三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「サンマデモクラシー」

2021年07月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「サンマデモクラシー」を観た。
 
 沖縄はもともとは琉球という独立国だ。しかし江戸幕府成立時のゴタゴタした情勢の間隙を突いたのか、薩摩藩が武力で征服してしまった。そして島津は徳川家康に上手いこと取り入って、琉球の統治権を託された。それでも江戸幕府は琉球王国そのものは認めていて、江戸幕府統治下の王国という妙な立ち位置のまま江戸時代が終わる。その後明治政府によって沖縄県とされて、琉球王国は終わった。沖縄県という名称の歴史はこの140年ほどである。
 琉球に限らず、土地の名称は支配者が交代すると変わることが多々ある。明治政府による廃藩置県によって日本全国も土地の名前が変わってしまった。琉球も沖縄県となった。政府による府県の整理は何度もやり直されて、現在の47都道府県に落ち着いたのは130年ほど前だ。県民の郷土愛を言う人は多いが、その県名はたかだか130~140年ほどの歴史しか持たない。人も流浪し、土地も流浪する。日本は国土がほぼ安定しているが、ヨーロッパでは国名や国境さえ流動的である。
 
 人は政治とは無関係に生まれてくる。生まれてきた場所は赤ん坊にとって名称など関係ない。生まれた場所が故郷である。政治的な区分けよりも、その場所で話される言語や風習、文化といったものが故郷の証だ。何県でも何国でも関係ない。沖縄を故郷とする人は、沖縄県という名称を故郷とするのではなく、沖縄の言語や文化を故郷とする。沖縄の人が愛するのはウチナーであって、沖縄県ではない。他の都道府県も国も同じで、国が変わろうが件名が変わろうが、言語と文化がその人の故郷なのだ。
 他の言語、他の文化に親しめば、そこが第二の故郷になる。もっと別の言語、文化に親しめば、第三、第四の故郷も出来てくるだろう。そうなるとどの言語、どの文化にも親しみがある訳で、もはや故郷などなくなる。旅人がいつか故郷に帰る日は来ない。
 
 本作品では熾烈を極めた沖縄戦を生き延びた、玉城ウシさんによる税金の返還要求裁判に端を発した民主主義運動が描かれる。戦後の沖縄は琉球政府が置かれたものの、その上部組織としてアメリカによる国民政府が置かれた。その長である高等弁務官は拒否権を持ち、琉球政府の決定を無効にできる。さらに布令と称した命令を次々に発して沖縄の民衆を縛っていく。食うや食わずやの状況に追い詰められた沖縄の民衆は立ち上がり、集会やデモを始める。
 そこに合流したのが政治家の瀬長亀次郎だ。この人は映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(2017年)とその続編である「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」(2019年)で当方にとってはお馴染みの顔である。彼は独特だが流暢な弁舌によって人々の心を掌握していく。
 
 映画は当時の様子と現在の様子を映像によって並べて見せる。米軍のために辺野古の珊瑚の海を埋め立てるアベ~スガ政権。高等弁務官に唯々諾々と従ってきた琉球政府と同じじゃないか。特にスガは、官房長官の時代から一貫して沖縄の民衆を弾圧し、環境を破壊してきた。玉城ウシさんや瀬長亀次郎が戦ってきたのは何のためだったのか。
 想像力がなければ他人の痛みはわからない。沖縄の苦しみは本土の人間に忘れ去られてきた。福島第一原発事故の被災者の苦しみも忘れ去られようとしている。自民党と公明党は選挙に勝ち続け、そして我が物顔に「国民の信任を得た」といって「粛々と」辺野古を埋め立て、コロナ禍オリンピックを開催する。こんなことを続けていたら、日本はいつか沈没するだろう。その日は近いかもしれない。

映画「ロボット修理人のAi(愛)」

2021年07月19日 | 映画・舞台・コンサート
映画「ロボット修理人のAi(愛)」を観た。
 http://roboshu.com/

 ファンタジー映画である。タイトルにあるようにAIが登場する。アイザック・アシモフが紹介したロボット工学三原則の見本のようなロボットが、HONDAのASIMOやSONYのAIBOだと思うが、本作品ではSONYのAIBOが扱われる。AIBOはその名前のとおり、AI搭載のロボットだから、機械的な駆動部分と、飼い主との触れ合いを学習するソフト的な部分によって成り立っている。初期の販売価格は185,000円で、中古の軽自動車が買えるくらいの高額だ。しかし生きている犬はもっと高いし、エサ代や病院代、小物類の消耗品費や犬が壊す家の修理費などを考えると、AIBOは費用対効果の面でとても優れている。それに衛生的でもある。

 本作品の主人公倫太郎は、終映後の舞台挨拶で主演の土師野隆之介くんが紹介したように、孤児ではあるが周囲の愛に支えられてグレることなく真っ直ぐに成長し、みんなから愛され続ける人気者になった。それはみんなの愛によって、倫太郎自身が思いやりのある、愛のある少年に育ったからである。それに加えて頭がよくて身体が丈夫な働き者なら、人気者になって当然である。
 町ぐるみで応援されている倫太郎だが、孤児である以上、出生の悩みはどこまでも付いて回る。本作品は偶然から出生の秘密に迫ることになった倫太郎がどのように振る舞うかを描く。存在さえ忘れていた妹との邂逅。ファンタジーらしく幻想と現実が上手く交錯する。
 AIBOは現実のシーンと幻想のシーンの両方で活躍する。AIBOがなかったら本作品は成立しなかったかもしれない。AIBOの修理を完璧なレベルにしたいという倫太郎の、エンジニアというよりも科学者のようなこだわりも、AIBOとともに本作品に不可欠だと思う。

 総じてとても優しい作品で、街の人も倫太郎自身も、思いやりに溢れている。こんな町が本当にあったらすぐにでも引っ越したいくらいだが、ファンタジーはあくまでファンタジーだ。現実は上手くいかないことだらけである。
 しかし本作品がDVDやブルーレイになって発売されるようであれば、ときどき鑑賞して心のササクレを治したい気がする。

映画「走れロム」

2021年07月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「走れロム」を観た。
 
 時代が不明である。映画紹介サイトの解説には「ホーチミン市」ではなく「サイゴン」と明記されているが、ホーチミン市の中心部のことだろうか。それともベトナム戦争が終結する前のサイゴン市のことだろうか。
 数年前にハノイに数日間行ったことがあるが、誰でもスマホを持っていた。本作品にはスマホは登場しないから、ホーチミン市以前の話なのか、それともスマホも所持できないほど貧しい人々ばかりなのかもしれない。登場人物は女子供と年寄りがほとんどで、もしかすると若い男はみんな戦争に駆り出されているのかとも思った。
 もし現在のホーチミン市の中心部を扱っているのなら、スラムのような場所に貧しい人々が犇めきながら住んでいることと、働かないで宝くじばかりやっているそこの住民たちを映し出す映画を、社会主義の当局が検閲で許可するとも思えない。しかしその一方、ベトナムも中国の役人のように賄賂天国で、金さえ出せば検閲にも手心を加えてもらえるという可能性もある。実際に本作品中の違法宝くじの胴元は当局と結びついているから取締を受けない。
 ベトナム語がわかれば、現在なのかベトナム戦争終結以前なのかは言葉で解るのかもしれないが、当方にはわからなかった。
 
 ただ、時代がどうあれ、本作品で扱われている、貧しい人々が自分の利益だけを考えて一攫千金に走る現象は、昔から普通に起きていると思う。暖かい国では酔っ払って道路に寝ても凍死することは少ない。住居の心配がそれほどないのだ。隙間だらけの家でもいい。寒い国のように常に家の補修を行ない、暖房のための燃料を確保するために働き続けなければならないのと比べて、暖かい国ではいきあたりばったりでも生きていける。勢い怠け者になり、やりたくないことはしないから、不労所得を求めるようになるのは自然の流れだ。
 本作品に登場する低収入地域の住民の家は、勝手に他人が出入りするほど防犯性が低く、財産を安全に管理できない状態である。贅沢をするためにはまず大金を手に入れてちゃんと鍵のかかる家に住むことが第一だ。普通に働いていてはそんな金は一生稼げない。そこで宝くじに手を出すのだが、宝くじは賭博と同じで、のめり込むと人生観が刹那的になり、拝金主義に陥る。まさに本作品に登場する人々だ。
 我慢することをしないから、暴力が日常的で、人から暴力を振るわれるのも人に暴力を振るうのも普通のことになってしまう。ボニー&クライドのように絶望的な日々で、いつか破綻することは目に見えている。
 主人公の少年ロムの人生は、更生して堅気の生活をする可能性はとても低く、おそらくは裏社会に入って暴力の日々を送るか、または若くして非業の死を遂げるか、あるいはその両方になるのだろう。
 原題は「Rom」で「走れ」などとはどこにもない。邦題の「走れロム」は、ロムが実際に作品の中で走り回っているから、疾走感や躍動感を出したかったのかもしれないが、ロムの走る先には絶望しかない。原題の通り「ロム」だけにしておいたほうがよかったと思う。

映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」

2021年07月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観た。
 
 映画やドラマをたくさん観たり、小説をたくさん読んだりすると、物語に慣れてくる。そしてストーリーがある程度読めるようになる。すると次はこうなるのかなと、展開を予測しながら観たり読んだりする。それが割とよく当たる。水戸黄門みたいな予定調和のストーリーはほぼ100パーセント当たる。当たると気分がいい。水戸黄門やドクターXが根強い人気なのはそのためだ。行きつけの店の定番メニューみたいに期待を裏切らない。
 ところが本作品のストーリーは、当方の予測が悉く外れた。違和感がいっぱいで胸がモヤモヤする。それはとてもいいことだと思う。水戸黄門を観ても、あとに何も残らないが、本作品は鑑賞後に引きずるものがある。疑問はたくさん残るし、細部がよくわからなかったシーンも結構ある。すべて製作側の意図だと思う。なかなか凝った作品だ。
 しかし主人公キャシーの動機が少し弱い気がした。そこまでやるほどの友情がこの世にあるのかと疑ってしまう。ただ、同じ疑問を登場人物も持っていて、キャシーに忠告したりするところが面白い。どこまでも人を食った作品なのだ。
 そしてキャシー自身も医大中退以降の10年間に別れを告げて新しい一歩を踏み出すかに見えたのだが、本作品は主人公に冷たい作品で、キャシーを苦悩に追いやる。そこから先の展開が破天荒で、当方には予測どころか、想像すらできなかった。
 あるシーンでは、昨年5月に警官に膝で首を圧迫されて死んだジョージ・フロイドの事件を思い出してしまった。理不尽な死だ。本作品でも理不尽な死がテーマのひとつになっている。無法者に対する怒りと、理不尽な死を遂げる悲しみ。怒りと悲しみの両輪がキャシーの行動の源になっている。
 必要なシーンが上手にバランスよく鏤められているから、すべてのシーンを見逃さないように刮目して鑑賞することをおすすめする。それぞれのシーンが無意識の中に残って、いつかそれらが昇華されて新しい物の見方をひとつ増やせるかもしれない。

映画「83歳のやさしいスパイ」

2021年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「83歳のやさしいスパイ」を観た。
 
 人の中身はいくつになっても子供のままである。気の弱い子供が気の強さを獲得することはなく、飽きっぽい子供が粘り強い大人になることはない。それは老人ホームに入居するほどの老齢になっても同じである。
 本作品を観ると、これがドキュメンタリーなのかと疑うほど、入居者の老人たちは生き生きとしている。何かの撮影だとして施設にカメラが入っていることを入居者全員が承知しているが、新しく入居してきた83歳のセルヒオがスパイだと知る入居者はいない。
 入居者たちはもはや立場を守る必要がないから、恐れずに話したいことを話す。もちろん虚栄心や自尊心は子供のままだから、嘘も吐くし話を大きくしたりもする。ただ、人生経験が長いから、他人を傷つけるような言葉は言わない。
 施設長はいい人だし、介護士やその他の従業員もきちんと真面目に仕事をしている。いい施設なのだ。しかしセルヒオの目には、ひもすがら茫然と過ごす入居者たちは、既に生きがいを失っているように見える。当方にも、彼らが棺桶に向かう長い行列に見えてしまった。
 どこに問題があるのか。あまり面会に来ない家族か。いや、面会に来ないのではなくて来れないのかもしれない。とすると、何が悪いのか。セルヒオには答えが見つからない。
 
 超高齢化社会は日本を先頭に、既に世界中ではじまっている。労働人口の割合も減っているから、少ない人数で多くの老人たちの老後を支えなければならない。働かなければならないから親を施設に入居させる。その料金を支払うために沢山仕事をしなければならない。すると労働時間が長くなるから面会に行けない。
 富の分配であるセーフティネットがあまり上手く働いておらず、そのうちどの国でも金持ちの割合が減少して殆どが貧乏人になるだろう。貧しい地域で発生するスラム街が国中に広がっていく可能性もある。医療を受ける収入がなく、健康保険料も払えなくなり、病院に行くこと自体が不可能となってしまう。病気の老人からまず見捨てられ、次に収入のない老人が餓死していく。若者は自殺したり、戦争に行って死にたいとナショナリストになったりする。
 一方で、こういう社会問題はいつの世にもあったとも言える。富める人たちだけが楽をし、貧乏人は苦労して苦労して、ボロボロになって老いた日々を過ごす。日々の小さな出来事だけが楽しみだ。人間はかくも悲しく生き、かくも悲しく死んでいく。面白くもあるが辛くもある作品であった。

映画「ファイアー・ブレイク 炎の大救出」

2021年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ファイアー・ブレイク 炎の大救出」を観た。
 
 森林消防隊の映画では、2018年日本公開の「オンリー・ザ・ブレイブ」が記憶に残っている。実話をもとにしていたためか、アメリカ映画らしくなく、地味でリアリティのあるいい作品だった。発生する山火事は広大なアメリカの森林が舞台だけにとても巨大で、立ち向かう消防隊の勇気と技術に感動した。
 本作品の山火事はさらに巨大であり、巨大すぎて人間の無力を感じてしまった。消防隊員は訓練を受けてはいるが、スーパーマンではないので超人的な活躍ができる訳ではない。その時その状況での現実的な最善の対策を瞬時に考えて実行する。
 真摯な消防隊員に対して、隊長の娘とその彼氏の新人消防隊員が登場したときは尻軽女とチャラ男の組み合わせに見えてしまった。ところがこの二人がその後の展開で・・・いや、ネタバレになるのでこれは書かない。
 短時間で村人の心をひとつにした隊長の人心掌握術の凄さと、隊員たちそれぞれの個性的な能力が見どころだが、隊長の娘が上司に対して「あの村人たちもこの国の国民よ」と啖呵を切るシーンが最も印象に残った。
 予算たっぷりのハリウッドB級作品に比べるとCGその他において劣る面はあるが、リアリティという点では見劣りしない。人間臭い隊員たちの素顔と火災の現場での勇気のギャップが本作品の醍醐味だ。
 ところで、隊員のひとりが格闘家のエメリヤーエンコ・ヒョードルに似ていると思ったのは当方だけだろうか。

映画「東京自転車節」

2021年07月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「東京自転車節」を観た。
 
 孤独である。孤独だがやるべきことをやるしかない。雨の中、言うことを聞かなくなりそうな脚を無理矢理に動かして自転車を漕ぐ。なにがなんでも商品をお客さんに届けるのだ。店から預かった大切な商品。店にもお客さんにも信義を尽くさなければならない。それが配達員の矜持じゃないか。
 それにしても今日はどこで寝るのだろう。いや、そんなことは最後の配達を終えてから考えよう。友達のところか、奮発してアパホテルに泊まるか、いや持ち金がない、ガード下の歩道で横になるか。寝る場所なんてどこでもいい、何時間か眠れば朝が来る。そうしたらまたスマホの電源を入れよう。すぐに配達の依頼が来るはずだ。
 
 山梨から東京まで自転車で行くのは時間的にも体力的にも大変だろう。それ以上に、所持金8,000円で何の伝手もない新宿で生きていこうとする覚悟が凄い。友人たちはその覚悟に動かされて協力したのだろう。
 政治が発表することは朝令暮改で何を言っているのか殆どわからない。政治なんか放っておいて、今日を生きるしかない。しかし今日を生きることのなんとしんどいことか。金を稼ぐってこんなに大変だったか。山梨で代行をやっているときはそれほど大変じゃなかった。コロナは世の中をこんなに変えてしまったのか。
 
 最近の動画カメラGoProはとても優秀で、自転車で疾走する様子をブレずに撮影できて、驚くほど臨場感がある。それ以上に驚くのが青柳拓監督の若い体力だ。よく頑張れるものだと感心しながら鑑賞した。
 上映後の舞台挨拶では、一緒に登壇した友達3人と親しく話をしていたが、映画の中では今回の体験で得た真実を吐露している。自分は孤独だ、そして誰も彼も孤独なんだ、孤独だから繋がりを求める。しかしそう簡単に繋がりなんか得られるはずはない。都会は孤独の集まりだ。
 青柳監督の本音が全部詰まっていて、この作品を発表するのは世間に向けて自分の本音をさらけ出すことになる。とても勇気が要ることだったと思う。しかし、闇を抱えた青柳監督をその闇ごと受け入れる友達がいるのは、とても幸福なことだ。拍手。
 今後も Uber Eats を続けるという監督。何の保障もない個人事業主。しかし監督には感謝の気持がある。これからも丁寧な挨拶を心掛けて、お店の可愛い女の子から優しい言葉をかけてもらえるように、心からお祈り申し上げる。身体に気をつけてください。

映画「ブラック・ウィドウ」

2021年07月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ブラック・ウィドウ」を観た。
 スカーレット・ヨハンソンは2012年日本公開の「We bought a Zoo」(邦題「幸せへのキセキ」)でマット・デイモン演じる主人公の相手役を演じていて、女のたくましさと優しさを存分に表現していた。その後は「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」といった変わり種の映画や、ちょっとイマイチの興収だった「ルーシー」などを経て、アベンジャーズのブラック・ウィドウというはまり役を得た。
 しかしこれまでのブラック・ウィドウはそれほど特徴のない戦闘員のひとりで、折角のスカーレット・ヨハンソンの演技力をあまり活かせていなかった。アベンジャーズの主人公は大体ロバート・ダウニーJrのアイアンマンで、ブラック・ウィドウは脇役だったからやむを得ない部分もあった。
 本作品ではブラック・ウィドウが漸く日の目を見た感じで、単なる冷酷な殺し屋ではないことが解る。ちょっとホッとした。そして意外に戦略家でもある。なかなか逞しい。
 戦闘があまりシビアでなく、笑えるシーンもちらほらあるから、本作品はアクションコメディの部門に入ると思う。スカーレット・ヨハンソンはまたひとつ演技の幅を広げた訳だ。
 妹役のフローレンス・ピューは映画「レディ・マクベス」では、自分の欲望に忠実な恐ろしい主人公を迫力満点に演じていて、本作品でも存在感十分だった。
 ストーリーはスパイ映画みたいに舞台を世界中に転々としながら進み、大団円にはほぼ女性ばかりのシーンがあって、略取された女性たちをブラック・ウィドウに仕立て上げた計画が水泡に帰した瞬間をうまく表現する。女性たちが存分に活躍するアクション映画は、とても爽快であった。

船頭小唄

2021年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

作詞:野口雨情
作曲:中山晋平

 

(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
同じお前も かれ芒
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒

死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに 何変(かわ)
己もお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ

枯れた真菰(まこも)に 照らしてる
潮来(いたこ)出島(でじま)の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ

なぜに冷たい 吹く風が
枯れた芒の 二人ゆえ
(あつ)い涙の 出た時は
汲んでお呉れよ お月さん


映画「シンプルな情熱」

2021年07月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シンプルな情熱」を観た。
 
 恋の終わりはいつもいつも
 立ち去る者だけが美しい
 残されて戸惑う者たちは
 追いかけて焦がれて泣き狂う
 
 1977年(昭和52年)にリリースされた中島みゆきの「わかれうた」の一節である。古い感覚や価値観のことを「昭和だ」といって否定されたり揶揄されたりすることがあるが、中島みゆきの歌に限っては、古さを少しも感じない。ましてや「昭和だ」といって否定されることは決してないと思う。時の風俗や流行り廃りを超えたものがあるからだ。
 
 ヒロインのエレーヌを演じたレティシア・ドッシュは2018年に日本公開された映画「若い女」ではなかなか見事な演技を披露していた。「若い女」では、価値観の揺れ動く時代にあって、変わってゆく価値観に流されつつも、前向きに強く生きていく女性を演じたが、本作品ではシングルマザーにもかかわらず恋に堕ちて見境を失くしてしまう中年女性を好演。
 
 当方は男なので、女性の性欲がよくわからないが、恋多き女性とそうでない女性がいるのは確かだと思う。男性が一様に性欲があるのに対して、女性は性欲の強い人とそうでない人、性欲がまったくない人がいる。性欲の強い女性が恋多き女性なのだろう。そして恋多き女性は、性欲が満たされる間はひとりの男に入れあげ、その男から満足が得られなくなったら別の男を求める。男性は複数の女性と同時に関係を持つことが平気だが、女性の殆どはそうではない。浮気をするのは男性の割合が多いのはそのせいだ。妊娠しないからだろう。
 
 本作品のエレーヌはかなり性欲が強い方で、オルガスムスのためには予定も変更するし、息子のことも放ったらかしにする。アレクサンドルはそれを解っているから、じらしてエレーヌの感度を上げる。逢うのもじらすが、性交時も、キスをしたいエレーヌをじらして唇をなかなか合わせない。エレーヌはキスを求めて口走る「Je t'aime, Je t'aime」。アレクサンドルはそんなところに満足するが、そぶりも見せない。恋のテクニックだけがアレクサンドルの矜持なのだ。スケールの小さい男である。
 恋は性欲だが、同棲や結婚をして人生を共にするには相手への尊敬が必要である。男を尊敬できない自分に気づいたとき、未来への展望は幕を閉じ、同時に恋も終わる。男は女が自分から離れようとしていることに気づいて、漸く、尊敬される男を演じようとするのだが、時は既に遅い。
 
 中島みゆきの歌詞はいろいろな受け取り方があるだろうが、立ち去る男と追いかける女という図式ではなく、立ち去る女がいる一方で、残される女たちがいるという意味だと思う。女が立ち去るときは、相手への尊敬を失くしたときだ。尊敬できない相手とのつき合いをやめるのは潔い。だから美しい。尊敬できるかどうかわからないが、与えてくれるオルガスムスがほしい女たちは追いかけて焦がれて泣き狂うという訳だ。だからみっともない。
 中島みゆきが25歳のときの歌である。中島みゆきは自分もみっともない女たちのひとりとしてこの詞を書いたのだろう。本作品のエッセンスは中島みゆきの歌詞に集約されているように思う。40年以上の時間の差と、日本とフランスという場所の違いがあっても、中島みゆきが看破した恋の真実は変わらないのだ。