三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Mr. Jones」(邦題「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」)

2020年08月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Mr. Jones」(邦題「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」)を観た。
 この8月には第二次大戦当時の映画を4本観た。「海辺の映画館 キネマの玉手箱」「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」「ジョーンの秘密」「この世の果て、数多の終焉」である。そして5本目が本作品だ。5本とも戦争映画としては異色の作品で、それぞれに戦争に対するスタンスが異なっている。
 本作品ではヒトラーが首相に就任した1933年に直接本人にインタビューをしたガレス・ジョーンズという実在のジャーナリストを主人公にして、一時期彼が顧問を務めたロイド・ジョージの名前を有効に活用するなど、あらゆる手を使って真実に迫ろうとした取材の顛末を描く。
 映画の語り手がジョージ・オーウェルであることは作品の後半で漸く明かされるが、これはたぶん最初から分かっていたほうが観やすいと思う。蛇足ながらジョージ・オーウェルは「1984年」という小説でスターリン(小説内では「偉大な兄弟」)をモデルとした独裁抑圧国家の惨状を描いている。本作品の主人公ジョーンズと面識があったかどうか定かではないが、全体のために個を犠牲にするファシズムやスターリニズムを嫌っていた。
 KY(ケーワイ)という言葉が日本で一時流行した。その場の空気を読めないという意味で、あいつはKYだからなどと人を非難するときに使う。また空気を読めと強要することもある。テレビでも「お前、空気読めや」などと芸人が頭を叩かれるシーンを見たことがある。一般人の間でも他人のことを空気を読めないといって悪口を叩くことがあり、それを聞かされる度に違和感を覚えていた。
 空気を読めないと非難されるのは何故か。そもそも空気を読むとはどういうことか。どうして空気が読めないといけないのか。空気を読めないと場を乱すと言うなら、場を乱すことがどうしていけないのか。などと理由を遡って考えていくと、全体のために個の自由や意見を抑制しろというパラダイムに行き着く。それは全体主義のパラダイムだ。問題は「場を乱すことが悪いこと」というのが全体主義の考え方であることに気づかない多くの大衆の精神性にある。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉がある。ツービートのネタで使われた言葉だが、考えてみれば恐ろしい言葉である。違法行為であっても集団のためなら許される(お咎めを受けない)という考え方だからだ。スターリンはまさに赤信号を渡った人間で、ロシア革命以前には反体制組織の資金集めのために銀行強盗を繰り返していた。銀行強盗を国家の指導者に据える国などないはずだが、全体のためにという大義名分によって犯罪者が独裁者になったのだ。
 映画作品としてはジョーンズの活躍を描きたかったのか、その悲劇を伝えたかったのか、あるいはスターリン政権下での膨大な犠牲者の悲劇を伝えたかったのか、焦点がいまひとつ定まらないところが憾み(うらみ)である。しかし全体主義という大義名分を起点に考えれば、ソ連国内の人権無視や虐殺に触れないで国交を樹立したアメリカやイギリスの政策も構造は同じである。もちろん「お国のため」に数多くの犠牲者を出した日本も例外ではない。ガレス・ジョーンズが戦ったのは、世界に蔓延する全体主義のパラダイムであったのだ。

映画「糸」

2020年08月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「糸」を観た。
 中島みゆきの曲が3曲流れる。もちろん映画のタイトルでもある「糸」は何度も流れ、エンディングでは菅田将暉が熱唱する。残りの2曲は「時代」と「ファイト!」である。特に「ファイト!」の使われ方がよくて、辛い体験をしたあとにカラオケで歌われるのが印象的だ。本作品はこの3つの曲の世界観を融合させているように思う。中島みゆきには突き放した厳しい歌もあるが、優しい世界観の歌もある。本作品は少しだけ優しいほうの作品になっている。北海道出身の中島みゆきにちなんで北海道が舞台なのもいい。
 中学生のときに知り合った男女の18年間に及ぶ物語である。出逢ったときから問題を抱えていた少女と彼女を助けようとする少年。麗しくも辛くて儚い恋は、その後の二人の人生に心の灯となって燃えつづける。それは幸せだがやるせない記憶であり、そして生きていく拠り所でもある。二人の中で灯が燃えている限り、二人はずっとつながっている。タイトルの「糸」を上手に昇華させた見事な作品だ。
 瀬々敬久監督は前作の「楽園」ではムラ社会に追い詰められる他所者の悲劇を冷徹に描いてみせたが、本作品では打って変わって人の優しさを描く。キーワードは「泣いている人がいたら抱きしめてあげなさい」である。この台詞を言う桐野香を演じた榮倉奈々は、このシーンだけでも十分に演じた意味があった。
 小松菜奈は上手い。大泉洋と共演した「恋は雨上がりのように」の女子高校生役は出色の演技だった。この人は目が大きなライオンみたいな顔で、何を考えているのか微妙に判らない印象がある。そのせいなのか、得体の知れないような、吸い込まれそうな魅力に溢れていると思う。少女時代を演じた植原星空にも似た雰囲気がある。本作品の不幸な少女時代を背負った悲しいヒロイン園田葵には二人ともぴったりだった。
 そしていまさら言うまでもないが、菅田将暉の演技は天才的で、どのシーンを見ても主人公の心の奥に園田葵がいるのが分かる。もはやどう見ても菅田将暉ではなく高橋漣にしか見えない。他人の不幸を真正面から受け止め、ひたすら誠実な生き方をする主人公に感情移入する人は多いだろうし、人から受けた親切を忘れない健気なヒロインに感情移入する人も多いだろう。鑑賞時は女性客がとても多かったが、物語が進むにつれてたくさんの人が泣いていた。
 生と病気と死、出逢いと別れ、信頼と裏切りなど、多くのテーマが共存した作品で、高橋漣と園田葵のそれぞれの物語にいくつものテーマが鏤められている。そして力強いストーリーが観客をグイグイと引っ張っていく。濃密で奥行きのある作品であり、悲しくも美しい恋の物語は心を浄化してくれるようであった。