三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Angst」(邦題「アングスト/不安」)

2020年08月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Angst」(邦題「アングスト/不安」)を観た。
 殺人鬼のモノローグで全体を纏めるという前代未聞の作品だ。カメラワークにはのっけから驚かされた。中盤ではドローンを使ったのかと思わせる俯瞰が登場する。とても37年も前の映画とは思えない。誰かがスマートフォンを取り出すシーンを入れれば即座に最近の映画として通用するだろう。
 やみつきという言葉がある。病みつきとも書くのである種の精神の異常なのかもしれない。食品などの好みによく使われる言葉で、例えばパクチー(香菜)などの特別な匂いのする野菜は、嫌う人も多いが、最初は嫌いだったが食べているうちに好きになって、今ではやみつきになったということもある。当方もその一人だ。
 本作品の主人公にはまったく感情移入できないが、もしかしたらパクチーと同じように、人を傷つけたり殺したりする行為は慣れていくうちに快感になるのかもしれないとは思う。頻繁に人を殴る人間を知っているが、とても嬉しそうに殴っている。殴ることに慣れると殴らないではいられなくなるのだろう。
 日中戦争では関東軍の将校が百人斬りを争ったという話がある。当時の東京日日新聞に105人対106人などと書かれていて、さも快挙であるかのように喧伝されている。当時の日本が国全体で本作品の主人公と同じ精神性であったのだとすれば空恐ろしい。普通の平凡な人間でも、ある日突然シリアルキラーにならないとは限らない。それが国家単位で行なわれれば即ち戦争である。
 描写はリアルである。主人公は至って普通の腕力の持ち主であり、それが人を殺せるのはひとえに精神の力である。殺せる人と殺せない人の間には深い溝があると思っていたが、慣れれば意外にすんなり飛び越せる溝なのだろう。誰もが主人公のようになる可能性があるのだ。とても怖くて不気味な作品であった。

映画「Fahim」(邦題「ファヒム パリが見た奇跡」)

2020年08月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Fahim」(邦題「ファヒム パリが見た奇跡」)を観た。
 幸運な人の背後には幾万の不幸な人がいるというのは誰もが薄々感じていることだと思う。例えば日本のIT事業で成功するのは数万人に一人らしいから、限られた成功者の足元は死屍累々という訳だ。実際に死んでしまう人は少ないだろうが、破産したり巨額の借金を背負ってしまった人は数え切れないほどいるだろう。中には更に借金をして成功する人もいるかもしれないが、失敗して更に借金ができるのはよほど恵まれている場合で、いずれにしろ成功者はごく一握りの幸運な人々である。
 フランスは難民を受け入れることで多くの問題が生じているようで、最近のフランス映画には難民を扱ったり、シーンの端に難民が登場する作品が多いように感じる。フランスは難民を受け入れるが、言葉の壁は如何ともしがたく、言葉を覚えられない難民に仕事はない。本作品においても言葉をすぐに覚えられた息子とまったく覚えられない父親とで開ける道が異なっていく。
 父親ヌラには危機感がない。パリに行けばなんとかなるとでも思っていたようなフシがある。難民にはいろいろな人がいる訳で、中にはこういう楽天的な人がいてもおかしくはない。一方のファヒムは子供ながらに現実的で、フランス語を覚えない父親をもどかしく思っている。チェスは万国共通で言葉は不要だが、ヌラにはそういう才能がないから、フランス人と接して言葉を覚える機会もない。この俳優さんは無名なのだろうが、家族への愛情が深くて人柄がいいだけの凡庸な人間を上手に演じている。
 主人公ファヒムは幸運に恵まれた少年と言っていい。この子役はとても上手だ。初めて見る雪、初めて見る海には天真爛漫に喜ぶが、自分の身の上を忘れてはいない。一方でチェスの情熱は人一倍で勝つことに執着する。ファヒムが輝く分、ヌラが哀れに見える。
 最近鑑賞した「世界の果て、数多の終焉」で苦悩する小説家を演じていたジェラール・ドパルデューが本作品では偏屈だが心根の優しいチェス指導者を好演。ファヒムを上手に導いてチャンスを確保するのだが、ヌラまでは救えない。ヌラは確かに何の才能もないが、施しは受けないという誇りと人を助ける優しさを持っている。優しくて自立しようとする人間を救えない世界はやっぱりおかしい。
 ありきたりの結末だが、この物語の背後にある難民問題と、難民問題を生み出す世界の格差と貧困と圧政が透けて見える。問題はグローバルで世界の指導者が協力しなければ解決できない。そのためには協力的な指導者を選ぶ有権者が世界中にいることが条件になる。排他的なアメリカの大統領や難民の殆どを拒絶する政治方針の安倍政権などが難民問題の解決を阻んでいる。哀れなヌラを救うのは世界の有権者なのである。

映画「はりぼて」

2020年08月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「はりぼて」を観た。
 富山市会議員の政務活動費の不正使用の話だが、原因を辿ると結局は有権者のレベルに行き着く。富山市議会が腐っているのも、どんな問題が起きても自分は何も言う立場にないと逃げ回る男が市長をしているのも、みんな富山市の有権者がそういう人間を当選させるからだ。富山市は市全体が腐っているのである。不正発覚後の選挙でも自民党会派が過半数を維持したのがその証だ。そして腐っているのは富山市だけではない。
 同じことが全国の地方議員の間で起きているのは誰にでも判る。富山市はたまたまチューリップテレビという新興のテレビ局が向こう見ずにも突撃取材をしたから実情が明らかになってドミノ倒しのように議員が辞職したが、他の市区町村でも他の都道府県でもそれぞれの議会に属する議員が政務活動費をちょろまかしているのは誰にでも判る。実際に「政務活動費 不祥事」で検索すれば地方議員の不正の事案がボロボロ出てくる。
 政務活動費の不正利用を明らかにされても議員に居座る者もいる。「責任を痛感している」「高い緊張感を持って注視していく」と言い続けながら一度も責任を取らず、何の対策も講じない暗愚の宰相がトップに居座るお国柄である。富山市議会議員が居直るのも当然だ。詐欺で刑事告発されても平気である。検察も仲間だから不起訴になるに決まっているのだ。
 議会事務局長や教育委員会の教育長などの役人たちは直接不正に関わっているわけではないが、保身のために情報を漏洩したり、事実を隠したりする。自民党は国家権力を牛耳っている党である。たとえ市議会議員でも自民党議員であることにはかわりはない。情報を伝えなければ逆鱗に触れて自分たちは左遷されたり役職自体をなくされたりしないとも限らない。役人たちには現行の勢力が国家権力に直結する大きな怪物のようなものに感じられるのだろうか。保身は恐怖心に由来する。役人たちには勇気がないのだ。
 その役人たちの勇気のなさも、有権者の投票行動によるものだ。投票率が低ければ現行の勢力が維持されてしまう。選挙をしても何も変わらないのであれば、いま力を持っている政治家に従うのは当然である。仮に誰かが声を上げて政治の勢力図が変わるのであれば、役人たちは政治家よりも原則に従うことになる。日本国憲法第15条第2項の「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」という原則だ。しかしそうはならない。
 投票に行かない有権者は現行の政治のままでいいと思っているか、そもそも政治に関心がなく、選挙があることも認識していない。日本ではそういう人が過半数を占めている。有権者にとって選挙での投票が唯一の政治活動であるはずだが、マスコミは選挙を大々的に報じることをしない。マスコミも政治家も役人も、ほとんどが腐っているのがこの国の実情だ。
 かつてマスコミが垂れ流す大本営発表に熱狂し「露営の歌」や「出征兵士を送る歌」で若者を死地に追いやり、国が勝つことを信じていた日本国民は、未だにその愚かさを継続している。パラダイムや大義名分に弱くてミーハーな国民性だから政治家はやりたい放題だ。富山市議会の不祥事に関する一連の動きは、日本の政治家と役人とマスコミと有権者の典型である。
 ラストシーンから推察するに、総務大臣がパワハラさながらマスコミを脅したように、権力構造のどこかからチューリップテレビも圧力を受けたのだろう。報道姿勢は与党寄りに変わってしまったのかもしれない。しかしそれでも本作品を公開したことは高く評価できると思う。これをきっかけに選挙の投票率が上がれば、もしかしたら政治勢力が選挙のたびに塗り替えられるようになるかもしれない。全国の中学生や高校生に是非観てほしい。社会科の授業に使うのもありだと思う。

映画「Les confins du monde」(英題「To The Ends of The Worlds」邦題「この世の果て、数多の終焉」)

2020年08月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Les confins du monde」(英題「To The Ends of The Worlds」邦題「この世の果て、数多の終焉」)を観た。
 日本の映画上映に関して最も不要と感じるのは映倫という組織だ。本作品においても、不可思議なぼかしが入っているシーンが散見された。この時代に性交シーンのぼかしは不要だろう。映倫の役割は、作品の内容に踏み込まず、ポケモンショックのような人体に直接的に悪い影響を与える映像だけをチェックすることに限定すべきだと思う。であれば人間がやるよりセンサー搭載のAIにやらせるのが正確だしコストも掛からないし変なバイアスもない。年配男性がほとんどの映倫は、とっくの昔にお役御免なのだ。
 さて本作品は戦争映画ではあるが、インドシナ半島に派遣された若い兵士が戦争との具体的な関わり合いの中で迷い悩みながら、次第に国家と戦争の本質について悟っていく話でもあると思う。
 インドシナ半島は他の地域と同様、長い間戦争状態だった。原始的な部族同士の争いから、中国やモンゴルによる侵略を経て、19世紀の帝国主義政策によるフランスの侵略と支配が100年ほども続いた。本作品はその最後の戦いのあたりの一時期を切り取ってみせている。
 第二次世界大戦ではフランス本国はヒトラーの侵攻を受けたが、レジスタンスが地下で活動し、ナチスによる支配が精神にまで及ばないように抵抗していた。連合国のノルマンディー上陸作戦を機にナチスは撃退され、フランスは解放される。インドシナではフランス軍が侵略者である。自分たちがフランスのために戦っているように、敵の兵士も自国のために戦っている。彼らとフランスのレジスタンスは何も違わない。
 インドシナの民間人は戦時下でも生き延びるために売春や阿片窟を含むあらゆる経済活動をしている。それもフランス本国と変わらない。売春婦の中には優しさを持つものもいて主人公は恋愛感情に陥るが、売春婦はその職業故に多くの男と性交をする。異国人でもある。それに彼女の同胞はフランス兵を殺している。若い主人公には恋愛感情と戦争での互いの立場と相手が売春婦であることの折り合いがつけられず、状況を受け入れられない。
 一方、ジャングルの戦いではベトミンのゲリラが神出鬼没に銃を撃ってきて、仲間や捕虜が殺される。子供も侮れない。悲惨な殺され方をした兄のアベンジが戦いの動機だったが、兄たちがインドシナ半島で何をしてきたのかがおぼろげに判るようになると、自分がここで戦うこと自体に疑問を抱きはじめる。進むべきか、戻るべきか。
 ベトナムでは本作品の8年後、1954年のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランス軍が撤退するが、その後は南北ベトナムの分断からアメリカが直接介入してきたベトナム戦争に突入し、1975年のサイゴン陥落まで続いた。民族自決のための長い長い戦いであった。
 戦争は共同体同士の大義名分の押し付け合いであり、そこに国権はあるが人権はない。しかし実際は戦場にもひとりひとりの生活があり人生がある。兵士として訓練を受けている主人公は躊躇なく人を殺すが、殺すことが相手の人権を永久に奪うことであることを知る。一期一会の人生と戦争。国家と自分。主人公の悩みは深い。フランス映画らしい哲学的な作品だった。

映画「もったいないキッチン」(斎藤工による吹替版)

2020年08月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「もったいないキッチン」(斎藤工による吹替版)を観た。
 ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが受賞の翌年に日本を訪問したときに「もったいない」という言葉を知ったそうだ。この言葉に感銘を受けた彼女が「MOTTAINAI」キャンペーンを展開したことで、「もったいない」は世界中に知れ渡ることとなった。
 ジョン・レノンが傾倒した「禅」という言葉を説明できる日本人は少ないと思うが、「もったいない」という言葉は殆どの日本人が説明できると思う。それは本作品の中でも触れられている通り、価値の遺失であり、機会の損失である。
 本作品は「もったいないキッチン」というタイトルだから「もったいない」の対象は食糧ということになる。毎年恵方巻きが大量に捨てられているというのはニュースで見たが、実は本作品を見るまでは、食料の廃棄状況をグロスの数字で知ることはなかった。
 日本では1日にひとり当り130gの食糧が廃棄されている。おにぎり1個分だ。日本の人口は1億2596万人だから、毎日1億2596万個のおにぎりが捨てられているという訳である。年間643万トン。東京都の年間の食糧消費量と同じである。
 ユニセフの発表では、2018年で飢えに苦しむ人々は8億2100万人、そして1億5000万人以上の子どもたちが発育阻害にあるとされている。多くの子供たちが餓死している一方で、まだ食べられる食糧を大量に廃棄する国がある。それこそ本当にもったいない。
 廃棄される主な原因は食品の期限の問題である。生鮮食品を除いて、スーパーで売られている食品や惣菜などには賞味期限や消費期限が記載されている。前世紀は製造年月日だったが、製造工程が長いものはどの日を製造年月日にするのか不明確ということや、期限表記が主流の海外の食糧輸入時に製造年月日を義務化するのはおかしいという外圧などがあって、製造年月日ではなく期限表記となったのだ。
 外食も中食(なかしょく=コンビニ弁当など)も一番怖いのは食中毒事故を起こすことである。賞味期限、消費期限を守るのは絶対だ。従業員にも食中毒を出すことは出来ないから、必ず廃棄をしなければならない。それは企業や店を守るためであり、自分たちの生活を守るためである。賞味期限を少し過ぎたくらいなら食糧として大丈夫であることは承知しているから、廃棄は心苦しいことなのだ。
 キッチンカーは日本各地を回り、様々な事情を取材し、人々のいろいろな取組を紹介する。生ゴミを肥料にする食糧リサイクル活動、化学繊維やペットボトルで自動車を走らせたり再度ペットボトルや化学繊維を作る活動、野草の知識を受け継いで自然から食べ物を調達するといった個人的な活動まで、人々はそれぞれの考え方で環境破壊を防ぐために取り組んでいる。そして監督からの「それで食糧ロスの問題が解決すると思いますか」という問いが繰り返される。
 大きな政治問題を個人の意識の問題に矮小化しているかというと、そんなことはないと思う。社会構造が食品ロスと食糧格差、環境破壊を生んでいるから、個人の活動には限界がある。国内の問題だけではなく世界協調が必要だから、世界の政治家のレベルが今よりも数段高度にならないと実現できない。政治家のレベルは選挙に左右されるから、有権者のレベルが向上しなければならない。自分たちへの利益誘導よりも世界がよくなるために投票するようにならなければ、政治の向上は実現できないのだ。餓死する子供を救う政治家に投票するのか、見殺しにする政治家に投票するのか、最終的にはそこに行き着くだろう。個人の意識が世界を変えるのだ。
 食糧ロスの問題だけでなく、食糧を包装するプラスチックの廃棄の問題、原発による食糧の汚染の問題、世界の食糧危機の展望など、食糧に関連して扱われたテーマは多岐にわたる。ニコニコと笑顔を絶やさない人のよさそうな監督が人の話を聞くだけの映画だが、出てくる人たちの話に真実があった。特に精進料理の心を説明してくれた僧侶の率直な話には涙が出た。食糧について深く考える機会をくれた貴重な作品だと思う。

映画「剣の舞 我が心の旋律」

2020年08月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「剣の舞 我が心の旋律」を観た。
 どうにも盛り上がりに欠ける作品で、登場人物の誰にも感情移入できなかった。主人公はとても落ち着いた紳士で安心感があるのはいいのだが、その内面にある苦悩が上手く描かれていないので、物語が空回りしてしまう。映画自体があまり熟れていないのだ。
 普通に起承転結のストーリーにすれば主人公に生い立ちも含めて感情移入できただろうと思うし、剣の舞の作曲と初演奏に向けて盛り上がった筈だ。過去と現在の行ったり来たりが判りづらく、ひねり過ぎの感がある。
 演出家は音楽の経験がないのか、俳優が演奏するシーンで違和感があった。一流の演奏家は演奏する姿も美しい。プロゴルファーのスイングが美しかったり、プロテニスプレイヤーがどんな態勢でも基本のフォームで打ち返すのと同じである。ショスタコーヴィチはバイオリンを上手に弾くことは出来なかったとは思うが、それでもあれほど不格好にヴィオラを演奏することはない。ハチャトリアンのチェロ演奏もぎこちなさ満載で、このシーンは本当にがっかりした。
 
 好意的に解釈すれば本作品は次のようにも受け取れる。
 アルメニア出身のハチャトリアンは幼い頃に母から豊かな愛情を受けて育ったので、温厚で慈悲深い人格者となった。思索するのに言葉ではなく音で考えると言うほど音楽にのめり込んでいる。作曲は楽器を使わず頭の中に響く音を直接楽譜に載せる。列車の音は彼にとって別れの音だし、父の思い出は親しみのある声とともに彼の心のなかに生きている。
 ふるさとの美しい山々はそれ自体が音楽であり懐かしい拠り所だ。出身地であるアルメニアとアルメニア人の受けた迫害を忘れずに曲のテーマにしていきたいと思っている。剣の舞は戦争を鼓舞するのではなく、悲しみの舞だったのだ。一方で愛国者には理解を示し、出征する兵士に無理をしてバレエを見せる。流石に踊りのシーンはとても美しいが、兵士たちの頭の中には早くも戦場の残忍な音が響き始めている。
 ハチャトリアンは人々が悪意を傍観することがファシズムを生んだと考えており、その洞察力は政治から人間関係にまで及ぶ。サックス吹きの悲劇は政権の威を借りた小役人プシュコフの悪知恵によるものだ。プシュコフはかつて主人公とともに音楽を学んだ仲だが、アルメニアの悲劇を軽んじる彼にハチャトリアンは一度だけ怒りを爆発させたことがある。音楽の才がなかったプシュコフはその後権力の側に立ってハチャトリアンの前に登場した。復讐だろうか。
 プシュコフが公演を許可しなければ劇団の存続にも影響があり、プリマのサーシャは憎むべき小役人の慰みものとなる。権力を笠に着てスターリニズムを大義名分にやりたい放題のプシュコフに不快感を感じながらも、主人公にできることは作曲をすることだけだ。そしてハチャトリアンは公演を成功させるために渾身の曲を書き上げる。偉大な曲の前ではプシュコフなど、躓きさえしない小石のような存在に過ぎなかったのだ。
 
 という訳で、もともとドラマチックなハチャトリアンの人生だから素直に演出して素直に編集すれば感動的な作品になった気がする。ガイーヌの上演は最大のクライマックスだから、もうちょっと盛り上げ方を工夫できたはずだ。「バラの娘」と被るのを避けたのかもしれないが、剣の舞の曲があるとないとでバレエ団の雰囲気はガラッと変わるはずだから、同じようなシーンを繰り返してもよかった。世界的な評価よりもハチャトリアンの周囲がどのように変わったのかが、観客にとって何よりも気になるところなのである。本作品はサーシャのその後や振付師との確執のその後などがちっとも描かれず、尻切れトンボ感は否めない。え、終わり?という感じで映画が終わったのは久しぶりだ。必要なシーンが決定的に不足している作品だった。

映画「Red Joan」(邦題「ジョーンの秘密」)

2020年08月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Red Joan」(邦題「ジョーンの秘密」)を観た。
 戦争に関する映画や芝居は倦むことなく制作され続けるし、飽きることなく鑑賞される。大林宣彦監督の遺作となった「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」も少し風変わりではあるが、戦争映画であることは間違いない。今年(2020年)の7月に新宿のサザンシアターTAKASHIMAYAで上演したこまつ座の芝居「人間合格」もある意味で戦争の話だった。
 戦争映画や戦争舞台が上映され上演され続けるのは、熱しやすく冷めやすい人類がかつての悲劇を忘れてまたぞろ戦争を始めてしまうのではないかという危惧があるからだ。だから芸術家たちは人類が戦争を忘れないために戦争映画を作り、戦争の絵を書き、戦争の曲を作る。常に反戦運動をし続けなければならないほど、人類というものは愚かなのである。
 本作品も戦争映画のひとつと言っていいと思う。ジュディ・デンチが演じた年老いた方のジョーンの台詞「あの頃は戦争、戦争の連続だった」というのは第二次大戦当時のイギリス人の本音だろう。だからなんとしても核戦争の勃発を阻止したかった。科学者であった彼女には、核兵器がどれほどの被害を生じさせるか予測がついていたはずだ。
 広島に落とされた原爆リトルボーイに使われた核物質はウラン235である。長崎はファットマンと名付けられた爆弾で、こちらにはウラン238を原料に生成されるプルトニウムが使われている。威力はファットマンの方がやや上である。
 本作品には、核を分裂させて中性子を出させるのに遠心力を使うことをジョーンが提案するシーンが出てくるが、実際に遠心力によって陽子を光速に近いスピードにまで加速させて原子にぶつけて核を分裂させる実験が、後の原爆開発に直結している。ちなみに用語として出てくる同位体はアイソトープ(同位元素)と呼ばれ、同じ元素で中性子の数が異なるものを言う。水素と重水素などが同位体である。中には不安定な同位元素もあり、崩壊して放射線を発するものがある。これが放射性同位元素(ラジオアイソトープ)である。
 原子核(Nuclear)が分裂すると大きな熱と放射線を出す。分裂が次々に起こることをNCR(Nuclear Chain Reaction=核の連鎖反応)と呼び、より大きなエネルギーと放射線を放出する。これが原爆の基本的なメカニズムだ。これらの言葉を知っていると研究所のシーンがより深く理解できると思う。ちなみにコロナ禍の対策として進められているPCR検査はPolymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)である。
 原爆は途方もない威力を持っているだけに、その制御も相当に難しい。核分裂はいつ暴走するかわからない。日本国内の原子力発電所にある59基のうち稼働しているのが10基に満たないことからも、制御の困難さが伺える。超小型原子力エンジンを搭載した鉄腕アトムは存在しようがないのである。
 若き日のジョーンが心配したのはヒロシマ、ナガサキの繰り返しだ。1945年当時、独立から200年も経っていない若い国であるアメリカがこれほど大きな大量破壊兵器を持ってしまったことは、世界の軍事力の極端な不均衡に直結する。極端な不均衡は再び侵略戦争を招き、人類に大きな被害を齎すに違いない。ジョーンはそう考えたのだ。
 ジョーンの決断には賛否があるだろうが、核兵器が大量破壊兵器であることは誰も否定できないし、それを使うことが非人道的であることも世界中で解っていると思う。小型の核兵器なら憲法上、所有しても差し支えないと堂々と言い放った暗愚の宰相もいたが、原発が常にチャイナシンドロームの危険性を孕んでいるのと同じで、核兵器を所有すればその核兵器によって膨大な犠牲者が出る危険性が常にあることは理論的に当然である。憲法上は如何なる核兵器も持ってはならないのは子供にも解る。
 世界は核兵器に満ちている。ジョーンの息子は母親に愛国心がないと言い、母親は私こそ愛国者だと言い返すが、愛国者が核兵器を使用するということをふたりとも解っていないようだ。イスラム国も元はと言えばアメリカが弾圧した愛国者なのである。イスラエルとアラブの紛争も愛国者同士の争いだ。
 人類はいい加減、国家という共同幻想の呪縛から自由になったらどうなのだろうか。たまたまその国に生まれたからと言って、その国を祖国と呼んで愛さねばならない理由はどこにもない。国家間の利害の対立は愛国者同士の利害の対立だ。愛国心などという狭量な精神性から脱して、国際人として活躍する人はたくさんいると思う。別に外国に住まなくてもいい。インターネットの時代だ。どこに住んでも仕事はできる。自国のことよりも人類全体を考える。そういう人が増えていけば、戦争映画が作られる必要がなくなる世界が来る可能性が僅かながらあるかもしれない。
 戦争の話ばかり書いてしまったが、本作品には核開発と戦争の他にも沢山のテーマが盛り込まれていて、当時の女性の地位の問題、暗躍するKGBやMI6といった諜報機関による人権侵害、そして家族間の信頼の問題、身近な人間による欺瞞と裏切り、それに戦時中の青春模様など、作品としての見ごたえは十分だ。戦争当時の映像と現在の映像が明らかに異なるのもわかりやすくていい。
 波乱万丈の体験をしてきたジョーンは、ジュディ・デンチの名演もあって、年老いていても、言いしれぬ存在感を感じさせる。大した女性なのである。若き日の決断はともかく、そのきっぱりとした生き方は肯定されていいのではないかと思う。

映画「恋する男」

2020年08月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「恋する男」を観た。
 中年以降の男にとってポテンツの衰えは悩ましいことのひとつだ。女房はもはや性的な対象ではなくなっているし、若い子が相手をしてくれる訳でもない。風俗は病気が怖いし金もない。相手がいない訳だから悩む必要はなさそうだが、それでも人知れず悩む。ポテンツが元気だと男としての自信が違うのだ、とでも言いたいのかもしれない。
 人は五十を過ぎたらそろそろ死を考える歳になる。論語では知天命だ。しかし本作品の主人公小田はそんなことを考えない。ひたすら仕事と金と女のことしか関心がない。趣味は酒だ。身体は耐用年数を過ぎていても、心は若いままだ。少年のままと言ってもいい。いくつになっても女に振り回される。しかしそれなりに分別は出来ているから、陰惨な事態にはならない。五十男らしく、ぐっと我慢するだけだ。その様子が可笑しくて哀れだ。
 美味しいものを食べたいし、いい女を抱きたい。できれば今よりもいい家に住みたいし、靴やら洋服やら時計やら、いいものを身に着けたい。ほぼ昭和である。しかし最近はそういう欲望に忠実な男は流行らないようだ。
 人間は他の生物を食べて排泄する。大気を吸って排気する。垢やフケや鼻くそや鼻水や唾液や痰や涙を排出する。人体は環境と密接に繋がっている。生命の維持のためには環境との有機的なやり取りが欠かせない。人工授精が種の保存の主流になる日が来るかもしれないが、いまのところは性交が繁殖の中心的手段である。
 人間関係が希薄になって、直接的な触れ合いよりも電波を通じての視覚と聴覚限定の関係が主体になりそうな世の中だが、小田のように次から次に女を求める生き方を否定する理由もない。離婚できて独身でいるのはある意味で幸運なことだ。おかげで倫理的に非難されることもない。
 ビバ!独身だ。ひとりは淋しいが、ひとりは気楽だ。「孤独のグルメ」の井之頭五郎のように、ひとりランチに慣れてしまうと、他人と一緒に食事をするのが煩わしくなる。目の前の料理と真摯に向き合うのが幸せなのだ。他人との会話など不要である。サザンオールスターズの歌に「女呼んで揉んで抱いていい気持ち、女なんてそんなものさ」という歌があった。女は抱ければそれでいい。愛なんてあとづけでいいのだ。
 人と繋がることを恐れない小田みたいな生き方がある意味うらやましい。小田自身はいろいろ考えて、それなりにもがいているつもりだろうが、傍から見れば生きたいように生きているように見える。生まれながらの楽天家なのだ。そこがいい。コロナ禍の状況でも元気の出る映画だった。

映画「道」

2020年08月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「道」を観た。
 西條八十作詞、古賀政男作曲の「サーカスの唄」という歌がある。1933年の発表だから本作品を遡ること21年である。
 (一番)
 旅のつばくろ淋しかないか
 俺も淋しいサーカス暮らし
 とんぼがえりで今年の暮れて
 知らぬ他国の花を見た
 (四番)
 朝は朝霧夕べは夜霧
 泣いちゃいけないクラリオネット
 流れ流れる浮藻の花は
 今日も咲きましょあの町で
 西條八十(さいじょうやそ)は「東京行進曲」などで知られる、センチメンタルな詩人である。市井の人々の物悲しい人生をときに明るくときに暗く謡いあげる。本作品にも西條の詞のセンチメンタリズムと通じるところがある。
 冒頭のシーンから心を敲たれた。娘を大道芸人のザンパノに売った母親が得た金当の娘を見せて、これでしばらく暮らせるしあんたがいなくなれば口減らしにもなると嬉しそうに話すが、いざ娘が行ってしまう段になると行かないでおくれと縋りつこうとする。この母親が身勝手なのではない。貧乏すぎて心が壊れているのだ。
 売られたジェルソミーナはドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵よろしく、従順で欲がない。おまけに少食で、贅沢よりも歌ったり踊ったりが好きな女だ。昔は欲のない人間は馬鹿だと思われていたようだ。日本でも「欲がないのは駄目なことだ」という教育が罷り通っていた。いまだにそうやって教えている教師もいる。欲は文明を発達させ、生活の向上に寄与した、欲がない人間は努力しない人間になり、文明と人類の発展から取り残されるのだと。しかしそこには文明が発展することが本当にいいことなのかという反省はない。
 ザンパノは欲の塊である。しかし他人に指図されるのを嫌うから独立した大道芸人で生きている。行きたいところに行き、やりたいことをやって生きる。ジェルソミーナを買ったのは盛り上げ役のピエロがいたほうが稼げるからだ。ザンパノの頭には今日と明日のことはあるが、それ以降のことはない。将来がどうなるかなんて考えても意味がない。
 ジェルソミーナはザンパノと対照的に善意の塊で、欲があるとすれば承認欲求だけである。残忍で粗暴なザンパノにさえも認めてもらいたいと願う。それはストックホルム症候群かもしれないが、ストックホルムの銀行強盗事件が起きたのはこの映画よりも19年も後のことだ。人が喜ぶことをしたいジェルソミーナは、同じ意味で人が嫌がることをしたくない。本質的にはザンパノのことが嫌いだ。
 人は時間と空間を移動し、出会い、別れる。ささやかな喜びがあり、少しの寂寥がある。人間は愚かだ。人生はつらい。本作品の結末は物悲しいが、世界中の至る所で同じような人々が同じような結末を迎えているだろう。
 死にたかったジェルソミーナは死にたいと思わなくなった。それでも何のために生まれてきたのかという疑問は残る。人類すべてに共通する疑問である。他人の死を悲しむことは自分の死を悲しむことだ。死にたい人も死にたくない人も、いずれ死ぬ。自分の死を肯定するためには他人の死を肯定するしかない。
 本作品には生も死も善も悪も、すべてひっくるめて肯定するような力強さがある。ときに人混みと熱気に高揚し、ときに寒さと寂しさに顫える。人はそうやって人生をやり過ごすのだ。意味を求めてはいけない。道があれば歩くだけなのだ。文句なしの名作である。

映画「イップ・マン 完結」

2020年08月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「イップ・マン 完結」を観た。
 実は映画の前に一幕あった。父親と7〜8歳くらいの女の子が二人でこのクンフー映画を観に来ていて、女の子の座高が低くて前の椅子の背もたれが邪魔になってスクリーンが見えない。父親は子供用のクッションがないか係員に尋ねていたが、どうやらなかったらしい。係員は謝っていたが、ここは謝罪よりも対処だろうと、傍で見ているこちらが憤慨しそうになった。
 女の子は椅子の上に正座してみたりしたが上手くいかないようで、父親が前の席に行こうかと促すと、無断で席を移るのは駄目だよと女の子が言う。なんていい子なんだとこちらが勝手に感動しているところへ、別の係員がクッションを2つ持ってきた。女の子は2つとも使って、高さが合うことを確かめて喜んでいた。
 と、そこへ更に別の係員が来て、一番見やすいB列が空いているのを確認しましたのでよろしければどうぞお移りくださいと言う。父娘は席を移動しクッションを2つ使って楽しく鑑賞できたようだ。めでたしめでたし。
 映画とは無関係ではあるが、たまにはこういうエピソードも紹介したい。否定的な世の中で、たまに肯定的な出来事を見かけるとほっこりするものだ。
 さて、本作品はクンフー映画である。ブルース・リーがインタビューで自身の武術のことをクンフーと発音していた映像を見たことがあるので、ここではカンフーではなくクンフーと表記する。本作品はブルース・リーの師匠に当たるイップ・マンが、アメリカに色濃く残る人種差別やハラスメントに対峙して、クンフーを通じて戦う映画である。
 様々な種類のある中国武術だが、本作品に見られるように太極拳は一目置かれているようだ。というよりも、太極拳は国民の生活に溶け込んでいるから、これを疎かにすれば中国国民から総スカンを食らうのは必至だ。だからそれなりの重きを置かれた扱いになったのだろう。もうひとつ有名な少林拳は本作品で紹介されていたのか記憶に残っていない。
 どの武術が最も強いのかという議論は中学生の男子が好きそうだが、実際は個々の武術家の適性や能力によって左右されるから、どれが一番強いかは試合などでは決められない。そして武術は人間が身につけるものだから個性を抜きにしては評価できず、人間には好不調の波もあるから、数学的に強さを算出することも出来ない。偶然の要素も多分にある。どの武術が強いかを決めることは実際的にも理論的にも不可能なのである。
 現代は武器が発達していて、拳銃やライフル、バズーカ砲から戦闘機、空母、潜水艦、果ては核兵器や化学兵器に至るまで、膨大なヒトとモノとカネが関与してせっせと作り続けられている。戦争や紛争といった殺し合いにおいては武術の出番はない。
 なのに何故人は武術を習得しようとするのか。それは弱いからだ。自分が弱いことを知ってるから強くなりたいと願う。武術を習うと暴力に対する対応ができる。日常的に受けるかもしれない暴力を恐れなくなる。しかしそれがいいことかというと、そうでもない。
 武術は師匠から弟子へ受け継がれるが、このとき生じる師弟関係は兄弟子と弟弟子、弟弟子と新弟子などのように上下関係のヒエラルキーにつながっていく。精神性で言えばほぼ封建主義である。封建主義は人権をスポイルする。これがよくないことのひとつ。
 もうひとつは、武術を習熟して暴力的に人を圧倒できるようになると、それによって他人を支配しようとする人間がいるということだ。暴力団や半グレといった不良たちはそれでカタギから財産や労力を脅し取って凌ぎにしている。そういう連中の中には昨春の桜を見る会に参加している者もいた。武器、武術、暴力、国家主義、安倍政権は同じ箱の中に入っている。同類項なのだ。
 本当に強い人は武術など必要としない。武器もいらない。必要なのは恐怖や不安を克服した強い心だけだ。暴力に屈しない、欲に溺れない。金も地位も名誉も住むところも食べ物さえもいらない。勿論そんな人は滅多にいない。歴史上でも数えるほどしかいないだろう。彼らはアウトサイダーであり歴史を作ることはない。人類の歴史は人殺しの歴史だからだ。
 稀にではあるが、武術の鍛錬で精神も鍛錬できる人がいる。それは武術で自分に打ち勝とうとする人である。本作品の主人公イップ・マンがそういう人かどうかは不明だが、武術で身につけた礼儀と優しさは感じられる。偉そうにしないし口調は丁寧で、ありがとうを頻繁に口にする。
「武術家として不公平とは戦わなければならない」というイップ・マンの台詞のとおりならば、武術の前に人は平等ということになる。勝つために戦うのではなく守るために戦うのだ。本作品には胸のすくシーンがいくつかあり、暴力や圧政に対して身をかがめる必要はないという武術家たちの覚悟も伝わる。いろいろな武術が、自分自身の弱さを克服して寛容と優しさを身につけるための鍛錬であるという概念に収斂されていくといいのだが。