画像とは関係のないこと。以前から、家屋の修理を頼んでいたのが、今月はじめから、大工さんが、三人ではじまつた。棟梁と若い見習いが、「こらぁ、釘ちがぁうぞぉ」って、怒られながら、仕事をしていた。怒られてばかりいたわけではないだろう。足場のチ-ムが、組み立て、撤去にきた。電気の線の、取り外しと、再び取り付けのチ-ムもきた。ここにも若いひとがきていた。若いひとが、手際よく動いていた。額に汗を流しながら働く。なにか新鮮なことに思えた。こんなことで、なにも仕事をしないのだか、疲れた。脳もそれなりに、疲労をしているのだろう。思考停止の状態が、続いていた。久し振りに、ブログをした。画像は、2008年3月にも載せた。
旧暦閏三月の続き。30年前に刊行された、理科年表読本-「こよみと天文・今昔」の本の始まりに、舟橋聖一著・「花の生涯」の、一節が載っている。そのまま引用すると、「また降り出しましたぞ」「雪ですか」「近来まれな大雪です」「宵節供というのに、些か季節外れの雪ではござらぬか」---とある。この桜田門外の変があった年が、閏三月だった。宵節供に雪が降ったとあるのは、早い季節であれば、珍しくもない、遅い、閏三月の三日なのかも。陰暦の月は、季節になる。一月、二月、三月、閏三月は「春」。春の期間が長い。四月、五月、六月は「夏」。よく皐月晴れと言う。今年は六月下旬頃からなのか。夏の訪れも、秋の訪れも、遅いかも。今年は、一口に言って「異常気象」なのかも。画像は、近くの神社の狛犬に降りかかる、花吹雪。
満開になったと思ったら、散っている。桜の種類は、いろいろあるのだろう。花びら1枚づつ、花吹雪になると、思っていた。散った足元をよく見ると、画像のように散っていた。昨日、今日は、花冷えより寒い。今日は、四月の21日。旧暦で、閏3月1日だ。この旧暦、三月が二回あつた19年前は、冷夏だった。ちなみにその年の7月の、日中の最高気温の平均は、27.8度、8月は、33.3度、9月は27.9度だった。この前年も、翌年も、7、8、9月とも、30度を越している。翌年の8月は、37.3度と、あるので、暑かったと思う。数字は、気象庁の気温デ-タ-を、用いました。異常気象とか、天候不順の一年だと考えている。
走り書きのひけらかし。「生祥-せいしょう-生きていることが、しあわせと」、読んだ。街の中で、浮浪者を見かけた。ぼろをまとい、両手に袋をさげ、帽子をまぶかに、うつむいて、立ち木に寄りかかって、立ちすくんでいた。何かの事情で、浮浪者になってしまったのだろう。大分前に、拙いブログに書いた物貰いは、あとを付けて行ったら、ガソリンスタンドに寄り、車でどこかえ行った。はじめに来た時は、かわいそうに思い、パンと、少しのお金をあげた。三度、四度と来ると、態度かずうずうしくなってきた。それで、あとをついていったのだつた。今回見かけた浮浪者は、どうやって、食べ物を得ているのかと、思うとむなしく思える。車を停めて,施しをすればと、思ったりもしている。昔に読んだ、文学書だと思う。著書名も忘れたが、「乞食の中にも、人格者がいるかも」と、有ったのを、記憶している。「総会屋、金城」の中に、乞食の親子に、金を届けさせ、恵んでやるくだりがある。妙に、浮浪者の姿が、頭に残る。
画像は、1970年に開催された、日本万国博覧会の記念のもの。万博の太陽の塔の理念に「太陽は人間生命の根源だ。惜しみなく光と熱をふりそそぐ。この神聖な核。われわれは猛烈な祭りによって太陽と交歓し、その燃えるエネルギーにこたえる。EXPO‘70シンボルゾ-ンの中心に、祭りの神格として「太陽の塔」をそびえたたせたゆえんである。」と、添え書きがある。箱の面には、三枚の証書が貼ってあるので、金、銀、銅で、メダルが作ってあると、欲目でみている。42年も経ているので、経年による劣化はある。このころから、日本国は繁栄していったのだろう。経済の活況と不況のサイクルは、40年と言われているので、そろそろ、景気も良くなるのかも。太陽の恵みをあらためて、感謝すべきなのだろう。
画像は世話になった、三代目の電話機だ。この機種は捨てるに捨てられない。販売店にで、処理してもらうしかない。携帯電話機を使いはじめた時は、NTTが、全国エリアで、使用が出来たときからだ。仕事で大阪や名古屋に行っていたので、連絡するには、ありがたかった。一番遠くは、岡山で通話をした。新幹線や、ス-パ-ひたちの、座席の指定席は、窓側にすると、受信をした時は、「すみません」って、隣の席の人に云って、立ち上がっていた。電話機は、勿論、無音の振動にしていた。別の話。ある時、「電話の基本料金が、500円から、2000円安くなるから」っと電話があった。「NTTの正規の代理店」だと云う。「ほかの電話番号をと」というので、「へえぇ、そんなに安くなるのげぇ」って、云うと、あわてて、「ガァチャリィ」って、切った。もう一つは、「東北電力保安協会だが、電気料金が、安くなるので、領収書の番号を」と聞く。「手元にないので、すぐに電話するから」って言うと、「ガチャリ」って切た。この手の受信をした迷惑電話の番号は、40件近く、登録をしている。二度と通話をしないことにしている。携帯の電話機の電話帳には、700件近く、登録をしている。同一の知り合いでも、固定の電話機の番号があり、携帯の番号があり、ひとつの取引先でも、課別にあったり、IPの番号があったりと、受信をした番号は、増えるばかりだ。記憶力低カの、スカスカの脳は、手助かっている。
先日、「素敵な年賀状ありがとう」って、電話があった。原発事故で、避難をしてきている人だった。故郷を離れてしまったので、懐かしく、ふるさとの我が家を思いだしているのだろう。画像の左側は、またまた、ひけらかしてしまいました。右側は、やはり避難をしたきた方から頂いた年賀状だ。半世紀も前に、パソコン画を描いた人だ。蒸気機関車を、三枚構成で、1枚目は、雪の山野のトンネルから出てきたところ。二枚目は、雪の平原を、煙をなびかせて、走り来るSL。三枚目は、動輪が、アップに描かれ、もくもくと、煙が吹きあがり、「仕事してんだぞう」って、感じる、蒸気機関車の絵だったのを思い出す。当時は、フロッピ-ディスクに、描きこんであり、フロッピ-デイスクを読み出すと、順ぐりと、画像が変る。当時、びっくりしたのを思い出す。当時、小生は、ならばと、文字を描いた。それが、拙いブログ、2007年7月に載せた。またまた、ひけらかしで、すみません。懐かしく思う時代のことだ。今のパソコンのことを、あと10年過ぎたとき、どんな風に、思いだすのだろうか。「生きているよぉ」って送る、1枚の年賀状で、人とのつながりの有りがたさを感じる、昨今でもある。