八十路徒然なるままに

かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもーーー。徒然草より

原発、地震、津波、雷、火事、親父。

2011年04月30日 14時48分45秒 | Weblog
昔からのことわざに、地震、雷、火事、親父といわれた。世の中で、恐ろしいものの、順番を、現代はこのように変わるのか。末尾の親父は、とうの昔にいない。今の小生は、親父の威厳もなく、濡れ落ち葉の、状態だ。三月11日の災害で、いわき七浜が、壊滅状態だ。海岸地帯には、知り合いも多い。大津波で、行方不明の名簿に、親しい知人の名がある。家族は元気でいるのか、見舞いの電話をするにも、気の毒に思うので、まだしていない。家も津波で流されたのかも。その家に行く道路は、通行止めになっている。画像は前回に引き続いて、大分前に、いわき市から配布された、防災のしおりの中の、一ぺ-ジ。小生が居住している、町内会にも、数年前に組織ができた。今回は全く機能していない。地震は突発なので、発生した時に、どのような行動ができるか。現に、小生、大地震の発生時は、車でバイパスを走っていた。バイパスは、通行不能になり、一般道路にでたが、小名浜から、2時間かかって、帰着した。その間に、火事が発生しなくて、安堵をしたものだった。仕事もあるので、四六時中、町内にいるわけではない。今回、町内会に、防災組織があるのだから、道路上でもかまわないから、集合の合図でもあれば、組織の機能が働いたのかも。上部から、なにもなかったから、夜になって、市役所に、原発の情報があるかもと、行ってみた。大分前に、市から配布された、「防災のしおり」は、防災の意識に、役にたったと、今も思っている。
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災害は忘れたころにやってくる

2011年04月29日 00時34分35秒 | Weblog
今回の、地震、津波、原発の事故は、まさしくことわざ通りになった。画像は、いわき市で、阪神、淡路大震災のあと、市民に配布したしおりの表紙だ。右側の「災害時の必需品」の、ペ-パ-には、「災害が発生して、救援体制が整うまでは、3日間かかる」っと、記載してある。その3日間は、自力で乗りきるための、必需品が記載されている。小冊子を、隣組の全家庭に、コピ-をして、配布した。大分前のことだ。今回は、小生が住んでいる所は、家屋の倒壊とか、火災はなかった。しかし、原発の事故が発生して、それの対処する方法はない。自己判断しかない。地震発生後には、隣組員に、原発については、テレビを、注視してるよう、書き添えた。小所帯の隣組の方々には、ちょつとだけだが、連絡事項の、伝達はできたかなぁ-って、思っている。震度3の余震には、おどろかされる。たまあぁ-に震度4の時がある。「備えあれば憂いなし」。防災のしおりを、もう一度、繰り返して、読んで、よく理解することにしょう。
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避難で世話になった所から帰る日

2011年04月27日 16時35分05秒 | Weblog
最低限の、日常品を積みこんだ。仕事で使う車なので、かさばる寝具も、介護に使うマットレスも、積みこめた。車の軽油は、13リッタ-を前日に、給油できたので、残量とで、200キロは走れる。福島から4号国道を南下、途中、「軽油」と看板を掲げていたスタンドがあり、満タンに補給ができた。ひと安心で帰路を急いだ。49号をいわきにむかい、道の駅、ひらたで、ひと休み、暖かい山菜そばで、空腹を満たした。ばあちゃんは、車の中で、冷たいお茶と、おにぎりで、昼食にした。道の駅も、原発の心配もあるので、早終いになる。道の駅「ひらた」をでて、いわきのまでの距離の表示板を見て、ほっとした。いわきに方面に行く車の数は少ない。磐越自動車道は使えない。すいすいと、走れた。平に入って、避難で世話になった所の兄弟が、避難をしていないのは、知っていたが、電話が通じないので、、声をかけるよう、たくされたので寄る。目に見えない放射線を心配するだけで、「どうでした」って云うだけだ。勿論、元気だ。今回の原発のことで、即、体に異常は出ないのは、知っているのだか、不安をつのらせてしまう。旅装をといて、すぐに市役所に、広報の資料を、取りに行き、コピ-をして、22軒に配布してまわる。* 食事で困っているひとへ。* ごみの収集。* 水道の復旧。* 給油所一覧。* 放射能測定値。その他7枚の広報だった。当いわき市には、80箇所の避難所があり、津波の被害を受けた人々が避難をしている。原発からの避難してきた人々もいる。当町内会には、自主防災会が組織してあるが、ただ紙に組織があるだけ。町内会からは、給水場所とか、食事の配布の場所などの、連絡もない。以前に、町内会に携わっていたとき、災害時の情報の入手の方法を聞いたが、返答ができなかった。小生は、個人的に、市からの防災について、資料を残していたので、ちょつとは知っていた。四月になって、町内会の総会があったが、小生には、連絡がない。おかしな町内会だと、とうの昔にあいそをつかしている。
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原発からの避難三日目

2011年04月22日 15時06分44秒 | Weblog
三月十七日。ガソリンを求めて、さ迷っていた。最後尾につくのをやめた。避難で世話になったのが、ついこの前のように思い出す。このいわき市には、原発から逃れてきた人々と、大津波の被害にあった人々が、まだまだ、避難生活をしている。普通の生活をしていいと、報じている。浜通りを足場に、商いを生業にしていれば、今後何年もの間、商いが成り立たない。収束か、終息か、悩みがつきない。原発は、巨大な構築物。それが想定外の破壊力で、ひとたまりもなく破壊された。懸命に踏みとどまっている。その懸命さが、早く報われるよう、願っている。
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原発の終息は、まだ先のようだ。

2011年04月19日 14時21分59秒 | Weblog
近所の神社の、狛犬。大地震で、境内の石塔もごろりと、崩れている。今日は雨。原発の涙雨か。悪いなりに落ち着いているのか。当地の四重苦は、電気を湯水の如く使っていた戒めを、まざまざと見せつけられたのかも。原発より20キロ越えのところに、火力発電所がある。この火力発電所を、十数年前に、見学したことがある。一通りの説明を受けたあと、轟音とどろく、巨大なタ-ビン室を見学した。轟音は耳をつんざき、タ-ビンの半円は、背丈の数倍か、長さは、ゆうに100メートル以上もあったかと、記憶している。発電を、コントロールしている、数値のモニタ-パネル、刻々と変化する気象や、社会の動き、人々の行動の予測とかを入力して、発電する量を決めるとか。その数値を、モニタ-画面に、グラフにしたものを見た。門外漢の小生、パソコンを使っていたが、予測を数値にするのに「ほおぉぉっ」っと、驚愕していた。一緒に見学した人の中に、精密鉄鋼工場で、電気を大量に使う社長さんは、電気の説明に、真剣に訊ね返していたのを、記憶している。今回の、原発の、構築建て屋も、巨大なのだろう。なんせ、関東地方に送電をしているだから。今回の、大津波という自然の力には、最高の叡智も、押し流されてしまったのか。しかし、まだ最悪ではない。最悪の一歩手前で、踏みとどまっているのかも。残された一歩を、懸命に守って、終息に、最悪を回避するために、懸命に励んでるのを、忘れない。きっと最悪は、脱し出来ると信じている。大変失礼だか、狛犬の睨みに願ってみた。
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地の怒りまだ治まらず。

2011年04月12日 19時01分20秒 | Weblog
当地を震源とする、地の怒りは、安眠をゆさぶりうごかしている。昨夕と今日の午後は、もうないだろうと、安堵している様を、あざ笑うように、怒りたけって家屋を、ゆさぶっている。ガスと電気は、通じているので、助かっている。深夜には、給水を受けに行く。これしかないって、使う水に、普段の水の使い方を、反省している。いずれ、地の怒りも、機嫌を直してくれると思う。当地を含め、原発のある町村の人達は、目に見えない、恐怖にかられいている。原発事故の、レベルを7に引き上げたと、報じている。海の景勝地、いわき七浜は、大津波で、壊滅状態だ。震災直後は、地の便がいいのか、各社の報道陣が、多数取材をしていたという。それが、原発の水素爆発を驚き恐れ、「蜘蛛の子を散らすよう」に、消えてしまったという。そうゆう話しなのかどうかは、知る由もない。地震後、街から、人影もない,車もぱらぱらな事実を見た。放射能にあまりにも無知なので、のんびりしていものだ。事故の原発から、50キロ離れているのだが、安閑としていられない。テレビの報道では、各地で復興が、始まったと報じている。事故の原発近隣の、町村では、新たに避難を促すように、報じている。復興どころではなく、何年も帰られないかもしれないと云う。事故処理に従事している人々には、感謝している。強い放射線との戦い、見えないものへの恐怖は、計り知れない。何時、突然襲う、地の怒りへの、恐怖もある。恐れおののいているのに、こんな画像はないだろうだが、ご容赦を。
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大地の怒りがまだ治まらず

2011年04月09日 11時30分55秒 | Weblog
折角復旧しはじまったかと思いきや、大きな余震だった。原発も悪いなりに、落ち着いてきたのか。日夜、懸命の作業に感謝している。避難二日目の16日、疲れと脱力感で、終日テレビを睨めていた。車の燃料の補給に、福島市内を走ったが、どこも駄目。福島市の市役所に、訊ねに行った。「事情はよくわかるが、どこのスタンドとは分からない」。「もしかして、小さい通りでも、給油できるかも」って。自主防災会の文字が入ったヘルメットは、通行手形のようなものだ。いわき市にも、自主防災会が、多数設立されて、小生の居住地には、ようやく昨年ヘルメットが渡された。十年も前に、町内会にちょつと携わった時に、防災用具を一括保管ではなく、役員に渡して、役員交代には、もうし送りすればと、提案をしたのが、昨年実現をしたものだ。当時、いろいろと意見をもうし述べたが、異端児扱いだった。上がやることに、とやかく言うなっていう、雰囲気でなので、この町内会は、形だけの会なのだろうっと。防災に興味を持ったのは、仕事で気象に、興味を持ち、関連して、地震と、洪水。洪水に関しては、この地は、夏井川とか、新川とかが溢れた場合は、2メートルの高さでまで、水没すると、市から何年も前に、マップが配布になった、記憶がある。地震は何時発生するかは、予測できない。洪水は、監視カメラ、水量が、情報として流れる。それで判断ができる。町内会の、一方部を担当していた時は、折に触れ、洪水や、地震に関することを、コピーして配布した。今回の地震や原発のことなど、町内会で、検証するべきと、スカスカの脳で、考えてみたが、今の所、予定はないらしい。この町内会は、マネジメント出来ない会だと、とおの昔から、あいそをつかしている。画像は本文と関係のない、大昔の鉄道会社の仕様図なのか。手元にあったものだ。
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風評にありがた迷惑

2011年04月07日 19時36分34秒 | Weblog
きのう今日と暖かだ。今日、親戚の葬儀、納骨で、お寺に。本堂の萱葺きの屋根は、古く朽ちている。檀家が少なく、修繕もままならないという。ずうっと、昔からの集落のお寺だという。庭のしだれサクラの枝の、つぼみもふくらんでいた。見まわすと、白い梅が満開だった。今、ちょっと気がかりの、原発。このまま落ち着いてくれることを、願っている。日本の技術力を、今も信じている。街の中は、今までと同じく、車の往来も賑やかになった。食料品の買い物も、以前と同じく、店内は賑やかのようだ。風評、風評と、報道されている。関東圏から、商品を送るように、手配をしたら、「運賃は今までの、3は倍になる」とか。ある運送会社は、「いわきには入らない」っと。でも、別の運送会社で、届いた。また、旧知の人から、「どうしているかって思い電話した」って。「普通に生活している」って、答えると、「ええっっ」っと、驚いている様子に感じる。中には十年以上も、顔を見たこともない人からの、お見舞いの電話もあった。「あんた等が使っている電気の、発電所の事故だぞぉ」って言ってみたい。原発のところに押し寄せた、津波の高さは、想定していた、2.5倍もあったという。監督している国も、発電所も、事故に対する、訓練は当然していたであろう。いっぺんに、多数が、事故。被害が生じるとは、想定外かもしれない。原発の恩恵を受けている町や、村では、安全を信じて、事故にどう対応するかの、訓練などはしていないと。この地からの避難民を、受け入れているのは、ありがたいこと思う。原発の事故の最悪だけは、避けられるよう、祈っている。
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原発の怒りの終息を祈る。

2011年04月05日 16時08分48秒 | Weblog
原発の怒りかと思うほどだ。懸命な作業に感謝している。必ずや、治まると信じている。15日の続き。ちょつと認知症のばあちゃんは、家中ばたばたの異様な様を感じて、大声でわめき、体を硬直させて、着替えがなかなか出来ない。車椅子に、安全ベルトを締めた。冷蔵庫のものを、買い置きを、水を、オムツを、薬を、夜具を、おにぎりを、介護マットレスを、荷物室に。車椅子は、車を横付けして乗せるつもりが、慌てて、地面からとしたが、乗せ切きれず、隣人の手を借りた。15時過ぎに一旦走り出したが、携帯電話を取りに戻り、16時前になってしまった。街の中の国道の信号は、ずうぅっと、ずうぅっと先まで見えた。三和トンネルの手前で、渋滞。もどかしく思い、トンネルを出て、車列は流れた。郡山との、中間点あたりで、また、渋滞。エンジンを切って、前方をうかがっていた。対向してきた車を止め、スタンドで給油をしていると、教えてくれた。18時も過ぎ、暗闇になってしまった。一台分ちょろり、また、ちょろり、スタンドを過ぎて、流れ出した。雨がふってきた。ひらたの道の駅に。ごったがえし、やっとのおもいで駐車。トイレを使って、妻も娘も、安堵した。「そうだ、ばあちゃんも食べてない」。冷たい、おにぎりとお茶を、薄暗い車の室内灯の中で、お昼ご飯になった。車の中で、どうなってしまうか心配をしたばあちゃんだが、「ほらっ、車がきたぞおぉ」って。後部座席から、たまぁに、すれ違う車を、注意してくれた。濡れた路面に、赤いテ-ルランプが続いた。あと2時間かぁって、左手におにぎり。雨の路面を見こらして、急いだ。郡山から、福島に向い、国道は、車が行き交っていた。福島までの、距離の表示板に、ほっとした。走行中の現在地を、連絡して、ひと安心をした。救援の大型トラックなのか、何台も走行していた。当座のものを、車からおろし、夕食になった。出発して、車の中でも、上品なばあちゃんで、世話になる、ばあちゃんの娘の家。「よくきたねぇ」って、声をかけられると、「お世話になります」っと、変わって、挨拶してくれた。画像は今回と関係がないある日のもの。
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原発の収束に従事している人人に感謝。

2011年04月04日 12時02分44秒 | Weblog
4月になったのに、寒い。この大震災と、原発の事故に、追い討ちをかけられているのだろうか。震災4日目の14日、午後に、古井戸からくみ上げた水だが、高台にいる妹は、いらないという。弟のところは、介護しているのと、津波で娘ら一家4人がいるという。行ってみると、留守。「どこへ出かけたんだっぺえ」っと、その時は、既に避難をしてしまったという。普段ならば、買い物で賑わうス-パ-付近も、人も、車もいない。体を動かしている時は、気もまぎれていた。しかし、夜になって、テレビを見ると、原発は、まだまだ収束するには、到っていないようだ。なんか悪い方へ、悪い方へなのかと、不安になってしまう。人も車も見えないのは、みんな避難をしてしまったのか。取り残されているのかと。「もしかして、爆発」。「万が一」ないと、思っても、不安だった。爆発は予告はないのだから、自己判断かあぁ。薄暗くなって、車の燃料をと、走ったが閉店。避難するには、燃料は、片道分しかない。不安が増してしまう。床に入っても、時々、激しくゆれる余震に眠られない。15日になって、市役所に、何か連絡事項があればと、資料を取りに行く。隣組に配布したお知らせは、*原発の情報で、屋内退避仕方の知らせ。*給水場所。*久ノ浜大久地区住民の避難移動についてだ。テレビの報道では、屋内退避なのだが、予防的措置で常磐と内郷地区の避難所にバスで移動とある。平地区の学校、公民館、集会所は既に原発の地区からの避難の人で満杯の状況だった。それに大津波での避難もかさなり、どこも満杯だった。原発から30キロの外なので、まずは大丈夫と思っていた。県外に本社のある事業所では、急遽、退避命令、中道りに移動することって伝わってきた。ただ事でないぞぉって、家族では、避難する、避難しないって。昼過ぎになって、避難することにした。仕事で使う、ハイエ-スのバンに必需品を積みこむ。廊下に持ち出すものを並べ、一気に車に積む。97才のばあちゃんを車いすのまま、車輪をロープで固定をして午後4時頃、家を離れた。
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大地震3日目、4日目。原発の深刻な事態。

2011年04月02日 14時12分23秒 | Weblog
原発の深刻さをテレビで見ていた。「まあぁ大丈夫だあぁぺぇ」って、対岸の火事を見ていたようだ。他の地方の、大津波のことよりも、原子力発電所のことが、気がかりだった。4日目の14日は、午前中に、市役所に行き、*水道の復旧の見通し。*ごみ収集のお知らせ。*災害対策本部の電話番号のお知らせ。参考までに、*避難所の人数確認表を、コピ-して、隣組に配布した。声をかけながら配布していたが、ありがた迷惑そうにみえた人もいたので、緊急以外は、郵便受け、新聞受けの入れて渡すことにした。午後には、生活用水、トイレ用の水が少なくなったので、古井戸の水をくみ上げて、湯船を満水にした。深夜になって、飲み水を、給水所に走り、歩いている人もなく、行き交う車のライトも、ぱらぱらで、街路灯の灯りだけが輝いている、異様な、深夜の風景だった。余震には、驚かされながら、無気力感の、三日目が、4日目が、睡魔に襲われ、床に入って終わった。
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