八十路徒然なるままに

かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもーーー。徒然草より

目に見えないもの

2020年03月30日 13時23分51秒 | Weblog

全世界中は、目に見えない新型コロナウイルスとの、戦争中と報じている。日本の各地も、見えないもの恐怖をしてる。先の2011年の原発事故で、放出された放射能というのも、目には見えない。自然界に、存在する放射能の線量を、測定することはできていた。原発事故が発生した時の、放出した放射線量で、住民を避難をさせる範囲や、手順は、定められていたと、読んだ。原発事故から、九年が過ぎても、想定外の事故が発生したならば、どのくらいの範囲で、人が住めなくなるのだろうか。放射線は、「閉じ込める」と「冷やす」とで、収まっているのだろう。今回の、新型コロナウイルスは、全世界に、生物として、生息して、増殖しているのかなぁ。寒暖とか、湿度の、多い少ないという、気象条件では、死滅しないのかなあ。素人が考えても、しょうがねぇことと、自嘲している。

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ある日の放射線量

2020年03月28日 13時34分40秒 | Weblog

画像は、テレビの画面から。拙いブログに、避難のことを書いた。いわき市からの、原子力防災の手引きを読むと、市内の線量が、毎時20マイクロシーベルトを超える状況が、24時間以上継続したときは、市外への避難を指示とある。原発で、重大事故が発生して、放射性物質が拡散の状態になる。あの時より、ひどいことになるという状況は、原発はどのような状態になったときなのかなぁ。現在も、不安定な状態なのだろうから、もしとか、万が一とかを、考えると、ぞおーっとする。

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三月の法話

2020年03月26日 12時48分09秒 | Weblog

冬の間は休みで、今日が今年最初の写経会。境内は、午前の祈祷が終わり、にぎやかさが、終っていた。聞くと、子どもさんを伴っての、参詣が多く、にぎやかな話し声が、響いている。駐車場には、県外ナンバーの車が、数台。水石山と閼伽井嶽薬師へは。磐越道のいわき三和インターを降りると、信号機一つ目を左折して、つづら折り折りの山坂を上っていく。この道は、かなり急な坂道なので、走行は、かなりの注意をする。写経会は、勤行式ではじまる。法話は、今年は、十二支のはじまり、庚子年で、庚は更。すでに何かを始めて入れは、一度立ち止まって、状況を見ることも、必要な年になる。今回は、お釈迦様の修行のひとつの、[八正法]。一つ目は、正しい知識と情報を得る。二つ目は、正しい考え、善悪の判断。三つ目は、正しい言葉使い。四つ目は、正しい行い。周りの方にする。五つ目は、正しい生活。規則正しい生活で、免疫力を高める。六つ目は、正しい努力。ひとりひとりが、心掛ける。七つ目は、正しい意識を持つ。八つ目は、正しい精神の、話だった。毎回毎回、薬石の言を、拝聴している。境内は、早春のたたずまい。見上げた桜の花の蕾は、ぷっくりと、ふくらんでいた。

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放射線量

2020年03月25日 15時31分38秒 | Weblog

先日、常磐自動車道路を北上した。表示版に、この地点の放射線量が、0.1マイクロシーベルトと、あった。福島第一原発から、確かではないが、ほぼ20数キロになるとおもう。原発立地の地区を通過した地点では、3.0とも、表示があった。走り抜けるだけなので、そおかぁと、見ていた。平常時の自然界には、0.04マイクロシーベルトの放射線があった。この値は、原発事故があった時、福島県内各地方、環境放射能測定値報に記載されている。添え書きには、胃の✕線集団検診1回当たりの放射線量は、600マイクロシーベルトと、書いてあった。当時の、いわき市の3月21日の、測定値は、5.04と、報じていた。当時の三月十五日の午前四時は、23.72マイクロシーベルトを観測したと、報じている。福島第一原発から、南南西、約43キロの地点。生活するには、何の問題もない。画像は、前方にも、後方にも、早朝なのでか、今のコロナのことなのか、走行する車はなかった。デジカメを胸にぶら下げ、固定して、連写をした。画面に、うまく収まったのは、この一枚だけだった。

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「廃炉を知る」より

2020年03月25日 13時58分48秒 | Weblog

福島第二原発は、廃炉が確定したとある。原発建屋の大きさは、第一が、高さが約59m。第二は、、約76mとある。原子炉格納容器の大きさも、使っていた燃料も、第二の方は、格段に多い。廃炉完了までは、40年を超えるという。いやはや、大したことだぁなぁ。第一原発が運転を開始したのが、1971年[昭和46年]、以後、約29年間にわたり、関東圏へ、電気を供給したとある。

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原発は未だに

2020年03月25日 13時09分56秒 | Weblog

「廃炉を知る」、3月15日号が、配布になった。過酷事故になつた、福島第一原発の、1号機、2号機、3号機は、まだまだ、不安の状態のようだ。放射線量は、2号機は、「内部調査で、予想より放射線量が、低いので、燃料デブリの取り出しを、始める」とある。1号機は、放射線量が、極めて高い。2号機は、放射線量が、比較的高い。燃料デブリの状態は、調査中とある。工法の検討を進めるとある。現在のままの状態から、廃炉のための工程が進まるのを願うだけしかない。もしも、燃料デブリの取り出すまでの間に、過酷な状況になれば、避難ということに、なりかねない。市外への避難を指示という状態は、「市内の線量が、毎時20マイクロシーベルトを超える状況が、24時間以上継続」と、いわき市からの広報にある。避難先は、基本経路で、135km先の、茨城県の守谷市守谷高校になる。こんなことにならないよう、願っている。

 

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日の出

2020年03月22日 19時33分46秒 | Weblog

画像は、今朝の七時30分頃。右側の奥は、「よつくら道の駅」。先の東日本大震災の時は、津波が襲った。震災前は、このあたりから、海が見えていた。画像の中央の奥には、防潮堤が築かれた。市役所からの、「いわき市の記録」によると、この地点から左奥へ、かなり高さで、浸水をしたとある。早朝に出かけたのは、墓参のためだった。六号国道を北上して、「常磐広野インター」から、常磐自動車道を使い、宮城県仙台市に向かった。春と秋の彼岸にだけ、遠方へ、走行をする。往復で、約310キロ走る。早朝でなくてもいいのだが、前夜に、早朝に目覚めした時点で、出発するとした。五時半ころ、目を開け、どうするかなぁと、考えた。行こうと、起き出した。薄曇りの雲が、淡い朝焼けになっていた。この分では、帰途は、雨なのかなぁと。帰途の仙台市から、自動車道を走ると、ぱらぱらと降りだしただけだった。

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手作りのしおり

2020年03月16日 13時15分14秒 | Weblog

拙い冊子に挟むしおりを作った。押し花用のを、購入した。しおりの台紙は、結構使う人があるようで、店には在庫がしたある。押し花を見たことがない。裏側には、「徒然草」の一節を、コピーをして貼った。第十九段で、移り変わる季節から。「五月、菖蒲ふくころ、早苗とるころ、水鶏のたたくなど、心ぼそからぬかは。六月―みなづきーのころ、あやしき家に、ゆうがおの白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月ーみなづきー祓またおかし。七夕まつるこそなまめかしけれ」。ちょっと、きざっぽいかなぁ。はるか昔しに、ぺらぺらとめくっていた。今の、季節の移り変わりは、なんか激しく変化をしているように、思える。太陰太陽暦の時と、時代が違うし、生活の環境も変わっている。今年は、例年比べて、好天や、荒れた天気が続くかもしれない。それはそれとして、しおりは、今まで、四文字の漢字が、二種。喝を一枚、感謝を一枚を、作った。

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大震災当時の食料等の配布

2020年03月10日 19時07分51秒 | Weblog

画像は、九年前の3月21日のお知らせの一枚。ペーパーには、避難所以外においても、「一般市民向けの食糧等配布」する、お知らせ。この時は、放射線の安全性、放射能測定値、食料等の配布、断水の復旧の見込みと給水場、ヨウ素剤の配布、救急外来の実施、医療に関すること、計8枚を、印刷して、綴った。コピー機と印刷機のフル稼働をした。放射能測定値、139報によると、福島第一原発から北西約61キロの福島市では、7.47。北西約40キロの飯館村では、12.10と。南南西43キロのいわき市合同駐車場で5.04と、報じていた。健康に影響しないレベルとある。配布した中に、ヨウ素剤配布のことがある。当時の3月12日に、原発事故で、20キロ圏内の知り合いが、ヨウ素剤を握って、逃げてきたと言うので、「ええっ、ヨウ素剤 ?」と、驚いたものだった。先月から、コロナウイルスの恐怖が、続いている。原発事故からの放射線より、ひどい状況のようだ。

 

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避難をした日

2020年03月10日 13時58分39秒 | Weblog
前掲の画像の右側は、当時の3月15日、0:20と、記入をしてある。隣組に配布を終わり、原発がおかしくなっているようで、いわき市災害対策本部からも、不要不急の外出は控えるようにとの、知らせがあつた。原発の事故が大きくなったら、どうなるのか、まったく理解していなかった。街の中は、人影もない。車の燃料を捜してみたが、どこもダメ。往来する車もない。ゴーストタウンだぁと、不安になった。水をどうぞという会社に行くと、これから非難をするというので、びっくりしたものだった。連日連夜の、余震の揺れに、恐怖を感じた。原発の状況は、テレビが報じていた。原発は安全だぁ、55
キロ先のことだぁでいた。でも、急遽、非難することになり、まずは、介護用品のポータブルトイレ、車椅子、マットレス、おむつと、食べ物を車載をして、午後4時過ぎに、家を離れた。
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時は巡って

2020年03月10日 13時18分50秒 | Weblog

思い出すたび、気が滅入るする、大震災のあの日がくる。画像は、当時の、3月14日と、15日に、隣組に配布をした、市役所からのお報せの資料の表紙。市役所に、資料を取りに行き、戻って、それぞれの資料を約30枚をコピーをした。その間に、手書きをした。当時は、町内会の防災組織があったが、全く機能をしていなかった。当時の町内会の会長が、給水の袋をぶら下げて、戻ってきたのをみて、「どこで、給水しているのぉ」と、問った。防災会の会長なのになぁと、呆れてしまつたものだつた。小生が町内会に携わっていた時に、せめてヘルメットは、配布するべきと、強く申し入れたものだった。このヘルメットが、通行手形で、市役所に行くと、「ご苦労さまです」と、ねぎらわれた。連日、余震が続き、大きくならなければいいがなぁと、案じていた。

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いわきの伝説、安寿と厨子王

2020年03月05日 14時40分33秒 | Weblog

画像の絵札は、鈴木菜穂子さんが描いた。「ふるさとが恋しい安寿と厨子王」は、森鴎外の[山椒太夫]の物語の、始まりと終わりの部分が、いわき市金山町、JR泉駅と植田駅の、ほぼ中間点の地に、伝えられている。東北地方の乱れを沈めた功労によって、祖父の平政氏が、岩城判官と名乗り砂鉄工業を興したという。しかし、京都の警護をおろそかにしたという罪で、九州に流されたと。子の政道が、二代となったが若かったので、後見役に村岡重頼を付けたと。この村岡重頼が謀反を企んでいた。政道が成人して、妻を信夫の庄より迎え、安寿と厨子王をもうけ、時は流れて、安寿は13歳、厨子王が11歳になった春のこと。後見人の村岡重頼が、自分が判官になろうと、機をねらって、花見に誘い、政道を殺害した。幼い安寿と厨子王にも、魔の手をのばし、それを察した母が、召使い一人と、四人で逃げ出した。ここからは、森鴎外の山椒太夫の話しにになるという。厨子王は、文武に励み、家来を引き連れ、佐渡が島で、目の見えない母と再会して、岩城に着き、謀反人の村岡重頼を討った。父の政道と祖父の正氏、姉の安寿の霊を慰めた。その地が金山町。安寿が生前愛用していた遺品を、埋めた地を「姫塚」といわれ、その塚には、地蔵尊が祭られているという。安寿と厨子王の母の里は、福島市弁天山椿館という。いわき市内郷高坂町には、安寿し厨子王の身代わり地蔵があるという。平政氏は、平将門の孫という。鴨志田義康著から、千年前の話と、読みました。

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いわきの伝説50選

2020年03月05日 13時00分16秒 | Weblog

画像の、[いわきの伝説50選]から、「湯ノ岳の霊泉」と、「山の不思議、絹谷富士」の、小冊子に綴りこんだ。表題の本は、平成六年、1994年の刊、いわき地方に伝わる昔話を、収録したものをまとめている。地元の夕刊新聞、「いわき民報」に、平成四年の七月から、仲立ちがあって、掲載されたという。それを、一冊にまとめて、発刊したものとある。いわきの伝説といえば、「平城の丹後沢の人柱」、「閼伽井嶽の竜灯」、「勿来の関と八幡太郎義家」が、有名と思う。「永崎海岸のへそ石」は、一昨年と思うが、NHKのBS放送の「こころ旅」で、放映された。ひとつひとつの話は、現地に出向き、場所の確認をしたり、伝説を話す人の家を訪れたりして、収集をしたとある。現地には、最寄りのJR駅からタクシーに乗り、運転手さんに、場所の名を云うと、すぐに解ると云っていた。現地の写真を撮り、話に添付する。その地に、まつわる話しも、現地の付近に住んでいる人に聞き、確認もしたという。伝説は、上記のほか、「小川江筋と蛇塚」、「下高久の女石ばあさん」、「篭場の滝の水中御殿」、「安寿と厨子王」、数多くある。

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