三島由紀夫と森田必勝が市ヶ谷で割腹して果てたのは、1970年11月25日のことであった。米国から押し付けられた憲法を改正するために、体ごとぶつかったわけだから、高校三年生であった私は、大きな衝撃を受けた。あの時はすでに、日本の左翼運動は衰退の一途を辿っていた。1956年のスターリン批判以来、既成左翼は若者からソッポを向かれていた。新左翼は一定程度の動員力はあったが、それはやり場のない憤りであり、イデオロギー的には脆弱であった。日本の左翼は、実際に武力を用いて権力奪取を行ったことがなかったが、北一輝の理論によって、2・26事件の青年将校は決起したのだった。現実を変える力があるかどうかということで、土俗性に目を向けるようになったのである。1970年あたりから日本回帰のムードが高まり、北一輝や柳田国男、さらに、夢野久作がむさぼり読まれることになった。桶谷秀昭が書いていたと思うが、新左翼の活動家が愛読していたのは、マルクスの著作ではなくして、大岡昇平の『花影』であったという。吉野の桜の美しさを愛でることは、カミカゼ特攻隊の若者が潔く散ろうとしたことと、まるっきり同じである。桜のようなはかなさに突き動かされるというのが、日本人が育んできた美意識であるからだ。三島はそれを熟知していたからこそ、新左翼に対しても、心情的な共感を覚えたのだった。思想は相対的であるが、行動に駆り立てる情念は、あくまでも絶対的なのである。
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