八十路徒然なるままに

早稲田かりほすなど、とりあつめたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。徒然草より

当時のメール

2019年03月12日 12時40分04秒 | Weblog
東日本大震災は、福島県の浜通り地区は、原発事故が最大の事柄となった。当時の十四日は、原発の安全神話で、遠い地区のことと思っていた。しかし、15日になると、見えない恐怖が襲ってきた。外は車の騒音が無く、人影もない、ガソリンスタンドは、全く駄目。テレビの報道も、過酷な状況になったと、報道するようになったと、記憶している。翌十五日になって、福島に、避難してくるようにと。必需品を廊下に並べ、一気に車載をして、午後3時過ぎに出発。約1時間の行程の道の駅「ひらた」をめざした。ところどこの渋滞で夕闇が迫った、2時間遅れの夕刻6時過ぎに、着いた。駐車場は満杯、ぐるぐる回って、「出るよ」の合図をしてくれた場へ入った。持参した冷たいおにぎりとお茶で、昼食。発車して、郡山を経由して、小雨で光る道路を一路、福島に向った。福島近くで、道路が崩壊、知らない迂回路を一応JR福島駅をめざした。避難に世話になる弟が、携帯で、道案内。小雨の中、幹線道路まで、出迎えていた。旅装をほどき、暖かい夕食をご馳走になった。強い余震は、何度も何度も、ゆれていた。画像は当時、妹等に送信したもの。
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