草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

石原慎太郎よ橋下徹に平成維新へのパトスを伝授せよ!

2012年04月05日 | 思想家

 日本を立て直すには、石原慎太郎に最後のご奉公をしてもらうしかない。橋下徹の肝煎りで開校した「維新政治塾」の講師を石原が務めることになった。戦後の若者の代表として、石原ほど注目を集めた作家はいない。昭和30年に『太陽の季節』で芥川賞を手にし、一躍時代の寵児になったからだけではない。日本という国家が解体し、アメリカの従属化に入った日本人の苛立ちを、ストレートに政治にぶつけたからだ。日本のサヨクの多くが、戦後民主主義を礼賛したのに対して、真っ向から挑戦状をたたきつけたのである。橋川文三は石原について「深い夢をはらんだ強い政治への憧憬」(『日本浪漫派批判序説』)と位置づけるとともに、政治に向かうパトスに関して、「かつて昭和10年前後の時代閉塞状況において、日本を民族主義的ロマンチシズムの破滅過程に導いた生理衝動」(同)と決め付けたのだった。病身であった橋川は、石原の健康な肉体に、死も恐れぬ行動力を見たのではなかったか。石原から江藤淳が、伊東静雄の「水中花」の詩の一節である「すべてのものは吾にむかひて死ねといふ、/わが水無月のなどかくはうつくしき」を連想したように。そうしたパトスを捨てることなく、石原は政治家として歩んできた。それは誰にも真似のできないことであり、橋下がみならうべきは、まさしくその一点なのである。平成維新を実現するには、それがあるかどうかなのだから。

 
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世の終わり語ったイエスの言葉が身に沁みる危機の時代

2012年04月05日 | 思想家

 こんなことってあるのだろうか。今朝外を見たらば、大雪で車が埋まっていた。会津地方では、今から33年前の今の季節に、やはり春の嵐があって、雪が降ったことがあったが、ここまではならなかった。なぜ覚えているかというと、そのときに私が結婚式を挙げており、ビックリしたからだ。福島第一原発の事故も収束したわけではなく、気を緩めることはできない。しかし、だからといって、絶望したり、狼狽すべきではないだろう。神ならぬ身ではあっても、私たちができる最善をつくすしかないのだ。私はクリスチャンではないが、『マタイによる福音書』(日本聖書協会口語聖書1955年改訳)のなかの第24章4節から7節において、イエスがこの世の終わりについて述べた言葉が、痛切に身に沁みてならない。「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起こり、また地震があるであろう」。永遠の命を得るための、大きな試練として、イエスは弟子たちに語ったのだが、クリスチャンならずとも、そうした終末論的な見方をしてしまうほどに、私たちが直面している危機は、深刻なのではないだろうか。それを乗り切れるかどうかは、あくまでも神のみが知るとしても、ここで私たちはたじろぐわけにはいかないのである。

 
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