年々歳々花相似たり。鉢植えのが咲いた。五日前は、つぼみだった。別の四鉢は、葉が、緑緑していて、花は咲かないようだ。花相似たりの下の文は、歳々年々人同じからず。人の境遇は、年ごとに変わって同じではないということ。よわい八十三年生きている。ここのところ数年は、変化がない。これから先は、かなりの変化があるはずだ。自分の体は、差し迫って心配することはない。食べすぎないようにと、お医者さんから釘を刺されている。車の運転は、うっかりぽかが、あるかもしれない。左折の時は、レバーをニュートラルにするようにしている。アクセルの踏みすぎに注意している。先日は、二車線の左側を走行していた。すると、追い越していくのかなぁと思っていたら、並進をして、前方に割り込みしてきた。とっさに、急ブレーキを踏んだ。とっさの反応が出来た。貰い事故にならないようにしなければと。うっかりぽかを、自分で承知ができなくなれば、運転をやめるようにする。
午後3時24分ころ、サイレンけたたましく、街中の火事と、知らせた。窓をあけて、辺りをを見回しても、普段通り。ばぁちゃんを車いすからベットへ移している最中に、「町内で火事だぁ」と、電話がきた。「えっ」と外へでで、西の方を見ると、300メートルくらい先の、30メートル幅の通りの先の、もう一本先の角の建物だった。風が無くて良かった、黒煙が上方にあがり、一気に火の手が強くなった。放水は、手前の見えるだけでも、五.六本で、懸命な消火活動で、下火になりはじめた。街中の賑わいがある地区なので、無風状態で、本当に良かった。小生の所では、台所のガス台と、灯油暖房するところ、五か所に火災報知機を置いてある。在宅のばぁちゃんがいるので、設定はしてある。電池切れしてないか、念のために、手元の報知器のスイッチを入れて、試してみた。先の大震災の翌日、三月の十二日に、通りをはさんだすく近くで、火災が発生した。あの時も昼間だったなぁ。今日は、肌寒い。梅雨寒と云うこともあり、まだまだ、エアコンと併用して、灯油ストーブを使う。火の元に注意を、あらためてしている。
きのうのばあちゃんは、眠り続けていて、朝、昼、夜と、欠食だった。遅い時刻に、ポカリ160ミリリットルと、大きいカップのプリン一個を、食べたと聞いた。今朝のご飯は、普通通りに食べた。午後は、週に一回の点滴をしている。数日前、なにやら、ひとりおしゃべりをしていた。のぞくと、「あの世さ、行くんだぁ。あの世さ、行くんだ」と、言っていた。「あの世さは、千治じっさんと、おこうばっぱぁさんが、みちこぉって来るから、そしたら行くんだょ」と、二、三回言って聞かせた。でも、最後は、「この!ばかぁ!」と、一喝。「あっ、ごめんごめん。おしっこ、そこにしていいよぉ」って云って、ひとりにした。この一喝では、あと数年生きているようだ。一日一日が、延命としているので、あの世へは、笑顔で送ることにしている。それにしても、悪口は、はっきりと聞き取れる。
「喝 !」。 手造りのしおりに、貼り付けるかなぁと、隷書体、楷書体、行書体で、書いてみた。作ろう作ろうの気持ちが、ありありと見えてだめ。画像の中から、一つ選ぶ。しおりを作るのは、まだまだ先。またそのうちに、気分が乗ったら書く。国語辞典には、「喝」は、「禅宗で、ちかった考えや、迷いをしかったり、さとらせたりするときに発する叫び声」とある。数年前だが、画像の山門の寺の和尚さんと、雑談をしていた時「喝」の事を聞いた。葬儀で読経の最後に、「くわっ」と叫ぶ。昔かぁしは、侍をあの世に送り出すのに、この世の未練を断ち切る意味があるとのことだった。「喝」を思いついたのは、一喝するのもいいかぁ。たぶん、「徒然草」は、吉田兼好、臨済宗のお坊さんだったと、記憶している。間違っていたら、ごめんなさい。
一週間前、満開の桜を、カシャッとした。一筋の白雲、飛行機雲だぁと、アングルを変えようと、覗いてみたが早い。飛行機雲の先端が、撮れていたのはこれがいい。飛行機は北へだなぁ。仕事での人や、観光の人が、北へ向かっているのだろうなぁと。「北かぁ」と思いながら、数日前、ラジオの歌謡スクランブルを、ながら聞きしていた、「北帰行」の「窓は夜露にぬれて みやこすでに遠のく、---」と、頭の中に歌が流れてきた。いつの時代の頃の歌なのかと、ネットでみた。旅順高等学校の寮歌が、元歌のようだ。旅順はと、またネットをみた。先の大戦で、敗戦になり、ソ連軍が進駐してきて、接収され、廃校になったという。もの悲しい思いのするのは、異郷からの思いなのだろうなぁと。小生自身の、いろいろの思いのある、昭和の時代、平成の時代か終わる。小生の令和の時代は、ばあちゃんが、この世から別れ、自身も、よわい八十と三歳が過ぎた。高齢になって妻は、ばあちゃんの食事と深夜におむつ交換と、介護を続けている。子どもの時の病弱の影響があるのかも、腰が曲がってしまい、歩行もままならない。悲観が多い日日でもある。しかし、今、できることを、無理をしないでと、前を向いている。そして、「なるように、なるさぁ。先のことなど、分からない。ケ、セラせラァ」と、気負わずにしている。毎々、あっちゃこっちゃのことを書いています。ご容赦のほど。
画像は、使っていた硯。宮城県の雄勝硯。画像のものと手の平、半分ほどの大きさのは、写経の時に使っている。原石を、ぱぁかぁっと割った自然のものがいい。蓋に、図柄を刻したものもあり、硯のヘリが広くとってあって、そこに模様が刻したものも、好まれているようだ。日本各地に、硯の産地がある。その土地土地で、特徴があるのだろう。硯と云えば、中国の硯が有名なのだが、それは古硯のようだ。硯も、ご多分にもれず、人造硯の、安価の輸入品が多いという。写経の時は別として、墨を摺り。文字を書くことがなくなった。、
これも、「おかげさまで」に、綴った一文。定期の診察が終わり、帰りのタクシーを待っていた。「家ちゃ帰えっぺぇ」、「家ちゃ帰っぺぇ」と、何度も云う。「もうすぐ、タクシーがくるから」と、なだめていた。家に戻り、車いすのまま、廊下にあげてもらうと、見慣れた部屋で、よっぽど、うれしかったようで、大きな声で、「みちこさまがぁ、帰ぇってきたぞぉ。みちこさまがぁ、帰ぇってきたぞぉ。誰がぁ居ねぇのがぁ」と。自分でも、おかしかったので、大声で笑い、また、同じことを叫んで、大笑いをしていた。今でも、時々何かを、思い出し笑いをしている。
画像は、「お陰げさまで」に、綴ってもの。介護するようになって、10年が過ぎる。最初は、九十三歳に、大腸腫瘍の除去で、約二か月間と、一年後、高血圧症で、約二週間、その後、二回の脳梗塞で、約二か月の入院をした。それ以外は、見慣れた部屋で、車いすと、ベットで過ごしている。住み慣れた家が、落ち着くのだろう。今もおしゃべりをしている。でも、言葉がはつきりと、聞き取れない。静かだなぁと覗くと、もぐもぐもぐと、何かを、ひとり語りをしている。まだまだ、元気でいるようだ。
記念の小冊子に、綴り込んだ。今のところ、差し迫ったことは無い。食事も、美味しそうに食べている。拒食症状になった97歳頃の時は、飲み込む舌の動作が出来なくなっていたので、だめかなぁだった。口にごはんを入れてやると噛む。飲み込ませるのは、下顎のくぼみを、ちょっと押す。これがわかるまでは、頬をなでたり、こめかみを押したり、のどぼとけさすったりしていた。介護するようになって、一番困ったことだった。今は、「人事を尽くして、天命を待つ」で、おります。
テレビで、介護をしていて、パワハラを受けた人が、87%のひとがあるという。在宅のばあちゃんも、看護師さんに、ヘルパーさんに、悪態悪口をした。脳梗塞発症後に、ちからまかせで、困らせた。そんな時は、「知らんぷりして、無視して、相手にしないでください」と伝えた。「いつもいつも、すみません」と、平謝りをしていた。画像は、そんな気持ちを伝えたつもりで、百二歳の記念誌に載せた。悪態悪口を静めるには、この方が、一番の特薬だ。もう一つは、即効はないが、マッサージをしていた。眠る時間になっても、大騒ぎ。マッサージで、頭の転換を試みていた。あとは、ひとりでに眠りだすのを待っていた。今でも、時々、ベットに腰をかけさせて、背中のマッサージをしている。終わりに、肩から腰へ、肩から手先へ、すうーっすうーっと、なでおろすと、「うっうっうっ」と調子をとっている。気持ちがいいのだろう。ばあちゃんのパワハラは、力が無くなってきているが、まだまだ続く。終わりになる日は、知る由もない。
写経会で世話になっている方からの返信。ちよっと遠方から、また、かなり前から、閼伽井嶽の薬師常福寺へ、写経に来ている。前掲に同級生からの祝を載せた。同級生の交流の冊子に、いわきの伝説、鴨志田義康著から、赤井岳のこと、薬師常福寺の竜灯のことを綴った。その交流誌には、ばあちゃんのことを書き、綴っていた。それを「読んで」と、手渡したのが、始まり。それから毎年、ばあちゃんの誕生日には、プレゼントが送られてくる。ばあちゃんは徳人だぁと、感謝している。別のことだが、小生が写経会に出席し始めて数回行ったとき。写経を胸の前にかざしたのを、写真に撮ってもらった。新参者で、重苦しいなぁなんて、にわか写経をしていた。十数人の女性の中に、変な男が一人は混じったので、重苦しさはしょうがねぇなぁだった。まぁ一年は我慢をするかぁなんて考えていた。その写真のきっかけで、写経会を楽しみに、毎回参加している。
同級生に、百歳の記念の小冊子を送った。その時の返信を掲げた。昭和24年度、中学校卒業時の、同級生。級友は、48名だったと思う。現在は、20名と連絡は取れている。クラス会の幹事をしていたので、当時は、近況報告や、作句したもの、スケッチしたのを、綴り小冊子を作成して、送った。また、同期会で「追憶」と題して、の小冊子を二回作った。同期会のは、別の幹事が、原稿を依頼したものを取りまとめた。別の事を書いてしまいました。
いいばあちゃんのこと、ひとり布団にもぐっているので、淋しい気持ちがあったのだろう。元気だった頃は、着物姿で、家の前を掃除をしていた。近所の人に、「いつも ほうきを持って、掃除をしていたのだが、姿が見えないけれど」と、問われた。元気だった頃は、孫娘に、お年玉を、渡していた。それが、「ばあちゃん、お年玉、はいよぉ」と、手に握らせてもらって、嗚咽をしていた。今も、正月には、お年玉を握るのだが、不思議そうに見ているだけ。でも、お年玉だと、分かっているようだ。今も、機嫌のいい時は、いいばあちゃんでいる。