八十路徒然なるままに

かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもーーー。徒然草より

街路樹

2015年03月30日 19時38分04秒 | Weblog
数日前に、見上げたら、そろそろ満開かぁと。でも、デジカメを持たないで、しまったぁと。今日、前掲の桜の様子を見に行き、ついでに、カシャッとしてきた。足元に、花弁が落ちていた。
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近くの桜

2015年03月30日 19時22分29秒 | Weblog
桜の種類が違うので、また、つぼみ。でも、冬枯れと違って、ふっくらとしてきた。昨日今日は、一気に、初夏の日差しのように、感じた。三寒四温を繰り返すのだろう。
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燃料が溶けている

2015年03月24日 21時07分27秒 | Weblog
画像は、先日のNHKのテレビの画面。原発は、今は、水で冷却しているという。あの時、万が一、格納容器を突きぬけてしまったならば、200キロ圏内には、住めなくなっていたかも。当時のテレビの画面の、爆発の瞬間は、どうなるものかと。今でも、ぞおぉっと、背筋が冷たくなる。
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数日前の夕暮れ

2015年03月24日 20時51分36秒 | Weblog
今日は、送り彼岸。晴れてはいるが、冷たい北風が、吹き荒れている。画像は、数日まえの夕暮れ。暗黒の雲が、空を覆いつくした。なかなか、陽気が安定しない。桜の便りも、テレビを賑わしている。安定しない陽気は、旧暦では、まだ二月になったばかりだ。去年は九月が閏月だつたので、季節が20日くらい、遅れているのかも。
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常磐自動車道路

2015年03月24日 20時32分13秒 | Weblog
いわきから、六号国道を約37キロ北上。広野インターから入って、仙台へ行った。仙台駅の手前まで、約160キロだった。所要時間は、約2時間30分かな。仕事をしていたころは、仙台に行くのに、日中は、約4時間かかった。原発事故の後は、磐越道から東北道を使っていたので、走行距離も長く、時間もかかり、休憩もした。それらをおもうと、ありがたいことだ。ここらかなぁと、窓越しに、横目でちらっと見えた、白い建物は、福島原発だったかも。画像は、広野インター付近。画像の真ん中にちょこっと見えるのは、広野火力発電所の煙突。
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避難をする

2015年03月16日 21時04分06秒 | Weblog
原発事故があった、三月十五日に、福島市の妹の所へ、世話になることにした。仕事で使っていたハイエースバン。後部座席を取り除き、車いすにばあちゃんを乗せ、ロープで固定。介護に使うポータブルトイレ、介護用の食べ物を、ベットのマット、手持ちしているおむつを積み込んだ。スーパー、コンビニには、食料品は、入荷の量が少ないというので、買い置きのものと、冷蔵庫にあったものを、バックに入れて、午後3時半に出発。49号国道を、郡山方面へ、車は列をなしていた。一時間で、平田の道の駅を、目指したが、約二時間遅れて、午後七時前になってしまった。駐車も、空きができるまで待った。薄暗い車中で、ペットボトルの茶と、おにぎりで、遅い昼食を、ばあちゃんにさせた。雨が降り出した中を、一路福島を目指した。携帯電話で、到着時刻は、連絡をしていた。車の燃料は、満タンで600キロ走れるが、その時は300キロくらい走行できる量しか、タンクに無かった。心細い思いをした。当時、発電を停止していた四号機が、爆発し損傷と報じていた。思ひ出したくない、原発事故からの、避難のこと。
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大事な水

2015年03月12日 20時59分00秒 | Weblog
事故の当時、原子炉を水で、冷やすと、ニュースで見ていた。生活用の水は、使っていない古い井戸から、水を汲んでいた。水は、いろいろと、使う。水のありがたさを、実感した時でもあった。今は、「喉もとすぎてーー」か。電気も、水も、ありがとさんと、感謝をしなければならない。
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水素爆発

2015年03月12日 20時41分02秒 | Weblog
画像は、原発事故があった、三月十五日の、福島民報より。爆発には驚いたが、水素爆発というので、ちょっとは、安心をした。原子炉建屋に、水素が、なぜ、発生するのかと。燃料が溶けて、反応をして、水素が、発生すると、読んだ。思い出したくないことではある。
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三号機も爆発

2015年03月11日 20時05分10秒 | Weblog
画像は、三月十五日の、福島民報より。原発の事故は、驚いていた。十五日の早朝、六時十四分に、四号機も爆発。テレビを注視しているだけ。朝のうちに、市役所からの「お知らせ」を、取に行き、それをコピーをして、隣組の各家々に、配布をしていた。別のことだが、原発から20キロから30キロ圏内は、屋内退避を指示している。広報車が知らせをしていたと、聞いた。後々になって、あの時はと、ある新聞社から、出版されたのを読むと、三号機が爆発した時から、新聞記者を、福島県から、退避させたと、読んだ。別の本には、テレビも、新聞も、第一原発から、半径70キロは、立ち入りをさせないと、書いてあった。
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爆発

2015年03月11日 19時53分06秒 | Weblog
画像は、原発の建屋が、爆発した翌日の、福島民報。震災の日の、11日の夜、市役所から、何か「お知らせ」でもあるのかと、行った。でも、何もないとのことだった。テレビの報道も、原発事故の事も、多くなったと、記憶している。あの、建屋が吹き飛ぶとは、信じられなかった。
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地震発生

2015年03月10日 20時14分31秒 | Weblog
大地震のあつた、三月十一日。バイパスを走行していた。カーラジオから、「緊急情報、地震発生」と。「うっ」と思っていたら、ぐらぐらぐらっときた。車を道端に止めた。ゆれがおさまったと、走り出した。でも、10メートルも走れなかった。眼前は下り坂。いつも走るみち。谷には、少し長い陸橋。登り坂を上がった道とあたりの木々とが、左右にたわんで、ぐうぅっと沈み、眼前の、緩やかな下り坂が、沈んで、急な下り坂になった。陸橋に取り付けられている、街路灯の柱は、90度もしなり、前後左右に、折れんばかりにたわんでいた。五度、八度と、道路も、街路樹も、小高い山も、ゆうんさぁ、ゆうんさぁ、ゆうんさぁとゆすり沈みしていた。その時は、直線で、1キロくらいの間に、車はまったく見えなかった。ゆれがおさまり、バイパスを走ったが、突然渋滞になった。すぐにバイパスを下りて、走ると、電線が切れて、地面に垂れさがっていたり、ブロック塀が倒壊して、道幅が狭くなったり、渋滞したりしていた。とりあえず、幹線道路に出てた。
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友、旅立つ

2015年03月08日 19時47分34秒 | Weblog
65年前の、中学生時代の同級生が、他界した。同級会の交流誌として、第五号を二月に送った。今年も年賀状が来た。賀状の図柄を「ことほぐ」の、表紙の一部に使った。彼らしくない図柄と、感じていた。体調がすぐれないので、代理の人が、送ってくれていたのかも。中学校卒業してから、七年目の時のクラス会の写真に写っている。その後は、七、八年前の、高校の同期会の、ゴルフのコンペには、数回、顔を合わせていた。ずうっと疎遠だが、さびしい気持ちになる。今夜、通夜。車で、40分くらい走って、斎場に行った。「江名」は、いわき市の海岸沿え。中学生の時は、バスで、一時間もかけて、通学していたのかと、斎場に向かう車中て考えてみた。大震災の時は、海添えに住んでいたので、気にはしていた。昨年は、別の同級生とは、二人が、連絡が取れなくなった。交流誌といっても、29人中、数人が、投稿してくる。その他は、一方通行。でも、届いているので、みんな元気でいてほしい。
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安定ヨウ素剤

2015年03月07日 19時26分31秒 | Weblog
いわき市では、原発事故があった、三月の18日に、「安定ヨウ素剤」を、配布をした。市役所に、「市役所からのお知らせ」を取りに行っていた。そのわきに、若いお母さんが、「ヨウ素剤は、とこでもらえますか」と、息せき飛び込んできた。後々に、いわき市の、最大放射線量は、三月十五日の午前四時に、23.72マイクロシーベルト/時を、観測したという。最近は、平常値くらいになっているようだ。原発事故のあった、三月十二日の夕方、20キロ圏内の知り合いが「避難をしてきた」と。すぐ近くだったので、会いに行った。「ヨウ素剤持たされてきた」と言う。「原発、そんなに悪いのげぇ」と、聞き返した。それでも、原発の安全神話を、信じていた。
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原発事故五日目

2015年03月06日 20時06分51秒 | Weblog
画像は、先日のNHKのテレビの画面です。当時の、三月十五日は、テレビの報道に、見入り続けていた。市役所からの「お知らせ」を取りに行く。それをコピーして、隣組に、一軒ずつ、声をかけて、手渡しをしてまわっていた。街の中は、歩く人はいない。国道で走行する車も、一台、二台だった。後日に知ったことだが、「屋内にとどまるように」と、素早く走る車のスピーカーで、知らせをしていた。飲料水を欲しければ上げると聞き、二か所へ、取りに行った。一か所では、取りに来るのを待ちわびていたという。職員は、すでに避難をさせていたという。水を渡せば、事業所の戸締りは済ませたので、すぐに、移動をすると。原発は、切迫している事態だと。帰りの道の、停止の赤信号も、むもどかしく思った。行き交う車は、全然ない。不安が、つのっていた。でも、その時は、まだ、原発が爆発した時の、恐怖は、遠い場所だろうと、思っていた。放射線ということも、皆目、知識がなんかった。以前にあった、外国での、原発の爆発は、知っていたが、現実に、日本で爆発をした。今、「喉もと過ぎれば、熱さ忘れる」ではないが、思い出したくもない、毎日だった。
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震災四日目

2015年03月05日 20時39分37秒 | Weblog
震災四日目になると、原発事故が、最大の報道になっていた。原発の安全神話を、聞いていた。原発の建屋を見上げる機会があった。今、思うと、10階建てのビルの大きさはあったかなぁ。原子炉の本体の構造物の厚さは、150センチか、180センチの特殊鋼で、できているとかと、聞いた。それのことがあったので、建屋が爆発で、飛び散るテレビの画面でも、まさか放射線が、撒きちるとは。画像は、原発事故とは関係のない。昭和39年に朝日新聞社刊の、「マッカーサー回想記」からのもの。「注」に、「原子核破壊装置。または、粒子加速装置ともいう。当時、理研には、二台あった」とある。原発事故とは、関係のないことだか、ちょっと思い出して、ぺらぺらめくって読んだ。
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