またまた、サツキの花。数日前に降雨があったので、ほっぽいておいた。好天が続いたので、水をやらねばと、眺めてみた。こんな花の木があつたかぁだった。古来の花のように思える。地植えすると、勢いがつくのかも。古風の花を見るのもいいかぁ。
百匁柿の苗木を、ホームセンターから、買ってきた。猫の額ほどの空き地に植える。もともとは、先祖様が植えた百匁柿の木があった。大木になってしまったので、切り倒した。一回目は、先祖様に申し訳がないと思い、苗木を買って植えておいた。雑草刈機で、幹を傷つけてしまい、枯れてしまった。今の時代には、百匁柿なんて、実っても、食べることはない。子どもの頃の思い出は、両手で持つほど、大きかった。実の頭の方に、蜘蛛の巣状に、黒い線が入る頃が、食べごろだった。皮をむいて、二つ割にすると、ごまがいっぱい入っていると、甘みが強い。そんな懐古の意味で、二回目の苗木を植える。この苗木から、一つでも二つでも、実が取れれば、先祖様に礼ができるなぁと、思っている。
盆栽としては、手入れができない。盆栽だったのを、二年、地植えにして、花を見ようと、また、鉢植えにした。古風の花で、白色の花弁に、紫系の紅色が、一筋入っている。以前は、枝一杯に花をつけていた。盆栽として眺めてみたいが、地植えしておくのが、いいようだ。五鉢あるが、あと三鉢が、つぼみが見える。咲き終わったら、地植えにする。「年々歳々花相似たり---」というが、花の数は少なくなっている。幹が古木状になり、一枝しか勢いがないのもある。枝継ぎでもして、みようとも考えている。
境内は、初夏の風情で、参詣の人も数多く、木立をふるわせる梵鐘が、響きわたっていた。本堂から、読経と太鼓の音が、長い石段を伝わっておりてきた。祈祷が終わって、話し声とはしゃぐ子どもの声もにぎやか、木々の緑も鮮やかな、のどかな昼下がりだった。法話は、「不邪見―ふじゃけん」。物事を正しく判断をすること。法のルールを守る社会で、自由があるから、責任もある。日々は、言葉使いに注意をして、相手をキズつけないことが、大切。毎回、はぁーっとする法話。
三月の法話。不瞋恚。読みは、ふしんに。瞋の意味は、目を見開いて怒る。恚は、腹をたてる。要するに、こんなことをしてはダメ。法話では、日常生活は、にこやかに暮らす。自分に正直に暮らすということ。周りの人には、真意をもって、伝えるのが大事という。笑顔の裏には、悲しみや怒りがあるかもしれない。周りの人の気持ちを察することで、自分にも、幸いが与えられる。瞋恚という文字は、普段は使わない。今月も、「目からうろこが落ちる」。
欠陥があるから、修正してやるというようだ。修正の料金は、半額でいいと。安いなぁと、飛びつくかぁだが、やめた。ネット通販を、あちこちと、探していた時、ばあぁぁーと、画面に現れた。その後は、これが、出る。この歳では、なんのことやら分からない。ほっぽっておく。昔人なので、くわばらくわばらと、逃げる。
はるか昔ぁーし、40年前に書いたもの。4月3日に、掲載をしたものの後に書いた。当時の、書道会の本部の展覧会に出品した。直接指導してもらっていた先生が、本部の会長先生に、評を願った。会長先生の評は、「この人は、これ以上のものは、できない」だった。書き始めたころ、七枚書いたうちの一枚だった。そんな思い出がある。最近、暇つぶしに、書家の石川九楊著の「書を学ぶ」を、ぺらぺらめくってみたら、「表現演習」に、「落書きのすすめ」がある。それから引用すると、「落書きこそ書の出発点。落書きによって、緊張がとれ、落書きに目をとめて、いいじゃ、ないかぁと思えるようになればいい」とある。また、「゛書が上達するための秘訣を、ひとつだけ挙げれば、とにかく、臨書であれ、落書きであれ、自分の書いた文字を、見てみて、見抜くことである」とある。はるか昔ぁーしを、懐かしがりました。
この画面が、毎回毎回表示する。本物なのか。はたまた、別のものか。先祖様が、自作した、お社が駄目になったので、ネットで、小さいお社を探していた。大分まえに、それらしきのがあった。お気に入りに登録をしたら、その時、どばーっと、画面に現れた。名だたる通販サイトに登録してあった。訳が分からないので、まあ、危やふきに、近寄らずだぁ。
昔し。習字の塾に十数年、通っていた。そのあと、パソコンを導入し、社業に専念。座興で、マウスで文字を描いた。時を経て、手元にあった色紙に、漢字を書いて、拙いブログに載せた。こんなことから、趣味というほどのものではないが、文字に、ちょっと興味がある。書家の石川九楊著の「書を学ぶ」に、「落書きこそは、書の出発である」とある。「自分の落書きの中に、ふと興味を覚えたり---」とある。また、「落書きは、書の重大な秘密を握っている。落書きを楽しむことは、書の根幹を握っている」ともある。画像は、かれこれ、十年前に、退屈まぎれに、ブログに載せようと書いたもの。さらーっと書いた、落書きだぁと、ながめている。今、ブログに載せたものを主にして、小冊子を作る思案をしている。「ヘボ筆字、ぽつぽつ記」なんて、誰が目を通してくれるのかぁだが、半生の楽しみをするのも、いいかぁでいる。
四月の始めに、久しぶりに外へ出た。きょろきょろと見回していたが、「家ちゃ帰えっぺぇ」だった。ある日、眠たいようなので、横向きに、ヘルパーさんに、寝かせてもらった。「じっちさんと、ばっはぁさんとこへ、行くんたぁ」と。「あの世さ行くんだぁ」と、寂しげにしゃべっている。こんな時は、「みちこぉって、ばっぱぁさんが来るから、待つってなぁ」と、声をかける。「じっちさんは、千治げぇ、ばっぱぁさんは、おこうって、いうのげぇ」って、相手をする。「あの世さ、行くべぇ、あの世さ行くんだぁ」と、繰り返している。「ばあちゃんの家は、ここだよぉ。みんな居っかんねぇ」と、相手をする。こっくりと、うなずいてはいるが、目に涙をにじませて、寂しげな顔をしている。「みんな居っから、少し眠むりなぁ」と。頭をなででやる。時が過ぎて、後で聞くと、すうすうっと、寝息をしていたと。八月に、百四歳になる。親や兄姉に、何か助けを乞うっているのかも。