画像は、22日の夜、奄美地方で、地震発生のテレビ報道。この画像の前は、「緊急地震情報」の画面。身構える時間があった。でも、はるか遠方で、胸をなでおろした。奄美地方では、肝を冷やしたことだと思う。今日も、昼間に地震があった。内陸が震源とか。変な地震が起きているのかも。地震の震源は、海中深いとばかり思ってた。別のことだが、いわき地方の、今年の夏の海水浴場は、二か所だけが、適しているとか。大震災前の大海水浴場は、砂浜が消えて波が打ち寄せている。地盤が沈下しているという。沈下したひずみの影響が、どこかにあるのだろう。日本全国各地で、地震に備えるしかない。大地震にみまわれたら、まずは、自分の身を守る。火災を発生させないことも、重要。大震災があった翌日、12日。震災と、原発事故の情報収集に、たまたま、災害対策本部になっている消防署についた。すぐに、わが町内に火災発生のアナウンス。けたたましいサイレンと、消防職員の号令と、消防車の轟音とともに発車。駆け足でもどった。ガス爆発というので、そのことを走り書きしてコピー。隣組と近隣に個別に知らせた。災害時には、情報の収集と、近隣にそれを知らせる役目が、大事なことだ。当時、その役目は、自分なりに、果たしていたと思う。
市長の期限を全うして、政治家を引退すると、報じていた。ずげすげと言っていたのを見た。目先を変えようではなく、将来のために変えようと、言ってたように、思える。先を見通すことを、解ってもらえなかったのかも。
住民投票の結果、反対が多数と、報じていた。住民投票の報道が、特別番組で報道していたので、関心があった。変革の時代なのだろうか。大震災があり、原発事故という間接的な被害がある。目に見えてないことが、変革しているのだろう。
大阪「都構想」の、住民投票の結果を見ていた。結果が出る前、出口調査の、年代別の投票率の表で、70才台の反対の率が多いと、あった。若い年代の人は、今後、30年、40年先のことを考えていると思う。他人事なので、理解はしていない。考え方の一つに、「老いては子に従え」だろうなぁと、テレビを見ていた。
徒然草の、第十九段に「五月、菖蒲ふくころ、早苗とるころ、水鶏のたたくなど」とある。最近思いだして、ぺらぺと、斜め読みをしてみた。季節の移り変わりは、何時の時代でもおなじだなぁと。街中から走行して出てみると、田んぼは、田植えが済んでいる。梅雨のはしりなのか、雨があがっても、すかーっと晴れない。五月雨は、これからなのだろう。
昼近くになって、雨があがった。木々の緑が鮮やか。ひと月ぶりの写経。今日はちょつと早めに着いた。法話は、普賢菩薩。賢いお坊さんで、合掌している像もあり、指を開いている像もあるとか。修行というより、心を落ち着かせようとするときは、像の真似をする。言葉や文字を真似する。真似することによって、自分が、会得できる。ただの凡人なので、三日もてばいいべぇと、またまた、ひと言多いなぁ。先月は、我が家を出る時刻と、近所のキリスト教徒のひとの野辺送りと重なり、せかせかして、写経をした。夕方は、前夜祭に行き、讃美歌を聞いた。キリスト教の教えを聞いて、頭の中は、混乱気味だった。ありがたいお話は、後々になって、理解できるようだ。
今朝がた、6時13分。けたたましく、「緊急地震情報、緊急地震情報」で、飛び起きた。ちょつと身構えた。今思うと、5秒くらい後に、カタカタカタツ、ガァダァガァダァッ ガタァァガダァァ ガダガタツガタツと、揺れが続いた。もっと長く揺れれは、身支度するかぁと思ったが、揺れが収まった。家屋は、先の地震でも、大丈夫だつた。その後、外壁の張替をして補強をした。揺れが来るまでの時間があったので、遠方だろうと。頭をよぎったのは、原発のこと。現在は、廃炉に向けて、作業をしている。もし、これが、何か事が発生したならばと、不安がある。でも今は、一番安全なのだろう。
直接には、被害がないのだが、原発事故の発生から、五日目に避難をする。記憶では、高さ60メートルの発電建屋が、水素爆発で吹き飛ぶ瞬間のテレビの画面を見ていた。もし、原子炉本体が爆発したならばと思った。それも、三つが、爆発したならばと、思うと、いたたまれないのかと。その恐怖心は、今も消えない。原発事故の現場で、万策を尽くし、一縷の望みをたぐりよせていたという。「筆舌に尽くし難い」の一言だ。
前掲の交流誌に、遊び心で、綴り込む。「千 昌夫」が歌っている。その歌詞を書いた。毎日新聞社から刊された「能」の本から、能面を拝借した。「こらぁっ」には、いいかぁと。どうでしょうか、面白いと、自賛をしている。女性向けには、「学生時代」にしようとしている。試作には載せたが、書いたものが、まだまだなので、あれこれと、書いてみている。どんな反応があるものやら。ひとりよがっている。
前掲の交流誌に、綴りこんだ。手元にあった写真。ビール瓶が写っているので、たぶん、20歳のころと思う。なんか、よく集まっていたのを思いだす。当時は、順番で幹事をしていたと思う。会場の手配は、任されていた記憶がある。今となっては、写真が貴重になる。
六十五年前に卒業した中学生時代の、交流誌の試作をした。第六号を「出会い」副題を「蒼い志」とした。総ページ数は30頁になる。その表紙と、最終ページ。ひと月、思案をしていた。この歳になると、クラス会はできない。足腰が弱く、遠方からは、無理になる。交流誌を思い立ったのは、一昨年、クラス会の呼び掛けと、その報告をするべきと、思ったことだ。表紙の下の写真は、何十年かぶりのクラス会の時のもの。地元に居るので、幹事をした。クラス会に出たものには、「S君」が、送っているはず。今回は、同期会会長からの、寄稿があったので、同期会とクラス会との、合同誌にした。裏表紙に掲載したのは、十数年前、関東在住の人が、五人ほど集まると、連絡があって、上京した時に会ったまま。元気にしているとのこと。交流誌に掲載をした。