三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

死んだ男の残したものは

2020年08月06日 | 政治・社会・会社

作詞:谷川俊太郎
作曲:武満徹

死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない

 ベトナム戦争に対する反戦の歌だが、毎年8月6日になると必ずこの歌を思い出す。言葉遊びの洒脱な詩が多い谷川俊太郎だが、この詩は戦争と正面から向き合って書かれたように思える。武満徹のメロディは重厚で余韻が残る。それは戦争の余韻だろうか。忘れずに歌い継がれるべき歌のひとつである。


映画「劇場」

2020年08月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「劇場」を観た。
 弘田三枝子が亡くなった。歌手であった彼女の代表曲はなかにし礼作詞、川口真作曲の「人形の家」である。気に入られて、可愛がられて、ときには不機嫌に投げつけられたり汚されたりして、そしてやがて飽きて棄てられる。人形とはそういうものだ。
 本作品は結婚ではなく同棲している若い男女の話で、松岡茉優が演じた沙希の台詞「私は人形じゃないよ」が二人の関係をすべて物語る。無抵抗に何もかも受け入れる沙希と、自分の狭量な尺度でしか人を測れない永田。沙希はそんな永田の才能を信じて懸命に働く。もしかしたら永田よりもずっと才能があったかもしれない自分のチャンスを奪われても、沙希は永田を尊敬して支える。
 切なすぎる女心を松岡茉優が情感たっぷりに演じてみせた。これほどの優しさと寛容さには滅多に接することがない。山﨑賢人が演じる永田が長い時間をかけてやっとそれに気づき、語彙に乏しい彼らしく沙希を「神様」と呼ぶが、ときは既に遅く沙希は使い古された人形のようにボロボロになっていた。
 ヘンリック・イプセンの戯曲「人形の家」ではノーラが自分が人形のように夫のお飾りにすぎなかったことに気づく。昨秋に俳優座劇場で観た音楽劇「人形の家」では土居裕子さんが演じたノーラは美しい歌声とともに颯爽と家を出て行った。
 本作品の沙希はもっと現実的で、これまで永田のために費やしてきた時間を振り返る。それは無意味な時間ではなかった筈だ。その時間が愛おしい。しかし壊れてしまった気持ちはもう元には戻らない。気持ちが壊れたのは世間一般の幸せを思ってしまった自分のほうに原因がある。沙希はどんなことがあってもまだ永田を尊敬しているのだ。
 一方の永田はと言えば、もっと自然に率直に人と接することもできるはずだが、生来のつまらないプライドが邪魔をして、常に人との関係で優位性を保とうとする子供みたいな精神性の持ち主である。山﨑賢人はよく頑張ってそういう永田を演じたと思う。しかしそれ以上に凄い演技だったのが松岡茉優で、本作品を松岡茉優の映画にしてしまった。
 自省と苦しさに満ちた永田のモノローグが物語を壊れた人の話にしないように手綱を引っ張るような構成で、儚くも憐れな青春模様が淡々と描かれる。観客には苦しい映画だが、子供みたいな永田を母親のように見つめる沙希の視点が、過ぎてしまった日々を美しく照らし出す。ほろ苦い青春でも過ぎてしまえば美しい記憶なのだ。ラストシーンはそのように解釈するのがいいと思う。

映画「コンフィデンスマンJPプリンセス編」

2020年08月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「コンフィデンスマンJPプリンセス編」を観た。
 長澤まさみは少し前に大森立嗣監督の「MOTHER」での振り切った演技を観たばかりである。演じた主人公秋子は自分の欲望を満たすためには子供の人権など平気で蹂躙する、鬼のような母親である。想像力の欠片もない無教養そのものの女でありながら、男をなびかせて操ることだけには長けていた。
 対して、本作品のダー子は想像力の塊のような女である。人の性格や願望を見抜いて、相手がどのように行動するかをほぼ正確に予想し、そして先回りする。これほどの洞察力の持ち主を詐欺師に設定したアイデアが秀逸だ。本作品の面白さはそこに尽きる。
 「MOTHER」とは方向性が異なるが、本作品の長澤まさみも振り切っていて、特に詐欺師ならではの無表情の表情を演じている顔がいい。この演技で主人公が一筋縄ではいかない知恵者であり強か者であることが解る。小日向文世もここではこういう表情が必要なのだとばかりに顔を作っている演技が上手い。裏の権力者役の江口洋介も悪人ながら懐が深い人間性を見せていた。東出昌大はお人好しの単純な演技のみ。この俳優はこれが精一杯で、これからも主役には向かないだろう。小手伸也はどんなドラマでも映画でも同じ演技。逆にそれが一定の需要を生んでいるのかもしれない。
 こっくり役の関水渚はよかった。この人は去年の「町田くんの世界」で見たきりだが、善意の塊である主人公に、相手役である平凡な女子高生が上手に絡んでいく様子を好演していた。今回の演技はマンガチックではあるものの、観客に訴えかけるものがあった。
 コメディだから人情話は不要だ。しかし日本の喜劇の悪い癖なのか、本作品でもラストシーン近くになるとやや説教臭くなってしまったのが憾み(うらみ)である。全体としては楽しめたのだが、吉本新喜劇みたいな蛇足のシーンがなければもっと余韻の残る作品になったと思う。

映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」

2020年08月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」を観た。
 大変に癖のある作品で、前半はその世界観に入り込めず、失敗したかなと思っていた。しかし中盤から徐々に面白くなり、終盤になるとなんでもない場面にも感動するようになる。前半にばら撒かれたわかりにくいシーンの真意が終盤ですべて明かされるのだ。そういうことだったのか、大林監督!と膝を叩きたくなるいいシーンの連続である。
 明治維新の際に活躍した西郷隆盛や坂本龍馬や大久保利通がたとえ現代に生きていたとしても、世の中は決してよくならないと思う。ひとつは、国をよくしたいという情熱に満ちた彼らであったが、彼らのいう国とは国家のことであって国民のことではない。開国直後の日本は欧米の列強に伍していくことが主要な課題だったのだろうが、現代に求められるのは国民が平和に幸せに暮らせる国造りである。人権という考え方が世界中に浸透している時代なのだ。
 もうひとつは、時代が彼らを否定したということである。彼らが不慮の死を遂げたのは、結局は当時の国民が彼らを望んでいなかったからだ。時代というものはそういうものである。その時代、その時代に、目に見えない大多数の意志みたいなものが確かに存在するのだ。日本が中国や朝鮮、東南アジアを侵略したのは国民の大多数がそれを望んでいたからである。大林監督はその国民性を付和雷同として一刀両断する。現代に待ち望まれるのは維新のヒーローの再来ではなく、ひとりひとりの自立した世界観なのである。
 昔から役人は国民のことを蒙昧であると考えている。啓蒙という言葉の対象は常に庶民だ。「由らしむべし知らしむべからず」という封建主義時代の施政方針も同様に国民を馬鹿にした考え方に基づいている。実は現代の政治家や官僚も依然として同じ考え方をしていて、国民には情報を公開しない。都合の悪いことは教えないのが江戸時代から連綿と続く施政方針なのである。だから学校の教科書では日中戦争や太平洋戦争を教えない。そういう戦争があったことは教えても、その実態については教えない。
 映画人は教科書が教えない映画の実態を描いてみせる。百聞は一見に如かずだ。教科書で教わるよりもよほど戦争の本質が理解できる。大林監督は本作品を通じて、戦争映画を見よ、そして戦争の悲惨さを知れ、愚かさを知れ、愚かさの来る所以が国民の付和雷同であることを知れというのである。
 本作品では兎に角たくさんの名前が登場し、ひとつひとつの名前がとても大事にされる。全体主義の世の中では個人が重んじられず、個人は全体のための犠牲となることを美徳とせよという価値観に席巻されている。つまりは天皇陛下万歳と言って死ねということだ。対して戦後民主主義の範である日本国憲法は個人主義であり、第13条には「すべて国民は個人として尊重される」と書かれてある。
 映画は人生を描くものだから、常に個人が主役だ。名前を大事にするのは個人の人生を大事にするということである。そのあたりの大林監督の覚悟が本作品全体を通じて強く訴えかけてくる。その魂のありようは立派であり、見事であり、悲壮である。だからなんでもないシーンでも落涙してしまうのだ。
 さて映画の中ではところどころで中原中也の詩が部分的に紹介される。戦争という言葉が中也の詩の中に出てくるのは本作品で紹介された「サーカス」の他にもう一篇「秋日狂乱」という詩である。
 僕にはもはや何もないのだ
 僕は空手空拳だ
 おまけにそれを嘆きもしない
 僕はいよいよの無一物だ
 それにしても今日は好いお天気で
 さつきからたくさんの飛行機が飛んでゐる
 ───欧羅巴は戦争を起すのか起さないのか
 誰がそんなこと分るものか
 今日はほんとに好いお天気で
 空の青も涙にうるんでゐる
 ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
 子供等は先刻昇天した
(中原中也「在りし日の歌」より「秋日狂乱」の冒頭部分)
 本作品はこれからも戦争映画を作り続けてほしいという、映画人に対する大林監督の願いであり、戦争映画を観て戦争の本質を知り、全体主義の陥穽にはまらないでほしいという観客に対する願いでもある。個人を重んじるためには多様性を受け入れる寛容さが必要だ。映画を観て寛容な心になってほしい。しかし現代は世界中にヘイトが蔓延しつつあるように見える。大林監督は不寛容な全体主義が猖獗を極めようとしている現状を危惧していたに違いない。