三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「劇場」

2020年08月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「劇場」を観た。
 弘田三枝子が亡くなった。歌手であった彼女の代表曲はなかにし礼作詞、川口真作曲の「人形の家」である。気に入られて、可愛がられて、ときには不機嫌に投げつけられたり汚されたりして、そしてやがて飽きて棄てられる。人形とはそういうものだ。
 本作品は結婚ではなく同棲している若い男女の話で、松岡茉優が演じた沙希の台詞「私は人形じゃないよ」が二人の関係をすべて物語る。無抵抗に何もかも受け入れる沙希と、自分の狭量な尺度でしか人を測れない永田。沙希はそんな永田の才能を信じて懸命に働く。もしかしたら永田よりもずっと才能があったかもしれない自分のチャンスを奪われても、沙希は永田を尊敬して支える。
 切なすぎる女心を松岡茉優が情感たっぷりに演じてみせた。これほどの優しさと寛容さには滅多に接することがない。山﨑賢人が演じる永田が長い時間をかけてやっとそれに気づき、語彙に乏しい彼らしく沙希を「神様」と呼ぶが、ときは既に遅く沙希は使い古された人形のようにボロボロになっていた。
 ヘンリック・イプセンの戯曲「人形の家」ではノーラが自分が人形のように夫のお飾りにすぎなかったことに気づく。昨秋に俳優座劇場で観た音楽劇「人形の家」では土居裕子さんが演じたノーラは美しい歌声とともに颯爽と家を出て行った。
 本作品の沙希はもっと現実的で、これまで永田のために費やしてきた時間を振り返る。それは無意味な時間ではなかった筈だ。その時間が愛おしい。しかし壊れてしまった気持ちはもう元には戻らない。気持ちが壊れたのは世間一般の幸せを思ってしまった自分のほうに原因がある。沙希はどんなことがあってもまだ永田を尊敬しているのだ。
 一方の永田はと言えば、もっと自然に率直に人と接することもできるはずだが、生来のつまらないプライドが邪魔をして、常に人との関係で優位性を保とうとする子供みたいな精神性の持ち主である。山﨑賢人はよく頑張ってそういう永田を演じたと思う。しかしそれ以上に凄い演技だったのが松岡茉優で、本作品を松岡茉優の映画にしてしまった。
 自省と苦しさに満ちた永田のモノローグが物語を壊れた人の話にしないように手綱を引っ張るような構成で、儚くも憐れな青春模様が淡々と描かれる。観客には苦しい映画だが、子供みたいな永田を母親のように見つめる沙希の視点が、過ぎてしまった日々を美しく照らし出す。ほろ苦い青春でも過ぎてしまえば美しい記憶なのだ。ラストシーンはそのように解釈するのがいいと思う。

映画「コンフィデンスマンJPプリンセス編」

2020年08月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「コンフィデンスマンJPプリンセス編」を観た。
 長澤まさみは少し前に大森立嗣監督の「MOTHER」での振り切った演技を観たばかりである。演じた主人公秋子は自分の欲望を満たすためには子供の人権など平気で蹂躙する、鬼のような母親である。想像力の欠片もない無教養そのものの女でありながら、男をなびかせて操ることだけには長けていた。
 対して、本作品のダー子は想像力の塊のような女である。人の性格や願望を見抜いて、相手がどのように行動するかをほぼ正確に予想し、そして先回りする。これほどの洞察力の持ち主を詐欺師に設定したアイデアが秀逸だ。本作品の面白さはそこに尽きる。
 「MOTHER」とは方向性が異なるが、本作品の長澤まさみも振り切っていて、特に詐欺師ならではの無表情の表情を演じている顔がいい。この演技で主人公が一筋縄ではいかない知恵者であり強か者であることが解る。小日向文世もここではこういう表情が必要なのだとばかりに顔を作っている演技が上手い。裏の権力者役の江口洋介も悪人ながら懐が深い人間性を見せていた。東出昌大はお人好しの単純な演技のみ。この俳優はこれが精一杯で、これからも主役には向かないだろう。小手伸也はどんなドラマでも映画でも同じ演技。逆にそれが一定の需要を生んでいるのかもしれない。
 こっくり役の関水渚はよかった。この人は去年の「町田くんの世界」で見たきりだが、善意の塊である主人公に、相手役である平凡な女子高生が上手に絡んでいく様子を好演していた。今回の演技はマンガチックではあるものの、観客に訴えかけるものがあった。
 コメディだから人情話は不要だ。しかし日本の喜劇の悪い癖なのか、本作品でもラストシーン近くになるとやや説教臭くなってしまったのが憾み(うらみ)である。全体としては楽しめたのだが、吉本新喜劇みたいな蛇足のシーンがなければもっと余韻の残る作品になったと思う。