八十路徒然なるままに

かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもーーー。徒然草より

弁慶の立ち往生

2011年05月31日 15時44分13秒 | Weblog
大震災と原発の事故があってから、早、三ヶ月近くになる。原発では、一本の細い糸を手繰り寄せるような、一縷の望みで、作業をしているのかも。必ず、復旧すると、現場を信じているだけだ。通常ならば、冷温に向けての、簡単な作業なのかも。今回は、異常な状態での、苦悩の連続の、作業なのだろう。「果報は寝て待て」と、誰でもが思っているのだろう。弁慶、豪傑の僧の名と、辞書にある。事故という、巨大なものにたちむかっている様は、弁慶にも思える。かならずや、捻じ伏せて、収束すると信じている。画像は、3月13日に開始した、久ノ浜、大久地区の、予防的措置で、避難の知らせだ。朝の8時30分から、避難が始まった。原発の事故が発生した翌日の12日は、20キロ圏内の地区が、既に、いわき市に避難をしていたので、大久、久ノ浜の人達は、内郷、常磐へと、避難をした。この地区は、30キロ圏内なので、屋内退避だったのだが、「転ばぬ先の杖」と、判断をしたのだろう。事故から、まず、大丈夫だっぺぇって、思っていたが、これを見た時は、不安になった、お知らせだった。
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船頭多くして船山に上る

2011年05月28日 13時55分31秒 | Weblog
「指揮する人が多いと、意見がまとまらず、予期した結果が得られなくなる」という意味だと、辞典にある。最近の報道で、原発の事故の発生当時に、水の注入が、続けていたとか、中断していたとかを、読む。現場で事故の対応をしているひとの目を、信じればいいのではないか。勿論、現場と本社とは、密に、連絡を取り合っているのだろうから。「言った」「言わない」、「した」「してない」と、外野席で、言い合っているように見えてしまう。原発事故の、発生当時は、こんな事態になるなんて、単細胞の小生は、思いもよらなかった。画像は、三月の15日に、いわき市民へのお知らせのもの。これを隣組の人々に配布していても、深刻には考えていなかった。14日、15日に、自主避難、自主退避と、県外の本社から、当いわきにある営業所に、指示があったと、聞かされると、のこのこと、あたりの様子を見てまわった。人影もなく、走る車もない光景をみて、不安になり、いわき市から脱出したのだった。原発の20キロ圏内からの避難してきた人と、いわき七浜に、大津波が襲い、難を逃れて、避難をしてきた人は、三月の12日には、平地区に、5500人と、数えられていた。避難所にはまたまだ避難をしている。早い収束が待たれる。
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知らぬが仏

2011年05月26日 12時28分43秒 | Weblog
ちょっと意味合いが違うが、原発の爆発があった時、炉心溶融が、起こっていると、知ったなら、誰もが、いっぺんに避難をはじめたら、にっちもさっちも、いかなかったと思う。まあ、小生が居住しているところは、原発から50キロは、離れている。「まぁ、大丈夫だっぺぇ」って、のんびりしていたものだ。連日、連夜、テレビの報道を見ていたらば、不安にかられていった。街の中には、人影もなく、車の往来もなければ、自分ひとりが、とり残されているのかと、ますます、不安がつのる。原発の詳しい状況を、分かっていたいた人は、早々に避難をしてしまっていたようだ。原発の現場は、今も必死に、沈静化に努めている。最悪の事態は、逃れられると思う。大津波の被害で、避難をしている人も、原発の事故で、避難をしている人も、不自由な生活の日々だ。大津波や地震で、街そのものが、無くなってしまったので、あきらめもつくだろうが、原発で避難をしている人は、自分の町があるのに、住めないとは、あきらめもつかないと思う。人的災害もなく、自然的な災害もない、穏やかにすごしたいと、誰でも、望んでいることだと、思う。昨日は、いつもより、余震が多かった、震度、5弱には、肝を冷やした。毎日毎日、天の怒りが治まり、豊かさからの怒りが、収まるのを願っている。懸命な作業をしているのに、不謹慎だと、承知はしている。自衛隊の、災害派遣の、車両も、少なくなっているようだ。仕事とはいえ、、感謝しなけれはならない。画像は、例によって、市からの、しおりの、一ぺ-じ。
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余震が続く

2011年05月20日 19時53分10秒 | Weblog
今日の夕方にも、強い余震が発生した。知り合いの、新築の家も、補修ができていなく、余震のたびに、肝を冷やすと言っていた。話しは変わって、防災組織のこと。浜岡原発の、発電を停止したと、報じている。今回、福島原発、福島原発と、ニュースで報じる。静岡原発と、言わないのが、何かと好都合に思える。東海地震の発生の確率が高いという。もう30年も前に、地震に備えて、防災意識が強く、組織も作られていると、雑誌で読んだ。いまでは、当時の防災の熱意が薄れ、人々も高齢になり、活動もままならないと、読んだ。大分前には、富士山の噴火の、予想も話題になったと、記憶する。地震と、噴火も、連動するかもしれないとも、読んだ。まず、備えがあれば、憂いはないかも。大地震の際は、避難もあれば、消化活動もあり、被害者の救出もある。給水も情報の入手も、しなくてはならない。三月の大地震の際には、小生、隣組に情報の配布をした。災害時には、何かをしなければならないと、責任を感じていた。当地方は、これまで以上の地震はないと思う。地震の災害とは、別の災害はなにがあるのか。水害もあれば、火災もある。ゲリラ豪雨というのもある。梅雨の末期の、中小河川の水害が、発生しないことを、願っている。画像は、市からの、防災のしおりの、一ページ。


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予測がつかない災害

2011年05月15日 19時40分31秒 | Weblog
画像は、以前、市から配布された、「しおり」の一ぺ-ジ。小生が居住しているところは、幸いにも大きな被害はなかった。しかし、海沿いの街は、大津波での、がれきの山だ。今回は、原発の事故も重なり、このことに、どのように対処すればいいのか。皆目わからなかった。後日になって、原発から、3キロ圏内の町の職員の方の、その時の状況を、聞く機会があった。原発で事故が発生するということは、全く想定していなかったと。体育館も、大地震で天井も落ち、大方のかたずけが終わり、ほっとしていたら、ずぶ濡れのまま、避難者が、ぞくぞくと来た。どうなっているのだろうと、バイクで走ったという。末端まで情報が届かない。当初の混乱は仕方のないこと。夜になって、おにぎり半分づつに分けて食べたという。そのうち、避難指示があり、バスか来て、ずぶ濡れのまま、バスで避難をしたという。ひとりひとりが、目の前の安全を確保する。そして、情報の入手。入手は、町内会で得る。それを伝える。小生、三月末で、隣組の班長を退いた。後任の班長さんには、情報の入手の方法を、申し送りしておいた。しかし、教科書通りには、うまくいかないだろう。教科書の知識は必要で、それを生かす。それを活用する。そのことは、頭に入れておかなくてはならない。今回は、想定外の、原発の事故。原発が最悪の状況になったときは、どうすればいいのか。まさか、ここまでは影響はないだろうと、思っている。
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土崩瓦解

2011年05月12日 16時36分50秒 | Weblog
どほう がかい。新明解より。「土が崩れ、かわらがばらばらに砕けるように、ものごとが崩れ、手の付けようがないたとえ」とある。大津波の被害も、このようだし、まして、原発の現場も、がれきだらけのようだ。走行しながら、海岸通りをみるも、気の毒でしょうがない。最近になって、原発から20キロ圏内から、避難をしている知人に会う。介護の必要な母親は、埼玉県に。その人の妻は、娘の仕事場が、岐阜県の方に移動となり別居、知り合いは、それまでの町民との連絡とか、手続きとかの、仕事で、このいわき市に住んでいるという。家族がばらばらになってしまったと、悲しんでいた。住んでいた家も、梅雨から夏の間、家に風を入れることも出来ないので、住めなくなるのかと、嘆いている。原発の安全神話が、崩れ、悲惨な状況が、想定外の高さの津波で、生じた。今、原発は最悪の状況の一歩手前なのかもしれない。どうしょうもないことに、ならないように、願っている。
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ひんぱんに余震が続く

2011年05月08日 15時40分32秒 | Weblog
画像は防災のしおりの中の一部。このしおりはが、配布されたのが、いつなのか記憶にない。手元にあるのだから、保存している人も多いのだろう。原本は手元にない。コピ-しておいたものだ。大地震のあと、隣組の人々の、安否は確認できた。電気、ガスが、通じていたので、ちょっとは安心をした。しかし、断水になって、給水の場所を知りたくて、市役所に行った。前にも記載したが、給水場所の連絡は、多分、町内会にはあったのかも、知れない。自主防災会があるので、なにか連絡があるかもと、思っていたが、連絡は、とうとう無しだった。後日に知ったが、原発事故のことで、市からの広報車が、ふれ回ったと聞いた。その頃は、街の中には人影も、車影も、ぱらぱらだった。手書きの連絡書を配布して歩き、体が不自由な人には、食事がままならなければ、避難所があるし、もし、原発のことでも、心配なので、情報は、避難所の方が、早いのかも知れないとも、伝えた。そのあと、ずうぅっと、留守だったので、避難したんだと思った。大地震のあと、数日は、給水場所は、大混雑だったが、夜になると、列に並ばなくとも、給水できた。そのころは、大部分のひとが、避難をしてしまっていたのだろう。ずいぶん前から、東京とか、中部地方に、大地震が発生するとか云われている。そのため、原発の発電停止を、政府が要請をしたと、報じている。ひとっきり、映画で、日本沈没を見た。同じ光景が、このいわき七浜でも見る。これ以上の大震災が、発生しないことを、祈っている。また、日夜、原発事故の収束に携わっている人人の無事を、祈っている。
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震災時に隣組に配布したもの

2011年05月06日 13時01分13秒 | Weblog
画像は、三月十二日と、十四日に、隣組にお知らせしたもの。いまどき、手書きとは、恥ずかしいと思う。町内会の防災会は、いろいろと検証すべきだと思うが、いまもって何の話しもない。町内会なんか、無用ではないかとさえ、思うようになっている。パソコン3台使っている。そのうち二台に、ドットプリンタ-が、三台つないでいる。このパソコンにはプリンタ-はない。いままで使っていたインクジェットは、次々に、不具合になり、結局三台駄目になった。現在物色中だ。手書きのお知らせは、今思うと、急ぎ走り書きして手渡したので、緊急性が感じられる。余震は四月11日以来、またまた、深夜に5弱の大きな余震に驚かされて、恐ろしく思う。これ以上の大きな余震は、ごめんこうむりたい。津波の被害は、いわき七浜も、テレビで報道されているのと、同じ状景だ。海沿いの、知り合いをたずねてみた、二階建てはかろうじてあったが、知り合いはいない。別の港に近いところは、形だけはあった。知り合いに会えなかった。この地の、今、問題の原発、原発建設から、事故までは、なにか、かにかと、多少の恩恵があったのかもしれない。年に一回、原子力発電給付金という名目かで、現金が振込まれてきている。ありがたいものだと、思っていた。しかし、原発の事故は、ことわざ通りに、「ただより高いものはない」って、なってしまった。原発から、20キロ圏内の、知り合いが、来た。避難を指示されて、避難をして、翌日に自宅にもどってみると、ガラスが破られ、めぼしいものは、無くなっていたという。それよりも、川の堤防と同じ高さで建てた、店舗と住宅は、無事だった。その家に戻れる日は、何時になるのか。それまでの、生活は成り立たないという。商店なので、取引先への支払いが、出来ない、思案投げ首の状態でいるという。
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