映画「恋する男」を観た。
中年以降の男にとってポテンツの衰えは悩ましいことのひとつだ。女房はもはや性的な対象ではなくなっているし、若い子が相手をしてくれる訳でもない。風俗は病気が怖いし金もない。相手がいない訳だから悩む必要はなさそうだが、それでも人知れず悩む。ポテンツが元気だと男としての自信が違うのだ、とでも言いたいのかもしれない。
人は五十を過ぎたらそろそろ死を考える歳になる。論語では知天命だ。しかし本作品の主人公小田はそんなことを考えない。ひたすら仕事と金と女のことしか関心がない。趣味は酒だ。身体は耐用年数を過ぎていても、心は若いままだ。少年のままと言ってもいい。いくつになっても女に振り回される。しかしそれなりに分別は出来ているから、陰惨な事態にはならない。五十男らしく、ぐっと我慢するだけだ。その様子が可笑しくて哀れだ。
美味しいものを食べたいし、いい女を抱きたい。できれば今よりもいい家に住みたいし、靴やら洋服やら時計やら、いいものを身に着けたい。ほぼ昭和である。しかし最近はそういう欲望に忠実な男は流行らないようだ。
人間は他の生物を食べて排泄する。大気を吸って排気する。垢やフケや鼻くそや鼻水や唾液や痰や涙を排出する。人体は環境と密接に繋がっている。生命の維持のためには環境との有機的なやり取りが欠かせない。人工授精が種の保存の主流になる日が来るかもしれないが、いまのところは性交が繁殖の中心的手段である。
人間関係が希薄になって、直接的な触れ合いよりも電波を通じての視覚と聴覚限定の関係が主体になりそうな世の中だが、小田のように次から次に女を求める生き方を否定する理由もない。離婚できて独身でいるのはある意味で幸運なことだ。おかげで倫理的に非難されることもない。
ビバ!独身だ。ひとりは淋しいが、ひとりは気楽だ。「孤独のグルメ」の井之頭五郎のように、ひとりランチに慣れてしまうと、他人と一緒に食事をするのが煩わしくなる。目の前の料理と真摯に向き合うのが幸せなのだ。他人との会話など不要である。サザンオールスターズの歌に「女呼んで揉んで抱いていい気持ち、女なんてそんなものさ」という歌があった。女は抱ければそれでいい。愛なんてあとづけでいいのだ。
人と繋がることを恐れない小田みたいな生き方がある意味うらやましい。小田自身はいろいろ考えて、それなりにもがいているつもりだろうが、傍から見れば生きたいように生きているように見える。生まれながらの楽天家なのだ。そこがいい。コロナ禍の状況でも元気の出る映画だった。