑ではずいぶん差があるように感じます。巷では「三人殺すと死刑」なんて言われていますが、第199条については裁判官の情状酌量によっては五年よりも少ない刑にするのも可能らしく、三年の懲役ということもありうるそうです。
 この「裁判官の情状酌量」というのが曖昧で、いつも問題になる点なんですが、情状酌量のポイントというと、本人の反省の度合いとそれに基づく更正の可能性でして、これまた曖昧な基準で判断されているわけです。
 しかし刑罰は基本的に犯した罪によるもので、罪を犯して官憲に捕まった後に、反省しているか反省していないかで、刑罰が軽くなったり重くなったりするのは本来、おかしいことです。だったら法律を制定しないで裁判官が自分の考え方で裁けばよろしい。現に北朝鮮は罪の如何を問わず、金正日の気分で罰が決まります。立小便で死刑、なんてのは日常茶飯事らしい。独裁国家では独裁者が法律なので当然のことをしているまでの話。しかし、日本は独裁国家ではなく民主主義国家のハズなので、法律に基づいて裁判を行なうことになっています。なぜ法律に基づくかというと、裁判官が勝手に刑罰を決めたら独裁国家と同じことになってしまうからです。
 ところが、その法律の幅が広すぎて、裁判官の考え方を反映してしまうものであることが問題なんですね。情状酌量するかどうかは裁判官によって異なるでしょうから、被告はどの裁判官が判決を下すかによって、当り外れがあることになってしまいます。なんせ懲役三年から死刑まで、相当な差がありますからね。しかし仮に刑法第199条が次のようであったらどうでしょうか。

 刑法 第199条 人を殺した者は、死刑に処する

 いやあ、わかりやすい。これでは裁判官の仕事がなくなる? そんなことはありません。裁判官はもっとも大事な仕事に集中できます。それは事実認定。被告が本当に人を殺したのかどうか、しっかりと見極めること、それが裁判官の仕事になります。裁判官によって刑罰の軽重が異なることもありません。
 被疑者が反省しているかどうか見極めたりする必要がなくなるので、検事の仕事も減るでしょうし、神をも恐れぬ警察官が馬鹿な説教をしたりする時間の無駄もなくなるでしょう。被疑者または被告も反省したり反省しているフリをしたりする必要がない上に、警察官や検事から心の中のことまで尋ねられるという理不尽な質問攻めに遭わなくて済みます。

 奈良の高校1年生による自宅放火殺人事件のその後なんですが、犯人の少年に父親が面会したらしく、そのやりとりがマスコミで紹介されていました。10年以上にわたって息子を暴力で虐待し、勉強を強要しつづけたあの極悪非道の父親です。その父親の発言というのがかなりひどいものでした。
 「暴力を振るったパパを許してくれ」
 息子に手を出したのがたった一度きり、というのであればこういう言葉もそれなりの意味を持ちますが、10年間暴力を振るいつづけた人をどうやって許せというのでしょうか? ヒトラーが「たくさんの人を虐殺した私を許してください」と言って許す人がいますか?
 「自分がちゃんと更正し、人生をもう一度やり直すことが本当の償いだ、とパパは思う」
 この父親は本当に反省していなくて、ことここに至ってもまだ、自分の考えを息子に押し付けようとしています。そしてその反省していない父親が、
 「口に出して言わないと、調書に書いてもらわれないんやで。心の中でどんなに反省してても、口に出して言わないと他の人はわかってくれない」と、息子に言っています。
 これは、調書を書く人つまり取調官には「反省しています」と言え、と強要しているわけです。10年間息子に勉強を強要しつづけた挙句、鑑別所までのこのこ行って、さらに強要をひとつ重ねました。この父親自身はまったく反省していないのがわかります。取調官に「反省」を見せて情状酌量を勝ち取り、早くムショを出るのが息子の幸せであるかのように考える独善性。この父親には、もしかするとこのまま死刑になったほうが息子は幸せかもしれない、と考える想像力など、まったく期待できません。

 放火殺人は過去の判例で最も重い罪だとされていて、普通なら死刑です。私も死刑が相当だと思います。殺された三人はおそらく少年の味方ではなかったかもしれませんが、武器を持たない無抵抗の弱者で、従って少年には正当防衛も緊急避難も適用されませんから、この少年が反省していようがいまいが死刑しかありません。父親には当然、暴行罪と強要罪、場合によっては傷害罪、さらに加えて、未必の故意としての殺人幇助が適用されるべきです。10年以上も虐待され強要されれば、殺人鬼が育ってしまうのも予想されることであると判断しなければなりません。
 しかし現実的にはどうでしょうか。父親には何のお咎めもなく、少年はまさに少年であるという理由で死刑にはならないでしょうね。それがおかしい。共同体の掟は誰にも平等に適用されなければならないわけで、裁判官の個人的な判断にゆだねるのは平等の原則に反するものです。
 それに現状の裁判事情のようにお金がかかりすぎる問題を解決することにもなります。もし刑法の刑罰が一通りしかなければ、時間と人員とその他の費用の節約になりますから、それはとりもなおさず税金の節約なので、国民としてはぜひそのように改正してほしいところです。
 冤罪ですか? もちろん冤罪の危険はいつもあります。それは刑罰に幅を持たせようがたったひとつだけしかない刑罰だろうが、同じことです。共同体が裁判とか司法制度を持った段階で、冤罪の危険性も受け入れなければならないし、共同体の構成員は自分自身が冤罪の被害に遭うことも当然、覚悟を決めていなければなりません。もちろん一方では冤罪を作ってしまった司法と捜査関係者は厳しく追及されなければなりません。それが共同体のバランスというものです。刑法から刑罰の幅を取り去ったからといって、このバランスが崩壊するわけではないのです。