三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「世界残酷物語」

2021年03月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「世界残酷物語」を観た。
 世界各地の奇異な習慣の紹介よりも、ビキニ環礁の原爆実験の影響を大げさにデフォルメした映像が最も印象に残った。
 空を埋め尽くす海鳥たち。海岸に数え切れないほどの卵を産み、戻ってきては卵を温める。しかし卵は放射能の影響で既に死んでいて、親鳥がいくら温めても孵化することはない。
 ウミガメは海岸を掘って卵を産むが、放射能で方向感覚を失って海に帰ることが出来ない。丘にはウミガメの死骸が点在する。死んだばかりのウミガメに鳥が卵を産む。やがてウミガメはヒナの餌となる。ヒナがウミガメの肉を食べ尽くして骨だけになる頃、別のウミガメがやってくる。
 ハゼのような魚は、放射能で満たされた海に戻ろうとせず、浜辺の木の上に登る。海から上がっても、暫くは生きられるように変化したのだ。木を叩くと魚が落ちる。なんとも不思議で気持ちの悪い話である。
 原爆を俗物根性が生み出した悪だとすれば、現在でも世界各地に存在している原発もまた俗物根性が生み出した悪だと言える。逆に言えば、スノビズムの愚かしさの象徴のような存在が原発なのだ。原発を推進する自民党議員の愚かしい顔を思い浮かべれば、それも納得できる。
 本当か嘘かわからない、いかがわしい映像の連続する作品であるが、映画全体を通じてヤコペッティの悪趣味が地鳴りのような哄笑を誘うようだ。悪趣味もここまで徹底すれば立派な文化たり得る。世界中でヒットしたのもある意味うなづける。哄笑の対象はいつでも人間なのである。

映画「さらばアフリカ」

2021年03月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「さらばアフリカ」を観た。
 グァルティエロ・ヤコペッティ監督のリバイバル上映作品である。アフリカのロケでカメラが捉えた現実が容赦のない映像で紹介される。これは本当に事実なのかと疑いながらの鑑賞となったが、銃殺やアラブ人の大虐殺の映像は、所謂アクション映画で登場するような派手なシーンとは正反対にとても地味な映像であり、おかげで真実味が増していた。
 ヨーロッパが手を引いたあとのアフリカはまさにカオス状態だった。部族間の戦いは、初期は手製の武器を使っていたから、生々しいことこの上ない。手製の槍で動物を殺してきたのと同じように人間を殺す。残酷さが尋常ではない。
 映像では殆ど映されないが、アフリカの残酷な現実の背景に浮かび上がるのはヨーロッパの商人の姿である。アフリカ人が象を狩って象牙を集めるのはそれが高く売れるからだ。買うのはヨーロッパの商人である。アフリカ人がアラブ人を集めて銃で処刑する。その銃を売るのはヨーロッパの武器商人である。
 イギリスもフランスもアフリカを支配するのを諦め、アフリカを市場とし、資源の供給地とした。ヨーロッパ人が残った南アフリカ共和国では人種差別が続いているが、ヨーロッパ人が去った地域では土地と資源の支配をめぐって現在に至っても争いが絶えない。
 本作品の撮影時点のアフリカは、土着信仰の未開の地であり、部族内では長老を頂点とするヒエラルキーがあり、食物摂取の優先順位がある。金やダイヤモンド、象牙などの資源の地であるほかに、サバンナはサファリ観光の地でもある。
 かつての暗黒大陸は、急速に発展している地域と文明に取り残された地域がある。発展する地域では森林破壊が起きて地球温暖化の一員となっているが、先進国は森林破壊をして都市を築いた。アフリカだけが温暖化の責任を問われることはないという主張は一理ある。
 鑑賞中に頭をフル回転させても追いつかないほど内容の濃い作品だったと思う。

映画「異邦人」

2021年03月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「異邦人」を観た。
 マルチェロ・マストロヤンニは年齢を経て味を出した俳優のように思っていたが、それは当方の勘違いで、栴檀は双葉より芳し、若い頃から素晴らしくハンサムで存在感のある俳優だった。演出のせいもあろうが、本作品では他の登場人物と一線を画した重厚な迫力がある。
 アルベール・カミュの小説「異邦人」そのままのストーリーと台詞の映画だが、イタリア語とフランス語で少しニュアンスが異なる気がした。母音を力強く発音するイタリア語と、鼻母音が鼻に抜けるフランス語とでは、耳触りがかなり違ってくる。しかしマストロヤンニ演じる主人公ムルソーのモノローグは抑揚を抑え気味で、演出を原作のニュアンスに近づけている気がする。
 約80年前に刊行された小説はいまでも新しさを少しも失っていない。同様に53年前に製作された本作品も、新しさを失っていないと思う。名匠ルキノ・ビスコンティは原作の意味するところを完全に理解して映画化した。つまりパラダイムに反する分子は常に異邦人として裁かれるということである。
 ムルソーのモノローグや発言には「何の意味もない」「僕にとって無意味」という台詞が数多く現れる。裁判で検事は、既存の価値観を無視するかのようなムルソーの発言を、冷酷さ、無慈悲の発現だと決めつける。しかしムルソーの戸惑ったような表情からは、無意味という発言は怒りや憎悪とは無関係で、素朴に率直に気持ちを表現しただけのように見て取れる。このあたりのマストロヤンニの演技は光っている。
 ムルソーは無神論者だが、神を信じている人々を否定することはない。ママの葬儀がキリスト式であることを嫌がりもしない。しかしキリスト教徒から信仰を強制されることは断固として拒否する。極めつけは「神のために時間を無駄にしたくない」と司祭に言い放つシーンだ。人間が信仰から精神を解き放っている証左の言葉である。この言葉がキリスト教社会においてどれほどセンセーショナルな言葉であるかは想像を絶する。ドストエフスキーに聞かせてやりたかった言葉だと思うのは当方だけだろうか。
 人間は死を恐れ、死を夢見る。死の恐怖と生への執着は一体的で、まだ生きていたいと思う一方、この人生に何の意味もないことに気づいてもいる。死刑囚となったムルソーにも勿論死の恐怖はある。その死に何の意味があるのか。自分の存在価値は死刑執行のときに多くの人々の憎悪の的になることだと彼は思う。当然の帰結である。
 本作品の意義はキリスト教のパラダイムから脱した精神性が生と死、存在と無というテーマにどのようにして挑んでいくのかを描いたところである。ビスコンティ監督は光と影のコントラストの多いシーンに不穏な音楽を合わせることで、上手にカミュの世界を描き出してみせた。名作だと思う。

映画「太陽の蓋」

2021年03月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「太陽の蓋」を観た。
 映画「Fukushima 50」が福島第一原子力発電所の現場を舞台の作品だったのに対して、本作品は内閣総理大臣官邸を主な舞台にしている。当然ながら、登場人物は官邸で働く職員と政治家と、それに政治記者たちである。
 福島第一原発では、緊急事態に備えた日頃の訓練を遥かに上回る津波が到来して、全電源を喪失、原子炉の冷却が不可能になった。原子炉の圧力が高くなったためにベントと呼ばれる排気作業が必要になる。バルブは原子炉に近く、高濃度の放射能を浴びながらの作業となるため、作業員は命の危険にさらされる。
 菅直人の扱い方がFukushima 50とかなり異なっている。Fukushima 50では佐野史郎演じるヒステリックな総理大臣が現場に来るということで作業が遅れたとなっていたが、本作品では本店と呼ばれる東京電力の本社が情報を官邸に出さないため、自分で現場を見に行くしかないという判断になったようだ。
 原子炉容器への海水注入は必須だったが、海水を注入すると原子炉は使い物にならなくなるので、東電としてできればやりたくない。当時官邸に詰めていた東電の重役が官邸から現場に電話をかけて海水注入は待てと言ったらしい。この期に及んでまだ原発を守ろうとする利権主義には呆れ返ってしまうが、割とこういう精神性の人間は多いと思う。原発の現場がマスコミに、官邸から海水注入を待つように指示があったと伝えたため、官邸が海水注入を妨害したという報道になってしまった。
 後にその報道が間違いだと知れたが、調子に乗ったのは安倍晋三である。メールマガジンに「やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです」などとアップしたのだ。
 そもそも菅直人政権が原発を進めた訳ではない。自民党政権が原子力村という利権集団を形成し、原発を強力に推進した。政官財学、それにマスメディアが一体となった原子力村は、鉄腕アトムなどのプロパガンダキャラクターを上手く利用して「原子力、明るい未来のエネルギー」というキャッチフレーズのもと、日本中の沿岸に原発を建設したのだ。
 野党が何もしなかったわけではない。東日本大震災の5年前、2006年に共産党の吉井議員が、10メートル以上の津波が来たら原発はどうするのかと質問している。当時の総理大臣安倍晋三は、10メートルの津波など考えられないし、全電源の喪失など想定できない。想定できないことについて対策など考えようがないと、吉井議員の質問を一蹴したのだ。
 大震災発生当時に何度も記者会見を繰り返した枝野官房長官の「想定外」という言葉が耳に残っている。震災よりも5年前の吉井議員の「想定」を当時の安倍政権がまともに受け止めて対策を考えていれば、福島第一原発事故は違った結果になったかもしれない。
 その後の総選挙では自民党が勝ち、安倍晋三政権が7年8ヶ月も続いた。原発事故を招いた張本人である安倍晋三を支持した日本の有権者は、これからも原発事故を繰り返したいのだろう。
 タイトルの「太陽の蓋」は、太陽に蓋など出来っこないという意味だと思う。太陽は水素がヘリウムに変わる核融合反応で燃えているが、原子力発電は核分裂のエネルギーで原子力爆弾と同じエネルギーを使っている。両方とも核のエネルギーで、人間に制御できるものではない。映画「地球で最も安全な場所を探して」で紹介されているように、高レベル放射性廃棄物の捨て場所は、地球上で未だに見つかっていない。廃棄物にさえ蓋ができないのが世界の原発の現状なのである。

映画「太陽は動かない」

2021年03月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「太陽は動かない」を観た。
 藤原竜也らしいアクションと演技が堪能できたが、気になる点がひとつ。小説を第二巻から読んだみたいで、いろいろ腑に落ちないところが多かった。終わり方も急ぎ足で中途半端だ。それにエンドロールで流れる映像は、本編では出て来ないシーンが殆どだ。時系列も前後していて、本編の前なのか後なのか定かではない。
 という訳でネットで検索。一発で謎が解けた。これはWOWOWの戦略なのだ。ならば説明不足も中途半端な終わり方も納得できる。本編を観たらその情報不足から、当方と同じように調べたくなる。するとWOWOWに行き着いて全話を観たくなる。
 なかなかよく出来た戦略だが当方はこの映画で十分だ。と言いたいところだが、世界的なエネルギー利権の奪い合いは、脱原発社会となったいま、どうしても観てみたいところでもある。しかしそのためにはWOWOWに加入しなければならない。アカウントをなるべく増やしたくない人間にはハードルが高いのだ。
 映画が映画館だけでなく様々なメディアによって配信される時代である。本作品はそんな時代が生み出した典型的な映画と言えるだろう。映画は映画館で観る主義の当方のような観客には、足りないところをドラマで補わなければならないというのは、不満の残る話でもある。

映画「続・世界残酷物語」

2021年03月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「続・世界残酷物語」を観た。
 リバイバル上映だが有名な映画なので鑑賞してみた。本当は一作目を先に観たかったのだが、都合で続編を先に鑑賞することになった。
 残酷物語というほど残酷ではないと、映画の冒頭に断られる。加えて一作目がイギリスで上映禁止になったことについての皮肉なアナウンスが流れる。イタリア人はアイロニカルな側面もあるのだ。
 ニュース速報のように次から次へと場面が変わり、アナウンスが的確だが些か嫌味っぽく解説を加える。映像は当時の世界各地の残酷な風習であったり、奇妙なイベントであったりする。
 60年ほど前の映画だが、映像のレトロ感を除けば不思議に古さを感じない。現在で同じことが行われていたとしても、少しも可笑しくないからだ。というか、略略同じような事例が存在していると言っても過言ではない。日本も例外ではなく、東京にはキスだけをさせる風俗店があると聞くし、東南アジアの実習生の受け入れは、形を変えた人身売買そのものだ。暴力団に管理される外国人売春婦の問題もある。現実のほうが映画よりもずっと残酷である可能性があるのだ。
 体育会系の部活では上級生が下級生を一列に並べて順に殴るなどは日常的にある事例だ。やる方はすでに心が歪んでいるが、やられる方は、自尊心が破壊され、やがて心が歪む。暴力の連鎖の誕生だ。
 日本人は身近で行なわれている人身売買の実態に気づかない。マスコミが報道しないからだが、インターネット上には情報が溢れかえっている。調べれば調べられるはずだ。日本人が人権に鈍感なのは選挙の投票率の低さに現れている。人権蹂躙の政治が続いていることに気づかない。
 改めて本作品の「新しさ」に気づいた。名作は常に新しい。鑑賞する人に啓発し問題を投げかけ思索の契機をもたらすからである。一作目も観てみよう。

中津音頭

2021年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム

はぁ 豊前中津は城下の町よ ハヤットサノサ(チョイト)
桜花咲く塀の道 ソレ
香る若葉に福澤翁を(ヨイトサッサ)
しのぶ土蔵の明かり窓(シャント)
中津よいとこ城下町 チコソウチコ城下町

はぁ 月の闇無浜辺にうつる ハヤットサノサ(チョイト)
祇園車の絵巻物 ソレ
いさみ太鼓に鉦(かね)の音さえて(ヨイトサッサ)
沖は夜明けの夏祭り(シャント)
中津よいとこ華の町 チコソウチコ華の町


はぁ 実る沖代(おきだい)黄金(こがね)の花は ハヤットサノサ(チョイト)
三口大堰 母子草(ははこぐさ) ソレ
秋は夕月 池面(いけも)に浮かぶ(ヨイトサッサ)
薦(こも)の社(やしろ)の宵参り(シャント)
中津よいとこ詩の町 チコソウチコ詩の町


映画「ターコイズの空の下で」

2021年03月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ターコイズの空の下で」を観た。
 柳楽優弥はいい雰囲気を出していた。この人はチンピラの役も出来るし、エキセントリックな変人の役やサイコパスみたいな危なっかしい役も出来る。そして本作品のように金持ちのボンボンの役もよく似合う。主人公タケシは贅沢な生活をしているが放蕩という感じではない。育ちのいいおおらかさを醸し出している。柳楽優弥の見事な演技だ。
 タケシは祖父三郎に命じられてモンゴルでツェルマという60歳くらいの女性を探す旅に出る。ツェルマは日中戦争時に三郎がモンゴル人女性に産ませた娘だ。雲を掴むような話だが、三郎は大企業の経営者らしい勘を働かせて、所有するサラブレッドを盗んだモンゴル人アムラをタケシの案内役にする。アムラの豪胆な行動を踏まえての判断である。目的はツェルマを見つける他に、タケシを大企業の経営者として脱皮させることだ。
 早速ふたりのモンゴルの旅が始まる訳だが、タケシはアムラの度胸のいい行動にも少しも動じない。台詞は殆ど「おー」だけだが、いろいろな「おー」があって面白い。それぞれの「おー」にタケシの性格が現れていたと思う。気づいた限りで列挙するとタケシの性格は次のようである。
 何が起きても狼狽えない
 無駄に慌てない
 状況を受け入れる
 他人や他国の価値観を受け入れる
 素直に感動する
 モノに固執しない
 不安にならない
 臨機応変に思い切った行動ができる
 いまを楽しむ
 こうやって並べてみると、すでに大企業の経営者としての資質を十分に備えているように思える。観客は、言葉の通じない異国にあっても堂々としているタケシとともに、モンゴルの自然を楽しむことができる。温度や匂いまで伝わってきそうな見事な映像である。馬頭琴を弾きながらのホーミーは地平線の広がる大草原で歌ってこそだ。
 映画の舞台は東京とモンゴルの草原というかけ離れた場所だが、本作品はふたつの共通点を示してくれている。ひとつは東京でもモンゴルでも、人生は出逢いと別れの連続だということ。そしてもうひとつは、東京とモンゴルは青い空でつながっているということ。ターコイズの空である。12月生まれの人は是非鑑賞してください。

映画「After the Wedding」(邦題「秘密への招待状」)

2021年03月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「After the Wedding」(邦題「秘密への招待状」)を観た。
 よく出来た映画だとは思うが、いまひとつピンと来なかった。
 ジュリアン・ムーアは好きな女優のひとりで、特に米アカデミー賞主演女優賞を受賞した「アリスのままで」は、表情豊かなこの人ならではの演技が全篇を通じて光っていて、とてもよかった。若年性アルツハイマーを扱ったコンテンポラリーな作品でもあり、未鑑賞の方は一度は観てもいいのではないかとおすすめする。本作品で演じたテレサ役でも卓越した演技力を存分に発揮していた。
 インドでソーシャル・ワーカーとして働くイザベルを演じたミシェル・ウィリアムズも演技派で、本作品でもジュリアン・ムーアの相手役としての存在感のある演技は申し分ないと思う。しかし作品としては、イザベルがニューヨークにまで来た背景が弱い。支援がほしいという必死さの演技の割には、こないのだ。イザベルが面倒を見ている子どもたちは比較的恵まれている子どもたちではないかと思う。
 インドではモンサント社(バイエル社)による種子と肥料と農薬の押しつけで、農家は多額の借金を背負い、労働力不足を児童労働でまかなっている現状がある。都市では貧しい親は子供に労働をさせ、雇い主は殴る蹴るなどして重労働を強いているという報告もある。ユニセフによれば、5歳未満の子供の死亡率は日本の17倍である。
 イザベルの周囲の子どもたちは寝る場所と食料を与えられ、強制労働をさせられることもない。比較的恵まれていると思うのはそのあたりだ。他の地域には食べ物も寝る場所もなく明日の命さえ知れないという逼迫した子どもたちがいるはずで、そういうシーンがあればイザベルの必死さを納得できる裏付けができたと思う。

映画「DAU.ナターシャ」

2021年03月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「DAU.ナターシャ」を観た。
 なんとも不可解な作品である。シーンはロシア語が主体だが、英語やフランス語も話される。ロシア人が話す外国語はいずれもカタコトに近い。主人公のナターシャが働くのは、ある施設の中にあるレストランである。ホール担当の同僚は若いオーリャだ。客はほとんどが顔見知りで、誰もが名前でナターシャやオーリャと呼ぶ。映画の大半をこのレストランのシーンが占める。
 ナターシャとオーリャは年の離れた姉妹のようで、喧嘩もすれば仲よくもする。このふたりの精神性がよく分からない。両方とも強気なのだけは分かるが、そもそも弱気なロシア女性がいるとは思えない。愛について語ったかと思えば次の瞬間は互いになじり合う。
 客はどうやら研究施設で働く人々であり、科学者と軍人とその家族たちだ。つまりレストランはほぼ社員食堂である。酒を出したりするからウェイトレスが必要なのだろう。明治時代の女給のようで、給仕以外のサービスもある。しかし本番までやってのけてしまう必然性は感じられなかった。必然性のない男女の絡みは単なるポルノだ。
 時代は第二次大戦中のあたりか。ナターシャの熟れてしぼみはじめた身体と若いオーリャの張りのある身体がカメラにさらされる。一方はKGBの職員によって、一方は研究者たちによって責められる。どこにスパイがいたのだろうか。観客とした何もわからないままだ。
 KGBによるナターシャの取り調べのシーンはそれなりの迫力。全体主義者はこのようにして個人の心を折り、服従させていくのかという迫真の演技だったと思う。しかし日大アメフト部の部室でも同じようなことが行なわれていたはずだ。全体主義はソ連だけではない。
 作品としてはどう考えても面白くはない。DAUプロジェクトの作品のひとつらしいから、実験的な作品としての位置づけなのだろうが、エンタテインメントの部分が一切なかった。おかげでほぼ満席だったにもかかわらず、終映後の観客は誰ひとりとして言葉を発しないまま劇場を出て行った。同プロジェクトの第二弾があるとすれば、それを観たらもう少しは本作品も理解できるのかもしれないが、本作品があまりにも面白くなかっただけに、観るかどうかは微妙である。