三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Les confins du monde」(英題「To The Ends of The Worlds」邦題「この世の果て、数多の終焉」)

2020年08月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Les confins du monde」(英題「To The Ends of The Worlds」邦題「この世の果て、数多の終焉」)を観た。
 日本の映画上映に関して最も不要と感じるのは映倫という組織だ。本作品においても、不可思議なぼかしが入っているシーンが散見された。この時代に性交シーンのぼかしは不要だろう。映倫の役割は、作品の内容に踏み込まず、ポケモンショックのような人体に直接的に悪い影響を与える映像だけをチェックすることに限定すべきだと思う。であれば人間がやるよりセンサー搭載のAIにやらせるのが正確だしコストも掛からないし変なバイアスもない。年配男性がほとんどの映倫は、とっくの昔にお役御免なのだ。
 さて本作品は戦争映画ではあるが、インドシナ半島に派遣された若い兵士が戦争との具体的な関わり合いの中で迷い悩みながら、次第に国家と戦争の本質について悟っていく話でもあると思う。
 インドシナ半島は他の地域と同様、長い間戦争状態だった。原始的な部族同士の争いから、中国やモンゴルによる侵略を経て、19世紀の帝国主義政策によるフランスの侵略と支配が100年ほども続いた。本作品はその最後の戦いのあたりの一時期を切り取ってみせている。
 第二次世界大戦ではフランス本国はヒトラーの侵攻を受けたが、レジスタンスが地下で活動し、ナチスによる支配が精神にまで及ばないように抵抗していた。連合国のノルマンディー上陸作戦を機にナチスは撃退され、フランスは解放される。インドシナではフランス軍が侵略者である。自分たちがフランスのために戦っているように、敵の兵士も自国のために戦っている。彼らとフランスのレジスタンスは何も違わない。
 インドシナの民間人は戦時下でも生き延びるために売春や阿片窟を含むあらゆる経済活動をしている。それもフランス本国と変わらない。売春婦の中には優しさを持つものもいて主人公は恋愛感情に陥るが、売春婦はその職業故に多くの男と性交をする。異国人でもある。それに彼女の同胞はフランス兵を殺している。若い主人公には恋愛感情と戦争での互いの立場と相手が売春婦であることの折り合いがつけられず、状況を受け入れられない。
 一方、ジャングルの戦いではベトミンのゲリラが神出鬼没に銃を撃ってきて、仲間や捕虜が殺される。子供も侮れない。悲惨な殺され方をした兄のアベンジが戦いの動機だったが、兄たちがインドシナ半島で何をしてきたのかがおぼろげに判るようになると、自分がここで戦うこと自体に疑問を抱きはじめる。進むべきか、戻るべきか。
 ベトナムでは本作品の8年後、1954年のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランス軍が撤退するが、その後は南北ベトナムの分断からアメリカが直接介入してきたベトナム戦争に突入し、1975年のサイゴン陥落まで続いた。民族自決のための長い長い戦いであった。
 戦争は共同体同士の大義名分の押し付け合いであり、そこに国権はあるが人権はない。しかし実際は戦場にもひとりひとりの生活があり人生がある。兵士として訓練を受けている主人公は躊躇なく人を殺すが、殺すことが相手の人権を永久に奪うことであることを知る。一期一会の人生と戦争。国家と自分。主人公の悩みは深い。フランス映画らしい哲学的な作品だった。