日々、だらだら過ごしている。明日は、六月になる。南の地方では、梅雨入りのようだ。暦には、六月十日は、入梅とある。太陽の動きの、黄径80度を、入梅としている。六月の二十一日は、夏至になる。梅雨の時期とは、六月から七月中旬にかけての、雨の季節のこと。梅雨の時期も、走り梅雨があったり、梅雨冷えの梅雨寒の日々があったり、梅雨の中休みの、五月晴れの日があったり、梅雨の末期には、梅雨の大雨ということもある。から梅雨もあれば、戻り梅雨がある年もある。このあと、太平洋高気圧が、梅雨前線を押し上げて、梅雨開けになる。北海道地方は、梅雨の時期がないという。暦にある、[九夏三伏]という暑い時期は、今年は、七月の十六日から、八月の二十四日迄とある。昨年より五日遅くと読んだ。[九夏]は、夏の九十日間のことだが、今年は、旧暦の四月が二回ある閏年なので、夏は、118日間になる。はたして、どうなるものやら。残暑が長く続き、エアコンの冷房の使用で、電気料金が増加するのかなぁ。ガス料金は、湯沸かし器や風呂に使うのか少なくなって、ガス料金は少なくなるのかも。アイスの消費は多くなるかも。冷やしラーメンとか、冷たいそーめんや、ざるそばを食べる回数が多くなるのかも。そうか、買いだめをしておこうかなぁ。消費動向は、それらの業界では、百も承知していること。その時々で買うのが、倹約なのだろうね。画像のサツキは、昨年枯れゆくので、地植えをした。数輪、咲き出した。残りの、鉢植えをみると、つぼみが付いている。あわてて、水やりをしている。
昨年の夏過ぎて、枯れはじめたのを、あわてて地植えにした。朽ち果ててしまったなぁと見ていた。細い枝先から、あれぇっ、一輪咲いたぁと。水遣りしていれば、花がさくものだと、肥料も与えなけれは、栄養がなくなるので、朽ちる。鉢植えの花は、庭木の花より、色が楽しめる。普段の手入れが出来なければ、地植えにするしかない。地植えも、土のこともあるだろ。鹿沼土でいいのだろう。地植えにすれば、枝枝に勢いが付き、数年後には、種々の花が見られるだろう。なんて、考えてみた。先ほど、残っている鉢植えに、水やりをしたら、数輪、つぼみが膨らんでいた。そういえば、花は一鉢が終われば、また別の鉢のが咲く。花が終わった順に、地植えにする。
数日前、緊急事態全面解除になった。小生は、三蜜をさけるようの、対策はしていた。出歩くのは、スーパーへ買い物に行くだけだった。一度、四月の九日に、隣の県の高萩市に、葬儀の参列にいった。葬祭場は、三蜜状態の回避はしていた。通夜は無し。葬儀には、車に便乗した。そのころ、いわき市では、新コロナウイルスにり患している人数は、例のクルーズ船に乗船をしていた人だけだったと思う。葬祭場での雑談に、「いわき市では、--」といわれた。当時、県をまたいでの移動は、自粛するようにだった。本音は、茨城へ行くのはどうしたものかと、考えた。茨城県でも、いわき寄りなのだから、まず、感染はないだろうと考えた。潜伏期間といわれる十四日間は、ちょっと、気にしていた。もしも、感染してしまったら、百五才のばあちゃんを、在宅で介護中なで、看護師さんや介護士さん、お風呂のサービスが、受けられなくなる。それはしょうがないこと。それから先の、多くの方々に、影響がでる。そのことを、心配していた。そのことが、頭の中にあった。新コロナウイルスの感染の、第二波が懸念されている。ようやく平常に戻ったというが、個人的にも、これから先のことにも、注意をする。
磐城平城の古絵図を拡大してみた。画像の中央のあたりに、「米倉」とある。「磐城平藩政史」によると、米倉は、四八扉で、城付23000石の、籾や大豆を収納していた、とある。戊辰戦争で、明治元年七月十三日に、落城した、その時の、糧食は、四、五日分だったとある。米倉の火は、翌年の明治二年の正月まで、二万石の籾を焼き続けたとある。いわき市史史によると、御用米蔵二棟焼失とある。「本丸ニ火を懸ケ次ニ穀蔵二ツニ火を懸けーー」とある。古絵図を見ながらのこと書きました。
磐城平城の古絵図を、拡大をしてみた。前掲の「八ツ棟櫓」の手前になる。現在の、JRいわき駅の北口から、見上げられる高台の、場所にあったかも。ものの本には、丘の高さが百尺とある。そこに、そびえていたのかも。丘の周りは城坂濠があって、その昔、「磐城名物三階櫓、竜のお濠に浮いて立つ」と、謡われていたと読んだ。
画像は、福島民報の記事からです。ここのところ、日本各地、震れているなぁと、テレビやネットでみていた。地震は、予測は難しいという。なんか、震源地は、かなりの深いところで、発生しているのかも。首都直下とか、東南海とかでの、発生する確率は、かなり高いようだ。先の東日本大震災の時の震源域と余震の分布は、南北約450キロ、東西200キロメートルに、及んだという。このときは、震度4以上での震れが、約190秒間だったという。今、「おっ地震かぁ」というのは、せいぜい5秒間とすれば、その時は、がんたぁ、がんたぁ、がんたぁと、約190秒間、ゆすれているようだ。小生は、バイパス道を走行中、激しい震れで、下り坂の途中で、停車をしていた。眼前の道路が、波打って迫り、陸橋の照明柱は、折れ曲がれんばかりと、右や左にゆすられていた。新聞を読みながら、大地震が発生しないことを、願っている。
前掲の、磐城平城の古絵図を、拡大してみた。今は、本丸には、立ち入れない。JRいわき駅の北口を出て、急な坂道を上ると、石垣がある。石垣の少し下に濠があるのかも。白蛇堀というのかもしれない。[弓櫓]と読める上の所にあるのかも。以前に、そこを覗いてみたことがある。竹が倒れたり、雑木が朽ちたりして、埋まっていたところのようだった。古絵図をながめて、かきました。
七、八年前だったと思うが、こんなのがあると、見せられたのを、コピーして置いた。もう、何回も拙いブログに載せた。歴史に疎いので、全部、あちこちの本を、ぺらぺらめくって、かきました。図には、岩城平城内外図、元和八年[1622年]八月。内藤左馬介政長家臣配家一覧とある。磐城城は、鳥居忠政が、慶長七年[1602年]に、築城を始める。慶長19年[1614年]に、竣工とある。鳥居家のあと、内藤政長が1622年に、上総佐貫より入封とある。その時のものかもしれない。家臣配家一覧とあるので、家来というのは、どのくらいの人数だったのたろうなんて、ながめている。知人が所持していた時は、色を使っていた図だったが、ちょっと貸してくれと、頼まれて、貸したという。「はい、どうも」と、戻ってきたときは、図を見なかったという。小生に見せた時、「あれぇ、原図ではない」と言った。大きさは、ほぼ89センチメートル。磐城平城の絵図は、意外にたくさんあるという。
画像は、前掲した銅板図を拡大した。仁王門と読めた。銅板図を見ると、参詣の登山道は、二通りあるようだ。画像の中央の下の少し右寄りに、ひし形状が見える。これが、現在見られる旧参道の石階段なのかも。別の登山路は、なだらかに見える。図には、龍燈が見られる所も、彫られている。
画像は、昨年七月に、写経会の時、見せていただいたもの。欄外に、[東京市淺草⁹區茅町精行社銅版部製]とある。また、欄外に、[この図版の原板は、赤銅に手彫したもので、平活版所が社宝として現在まで所蔵してきたものですが、このたび赤井岳開山一千百五十年祭を記念して寄進されたものです。今回の記念に復版して、皆様に御頒ちする次第であります。」とある。銅版図は、1896年製と、読んだ。火災は、明治11[1878]年2月に、再び野火により類焼と昭和8[1933]年11月に火災で、奥の院を残して、全焼したと、読んだ。5月2日に、建物の所を拡大したのを載せてます。
昨日、19日の12時17分に、震源地が、福島県沖で、Ⅿ5.3の、地震があった。あれっと、震れを感じ、クラッ、クラッ、クラッ、グラッ、グラッ、グラッ、ドッシーン、グラッ、グラッ、グラッ、ぐらぐらぐらで、収まった。地震情報を開いてみると、岐阜県飛騨地方で、震れている回数が多いんだぁとみていた。飛騨地方で、ほぼ一時間後の、13時13分には、M5.3が、発生した。パソコンのほうの、地震情報をみると、画像のように、発生をしていた。東日本大震災で、大きくゆれる余震に驚いていた。東日本は、これからも、余震の心配なのだろうが、関東地方や、東南海地方は、これからが、大地震の、心配なのだろうか。いずれは、大きな地震があると、覚悟をしなければ、ならないのだろう。くわばら、くわばら。