八十路徒然なるままに

かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもーーー。徒然草より

原発事故の当時の

2019年03月30日 19時32分23秒 | Weblog

八年前の原発事故の際の、市民へのお知らせの1件。八年前の三月十五日から、三十一日までの間、市民へのお知らせは、手元に残っているのは、72件。16日から19日は、避難をしていた。30軒に配布していた。一件当たり10円のコストで計算をすると、21600円になる。仮に町内会の防災組織が、機能していた場合は、町内に600世帯だったら、432、000円になる。お知らせをコピーするにしても、コピーをするところがなかった。費用よりも、防災組織として、誰が、情報の入手をするかとゆうこと、どのようにして、町内の世帯に伝えるか、大事なことだと思う。市役所へは、自転車を使った。当時は、市役所の建物が損壊、駐車場が満杯、車が使えなかった。当面の考えられる災害は、洪水がある。その時は、二階に避難をすることにしている。在宅のばぁちゃんを、晒の反物を、負ぶい紐にして、「火事場のくそちから」を、発揮して、二階へ上がる。災害がないことを願っている。

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八年前の

2019年03月30日 13時09分30秒 | Weblog

大震災があつた八年前の、29日は、書棚から落下した本の整理をしていた。前日は、ガソリンを30リットル、補給ができた。スーパーへホームセンターへと、当座に必要なものを、買い物にも行っていた。その頃は、隣組には、ひとり暮らしの人や、高齢者世帯もあって、水道の使用にも事欠いていたので、食糧品の配布で、助かった人もいた。災害ゴミの受け入れのことも、市民へのお知らせがあって、徐々に、家の中は、整理が出来ていた。

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初期のデジカメ

2019年03月26日 19時55分39秒 | Weblog
画像は、1997年頃に使っていた。記録は、スマートメディアという、現在のSDカードの倍くらいの大きさ。パソコンに取り込むには、ソフトが紛失したのでダメ。仕事のための、図表や、形や、色などの記録だった。これ以前は、紙にかいたいたものが、これに取って変わった。この機種のあとは、現在のデジカメのような形、レンズが繰り出されるようになった。この機種の後は、現在のデジカメの形になった。そして、パソコンに、簡単に画像が保存できるようになった。現品は、廃棄をした。
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お接待

2019年03月24日 15時52分57秒 | Weblog
写経のあと、お茶をいただいた。羊かん、リンゴと甘柑、菓子が、添えてあった。毎回毎回のお茶なので、ありがたくいただいた。羊カンは、ラップに包んでどうぞで、いただいて持ち帰った。お彼岸前で、肌寒く、一枚多く厚着をしたが、ホッカイロだったなぁと、脇にあったストーブを、抱き抱えたくなるほどで、暖をとった。境内は、参詣の人や、祈祷をしていただいた人で、賑わっていた。木々の枝先の芽は、春はもうちょつと先だと、つぼみが云っているようだった。境内の白梅や、紅梅は満開で、冬の風情は終わりになっていた。
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鉄塔

2019年03月24日 15時14分51秒 | Weblog
福島第一原発から、送電していた送電線の鉄塔?。見回せば、尾根ずたいに、林立している。いわき市の山間にある鉄塔を、「すごく、でかいなぁ」と、見上げたことがある。別のこと。八年前の、三月二十三日は、市役所からのお知らせには、水道水の放射性物質の測定結果で、一歳未満の乳児は、摂取を控えるようにと。ゴミの収集は、週に一回、道路事情で収集でないところもあると。下水道のつまりは、宅地内部は、指定工事店に問い合わせをと。上水道の復旧工事に注力しているので、ご理解をと。安定ヨウ素剤の配布についてと。避難所以外の方々に、ご飯類、飲み物を、公民館で午後4時から配布、近隣の方の代理受領をも願うとか。昨日の出来事のように、思いだしている。
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放射線量

2019年03月24日 14時45分39秒 | Weblog
画像は、NHKのテレビ画面より。毎日、天気予報、花粉飛散のことのあと、放射線量の数値を報じている。値は、体に影響するような数値ではないようだ。先日、いわきから仙台へと、往復走行をした。肌寒い日で、外気は入れなかった。帰り道、道の駅で、味噌ラーメンで、空腹を満たした。アツアツで汗が出た。窓をあけ外気を入れた。案内板に、「二輪車走行不可」の表示。「そうかぁ」で、窓を閉めた。「不可」の案内があっても、数台のグループ、一台、また一台と、二輪車と対向した。「不可」は、その人の判断にまかせるのだろうなぁ、なんて考えていた。要所要所に、線量の数値が、表示されている。外気を断っても、呼吸をしていれば、放射線を吸い込んでいんだっぺぇなぁと。この歳になると、体の細胞は、減少していく。若い人は、成長するので、体の細胞は分裂しながら、増加して成長するので、注意しなければならないのだろう、なんて、またまた、無知の長談義をしました。
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あれから八年

2019年03月21日 19時58分05秒 | Weblog
画像は、八年前のもの。久ノ浜と大久は、福島第一原発から、30キロ圏内。久ノ浜地区は、大津波に襲われた直後に、火災が発生して、翌朝まで、商店街を、燃やし続けた。なすすべもなく、高台に避難をしていた人は、夜になっても、燃え続けるのをみていたという。このお知らせを配布して歩いていたら、「ここは大丈夫ですかぁ」とか、「放射線とは」など、問われたが、答えることはできなかった。別のことだが、この後、八月に、東京の叔父の葬儀にのために、ホテルに宿泊した。大きなホテルで、フロントが六.七人。宿泊表に、住所を記入。表を手にしたフロントマンが、「いわきからですかあ」と。聞くと、久ノ浜出身という。久ノ浜は大変だったが、どうですかぁと、たずねた。実家は焼失したが、親と兄弟は助かった。親戚では、犠牲になった人がいるとだった。やや一年後に、叔母の葬儀があり、またそのホテルに、宿泊した。「いわき出身のフロントマンは」と聞くと、別の所へ移動したという。「呼び出してあげます」だったが、遠慮した。もし会えたら、大震災の報道写真集を、渡すつもりだった。
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平穏はありがたい

2019年03月20日 20時28分55秒 | Weblog
八年前の、三月二十日は、いわきの自宅に戻った日。六日間、避難で世話になった。前日に、車に、15リットル軽油が、補給できて、福島からいわきへの走行に、片道分には、十分だった。画像は、福島で、ガソリンスタンドが開くのを待つ車の列。小生もこの列の最後尾に並んだ。歩行人に尋ねると、前方のスタンドは閉まっているというので、列を離れた。帰路の国道は、車の往来も多く、日々の生活が、平常になったいると、感じた。しかし、原発事故の事は、まだまだ、不安があった。この日あたりから、営業の再開はできないと、判断をした。茨城県の沿岸部や、福島県の浜通りにある商店は、大津波のほとんどが、駄目になった。福島第一原発からら20キロ圏内の商店は、避難をして、全部だめ。厳しい現実になっていくと、覚悟をした日でもある。
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八年前のメール

2019年03月17日 16時08分08秒 | Weblog
画像は、八年前の三月二十一日に、避難で世話のなった礼を、メールでした。当時の三月19日に、軽油15リットルを補給できた。自宅、いわきへの片道分。ばあちゃんの介護の用品は、十分だったが、布団から、車椅子やポータブルトイレには、リフトが無いので、布団に寝かせたままだった。車椅子には、男手二人で、ようやくできた。急いで戻りたかったのは、ばあちゃんを、普段通りに、日中車椅子で過ごさせることだった。また、当時は、大きな余震で、「おっかねぇなぁ、おっかねぇなぁ」と、ベットの端を握ったりしていた。当時は、電気とガスが使えた。水道は、使えたり使えなかったり。トイレの水は、風呂に貯めたのと、少し離れたところにある古井戸からくみ上げてきた。ばあちゃんの洗濯物も、洗えた。メールを読み返すと、昨日のことのようだ。
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天災地変のあと

2019年03月15日 15時00分51秒 | Weblog
八年前の、三月十五日は、昼過ぎに、家族で相談をした結果、福島でも、電気が回復したので、当面は生活できるからとの誘いもあって、避難をすることにした。午後1時ころから、生活用品、まず、特に介護に必要なものを車に積んだ。車いす、ポータブルトイレ、介護用のマット、介護食、おむつ用品、詰め込んで、午後16時に出発した。天変地変のあとの、原発事故は、見えないものの恐怖、得体の知らない恐怖、原発は一基、また一基、また一基と、爆発が続いての恐怖。テレビの実況映像は、10階建てくらいのビルが爆発する。黒煙が吹き上がる。40キロ先の対岸の火事だっぺぇなんてのんびりしていたが、見えない放射線の恐ろしさが報じて、平々凡々の日常が、一変した。数時間おきの、余震の恐怖もあった。日々防災と、減災を念じるしかない。
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当時のメール

2019年03月12日 12時40分04秒 | Weblog
東日本大震災は、福島県の浜通り地区は、原発事故が最大の事柄となった。当時の十四日は、原発の安全神話で、遠い地区のことと思っていた。しかし、15日になると、見えない恐怖が襲ってきた。外は車の騒音が無く、人影もない、ガソリンスタンドは、全く駄目。テレビの報道も、過酷な状況になったと、報道するようになったと、記憶している。翌十五日になって、福島に、避難してくるようにと。必需品を廊下に並べ、一気に車載をして、午後3時過ぎに出発。約1時間の行程の道の駅「ひらた」をめざした。ところどこの渋滞で夕闇が迫った、2時間遅れの夕刻6時過ぎに、着いた。駐車場は満杯、ぐるぐる回って、「出るよ」の合図をしてくれた場へ入った。持参した冷たいおにぎりとお茶で、昼食。発車して、郡山を経由して、小雨で光る道路を一路、福島に向った。福島近くで、道路が崩壊、知らない迂回路を一応JR福島駅をめざした。避難に世話になる弟が、携帯で、道案内。小雨の中、幹線道路まで、出迎えていた。旅装をほどき、暖かい夕食をご馳走になった。強い余震は、何度も何度も、ゆれていた。画像は当時、妹等に送信したもの。
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八年前の

2019年03月10日 14時47分28秒 | Weblog
画像は、八年前の、福島民報より。原発事故があった当時は、40キロ先のことだぁと、対岸の火事を見ているようだった。テレビの報道を、見入っても、事の重大さは、思ってもいなかった。市民へのお知らせを取に行く途中は、車の往来もほとんど無い。人の往来も無く、皆な家の中に居るんだぁなあと、のんびりしていた。車の燃料を補給しておくかぁと、行くと休業。別の所へと走っても休業。えぇっと思い探しても全部休業。ただ事ではねぇなぁと、不安が増していた。原発事故の三月15日は、当いわき市の空間最大放射線量は、23.72マイクロシーベルトだったと、後日に知った。あの頃の事は、思い出したく無い。忘れてはいけないことでもある。
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あの時の放射線量

2019年03月09日 19時58分02秒 | Weblog
東日本大震災ら、八年になる。画像は、原発事故あった日から、五か月がたった日の、小生の居住地の近隣の放射線量の測定値。測定機を借りて測定をしていた。平常値は、0.05マイクロシーベルトなので、不安があった。当時の福島県対策本部発表の測定値、3月21日は、5.04とある。その表には、胃のⅩ線集団検診一回当たりの放射線量は、600マイクロシーベルトなので、健康に影響しないレベルと考えられるあった。いわき市災害対策本部からのお知らせにも、健康に影響を与えない値なので、冷静に行動するように、だった。これらは、隣組と近隣に配布して知らせた。町内会には防災組織があったが、組織からの連絡は、一切なかった。独自で、市役所に行き、防災会の名が記されているヘルメットで、挨拶すると、「ご苦労さまです」と、通行手形だった。
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地盤沈下

2019年03月06日 20時20分15秒 | Weblog
画像は、震災の後のいわき市の薄磯海岸、海水浴場。震災前は、画面いっぱい、白い砂浜がひろがって、海水浴シーズン中は、海の家も建ち並び、遠浅で、波も穏やかで、大いににぎわっていた。海水浴シーズン中の、海水浴客の安全を守る監視塔は、波に洗われている。八年前の大地震で、1メートルか2メートルの地盤の沈下があったと、記憶している。大津波は、波返しの堤防を越え、住宅地を襲い、この地点から151メートルの地点で8メートル51センチの高さだつたいう。今はただ、大地震が発生しないことを願うだけだ。
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災害時の情報

2019年03月04日 14時41分04秒 | Weblog
画像は、八年前の震災時に、隣組に配布したもの。右は、市役所からのお知らせの表題。班員と近隣へなので、一ページあたり、30枚。一回に180枚を印刷した。印刷は会社の印刷機を使った。ページをそろえホッチキでとめる。配布して歩いた。顔が合えば、立ち話。普段は挨拶くらいだった。町内には、防災組織があったが、全く機能しなかった。震災前の町内会の役員会の時に、防災の意識を高めるのに、支給されているヘルメットを、役員に配布するようにと、申し入れたのが、役にたった。情報を得るのに、ヘルメットは、通行手形で、情報ありますかと問えば、ご苦労さまですだった。今は、あらゆる機器を使って、連絡がある。もう災害の発生は無いだろうと、高をくくっている。
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