映画「剣の舞 我が心の旋律」を観た。
どうにも盛り上がりに欠ける作品で、登場人物の誰にも感情移入できなかった。主人公はとても落ち着いた紳士で安心感があるのはいいのだが、その内面にある苦悩が上手く描かれていないので、物語が空回りしてしまう。映画自体があまり熟れていないのだ。
普通に起承転結のストーリーにすれば主人公に生い立ちも含めて感情移入できただろうと思うし、剣の舞の作曲と初演奏に向けて盛り上がった筈だ。過去と現在の行ったり来たりが判りづらく、ひねり過ぎの感がある。
演出家は音楽の経験がないのか、俳優が演奏するシーンで違和感があった。一流の演奏家は演奏する姿も美しい。プロゴルファーのスイングが美しかったり、プロテニスプレイヤーがどんな態勢でも基本のフォームで打ち返すのと同じである。ショスタコーヴィチはバイオリンを上手に弾くことは出来なかったとは思うが、それでもあれほど不格好にヴィオラを演奏することはない。ハチャトリアンのチェロ演奏もぎこちなさ満載で、このシーンは本当にがっかりした。
好意的に解釈すれば本作品は次のようにも受け取れる。
アルメニア出身のハチャトリアンは幼い頃に母から豊かな愛情を受けて育ったので、温厚で慈悲深い人格者となった。思索するのに言葉ではなく音で考えると言うほど音楽にのめり込んでいる。作曲は楽器を使わず頭の中に響く音を直接楽譜に載せる。列車の音は彼にとって別れの音だし、父の思い出は親しみのある声とともに彼の心のなかに生きている。
ふるさとの美しい山々はそれ自体が音楽であり懐かしい拠り所だ。出身地であるアルメニアとアルメニア人の受けた迫害を忘れずに曲のテーマにしていきたいと思っている。剣の舞は戦争を鼓舞するのではなく、悲しみの舞だったのだ。一方で愛国者には理解を示し、出征する兵士に無理をしてバレエを見せる。流石に踊りのシーンはとても美しいが、兵士たちの頭の中には早くも戦場の残忍な音が響き始めている。
ハチャトリアンは人々が悪意を傍観することがファシズムを生んだと考えており、その洞察力は政治から人間関係にまで及ぶ。サックス吹きの悲劇は政権の威を借りた小役人プシュコフの悪知恵によるものだ。プシュコフはかつて主人公とともに音楽を学んだ仲だが、アルメニアの悲劇を軽んじる彼にハチャトリアンは一度だけ怒りを爆発させたことがある。音楽の才がなかったプシュコフはその後権力の側に立ってハチャトリアンの前に登場した。復讐だろうか。
プシュコフが公演を許可しなければ劇団の存続にも影響があり、プリマのサーシャは憎むべき小役人の慰みものとなる。権力を笠に着てスターリニズムを大義名分にやりたい放題のプシュコフに不快感を感じながらも、主人公にできることは作曲をすることだけだ。そしてハチャトリアンは公演を成功させるために渾身の曲を書き上げる。偉大な曲の前ではプシュコフなど、躓きさえしない小石のような存在に過ぎなかったのだ。
という訳で、もともとドラマチックなハチャトリアンの人生だから素直に演出して素直に編集すれば感動的な作品になった気がする。ガイーヌの上演は最大のクライマックスだから、もうちょっと盛り上げ方を工夫できたはずだ。「バラの娘」と被るのを避けたのかもしれないが、剣の舞の曲があるとないとでバレエ団の雰囲気はガラッと変わるはずだから、同じようなシーンを繰り返してもよかった。世界的な評価よりもハチャトリアンの周囲がどのように変わったのかが、観客にとって何よりも気になるところなのである。本作品はサーシャのその後や振付師との確執のその後などがちっとも描かれず、尻切れトンボ感は否めない。え、終わり?という感じで映画が終わったのは久しぶりだ。必要なシーンが決定的に不足している作品だった。