三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「おかあさんの被爆ピアノ」

2020年08月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「おかあさんの被爆ピアノ」を観た。
 被爆したあとの広島では、被爆者に対する差別が酷かったらしい。差別は戦後も続き、被爆二世と呼ばれる被爆者の子どもたちにも及んだと言われている。知っている広島出身者は原爆について話したがらないし、有名な反戦歌である「原爆を許すまじ」や「死んだ男の残したものは」を歌いたがらない。原爆は街や人の生命だけでなく、人の心も破壊したのだ。
 ピアノの調律師役の佐野史郎は名演だった。広島弁のイントネーションも完璧で、広島人らしい優しさと磊落さがとてもよく出ていた。穏やかな父母を演じた森口瑤子と宮川一朗太もよかった。特に森口瑤子は被爆二世が味わされた微妙な差別がうっすらと感じられ、嫌な思いをしたことを娘に伝えたくない母の気持ちが十分に伝わってきた。
 ヒロインの武藤十夢がミスキャストである。演技が学芸会なのだ。この人が演じると主人公が二十歳とは思えないほど子供っぽく、穏やかな両親から生まれたとは思えないガサツな娘になってしまって、序盤から不愉快にされた。ピアノを弾くヒロインなら、もっと繊細な感受性を持っていなければならない。同じ台詞でも話し方次第で上品にも下品にもなる。当方がプロデューサーだったら、モトーラ世理奈をキャスティングしただろう。多分まったく違う作品になった筈だ。
 それでもヒロインがおばあちゃんの被爆ピアノとそれに纏わる自分の家族の歴史に触れることで少しずつ気持ちが変わっていくさまは見て取れた。そして森口瑤子が演じた母親も、娘におばあちゃんの思い出を語ることで、長い間抱えてきた苦しみを溶かしていく。本作品の主眼はこの母娘の成長にある。タイトルが「おばあちゃんの被爆ピアノ」ではなく「おかあさんの被爆ピアノ」である理由もそこにあるのだ。佐野史郎の調律師と宮川一朗太の父親がそれを上手に優しくサポートし、物語は穏やかに進んでいく。ピアノを弾かせてほしいという学生たちのシーンは要らなかった。
 被爆ピアノで弾かれる曲は冒頭の「アヴェ・マリア」にはじまり、滝廉太郎の「荒城の月」から野口雨情の童謡、それに「ゴンドラの唄」まで幅広く弾かれるが、なんと言ってもベートーヴェンである。特に「悲愴」が何度も繰り返されるが、少しも飽きない。昨秋にサントリーホールでピアニスト及川浩治さんのリサイタルを聞きに行ったが、五大ピアノソナタと「エリーゼのために」はいずれも高山流水というべき名演奏だった。そのときに聴いた「悲愴」がこれまで聴いた中で一番だったと思う。
 ヒロインはともかく、人が優しさを獲得していくいい話を佐野史郎や森口瑤子の名演とベートーヴェンの曲に乗って観ることが出来たのはよかった。心がほっこりとする温かい作品である。

映画「ドキュメンタリー沖縄戦」

2020年08月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドキュメンタリー沖縄戦」を観た。
 沖縄戦を扱った映画で最も迫力があり、かつリアリティがあったのはメル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」である。沖縄戦を扱った作品だ。島の切り立った崖を登ると、痩せ細った日本軍兵士が鬼のような形相で銃を撃ち、日本刀で斬りつけてくる。物量で日本軍を圧倒していた米軍だが、個々の戦闘では多くの死傷者を出した。
 本作品は沖縄戦が庶民にとってどのようであったかを教えてくれる。自分たちで掘った避難場所と食糧を日本の軍隊に奪われ、米軍は鬼畜で男は拷問されて殺され、女は強姦されて殺されると教えられる。他に情報のない住民はそれを信じるしかない。米軍が勝って占領された地域の住民は、ガマと呼ばれる穴に集まって隠れるが、出て行って殺されるか、ここで死ぬかの選択を迫られる。チビチリガマでは親が子供を殺し、死にきれなかった者だけが助かった。しかしシムクガマでは、ハワイから帰っていた比嘉平治さんが米軍と話すことが出来たので、強姦も拷問も殺されることもないと判って、全員が助かった。
 教育の問題だと多くの登場人物は語るが、日本軍が自分たちに都合のいいことしか伝えないのは考えれば解ることだ。それを考えなかったのは権力に逆らうことをしない国民性だと思う。沖縄を含めて日本は市民革命で自由と平等が勝ち取られた訳ではない。明治維新はクーデターだし、戦後民主主義は戦争に負けて成立した。日本人は一度も権力と戦ったことがないのだ。そもそも権力を疑うこともしない。それこそが教育の問題で、権力というものが常に流転する相対的なものだという認識があれば、日本の軍国主義教育を鵜呑みにすることはなかっただろう。
 そういうメンタリティは社会全体が建設的な場合には集合として強い力を発揮する。高度成長時代がまさにそれに当たる。しかしいま、下り坂の時代に入り、再び権力者が国家主義のパラダイムの下に人心の集結を図ろうとしている。その危険性に気づかないまま、現権力を支持していると、再び沖縄戦の時代がやってこないとも限らない。
 既に成長が望めない時代になっていることを権力者が認めようとせず、夢よもう一度と朝鮮半島や中国、東南アジアに軍を派遣するようなことになれば、世界はもはや日本という共同体、日本人という民族を残しておこうとは思わなくなるだろう。先の大戦に対する反省を口にせず、代わりに積極的平和主義を主張するような頭のおかしい人間が総理大臣をやっているような国だと、世界は既に警戒を始めているのだ。