クラス会、会報第二号の表紙だ。未完成。裏表紙が、まだ、かたまつていない。今回は、画像の左側が、寄稿してくれた。中学校卒業以来、一度も会っていない。このほか、小論文が届いた。それも綴る。今回の禅語は、「手を把って、共に行く」。「四国遍路ゆ西国巡礼の旅人たちは、たとい一人旅であっても、同行二人と、笠に記す」とある。人は見えないところで、こころとこころが、つながっているある。今回の、二号目は「背戸峨廊」と、同級生が名をつけた。最終ペ-ジの思案が、もう少しかかる。月末、来月初めと、ちょつと、ばたばたとする。法要と、百歳の祈願があり、家の行事が重なっている。このため、刊行が遅れそうだ。発行部数は、同級生30部。卒業当時は、58名だったかなぁ。役半分の同級生が、歿したり、連絡がとれなくなっている。
夜になって、情報が送られてきた。市からの情報が、携帯電話に送られるようになった時から、受信をしている。最近は、パソコンにメ-ルでも、送られてくる。以前は、豪雨なのだがぁなぁって、水位情報をパソコンで、確認をしていた。勿論、今も山間部の降雨の量や、河川の水位の状態を見ている。ずうぅっと前に、ハザ-ドマップというのが、配布された。そこには、もし、市街地近くで、夏井川か、新川の堤防が決壊した時は、2メ-トルの高さまで、浸水するという。ずうぅと前に、町内の役員をしていた時、町内会に防災組織をつくると、指導があった。ようやく、組織ができた。その後、先の大震災、原発事故という災害が発生した。折角できた防災会も、まったく機能しない。水道が止まり、地震がおさまった直後に、湯船にかろうじて、水道管にたまっていた水を貯めた。翌日、水を求めていた時、町内会長が、両手に水をぶら下げて帰ってきた。「その水どこからもってきたの」と、問うと、「体育館で、給水している」という。防災組織の長であれは、当然、町内の皆に知らすべきだろう。あきれててしまった。大災害があった三月の12日からは、市役所で、情報を発信したので、取に行き、隣組に、隣の隣組ののみんなに、情報をコピ―して、配布をした。市からの情報が届くという安心感はあるが、自分の身は、家族の、在宅介護のばあちゃんの身はと、緊張感を持って、自己判断をする。このことが、大事なのだろう。
大粒の雨が、音を立てて降っている。夜半からが、河川の増水が気がかりだ。防災メ-ル配信の登録を済ませた。画像の本は、30年ほど前に読んだ。当時は、消費とお天気に関して、仕事に必要だった。最近、ペラペラとめくって読んだ。「神風」のことが。元冦の襲来。博多湾に上陸したが、夜戦をさけて船に戻ったところ、暴風雨にさらされ、逃げ帰ったこと。「文永の役」が、旧暦の閏七月一日のことだつたと。「弘安の役」も暴風雨が直撃して、侵入軍の先発隊が上陸しただけだったとか。本の中には、先の戦争の、昭和20年二月に、硫黄島を足掛かりにして、日本を爆撃して、上陸作戦を二回試みたが、冬の二月の低気圧が荒れ狂い、二回とも日本への上陸を断念したとか、書いてある。戦争中は、気象管制をして、日本近海の気象のデ-タ-は、電波にのせることをしなかつたとか。別の本には、「気象とインフレ」の項目もあり、あらためて気象のことが、興味深い。しかし、お天気はしょうがない。気象現象による、災害。それも、どうしょうもないことが起こる。絶対安全だという、原子力発電所を襲う津波や、地滑り。季節の変わり目の異常気象。今夜は、近くの河川の水位を心配しながらいることにする。
秋の彼岸のころ、撮った夕暮れ空。夕焼けを雲を、カシャカシャと撮っていた。夕焼けが終わりになり、雲の流れは早く、刻一刻と変化をしていた。あやしげな感じがする夕暮れだった。秋の夕暮れは、なんかもの悲しくかんじる。
かれこれ、64年前の卒業以来会っていない、同級生の句。七月にクラス会をした。その報告をしたのが、「夏の味」の表題の冊子。拙いブログに載せた。今回、秋号を作るべきか、やめるか、思案中。画像の、投句があったので、秋号がものになりそうだ。前回の夏号の冊子の、表紙の題名は、投句があった中から、「夏の味」にした。クラス会の直前、同級生が、男女一人ずつ他界したので、哀悼の手紙の文が、二ペ-ジ目。三ペ-ジ目は、クラス会欠席の一文。四ペ-ジと五ペ-ジは、「禅語百選」から、「両忘」、生いっぱい生きる意味のことば。六と七ペ-ジは、クラス会の様子の書いて報告。八と九ペ-ジは、同級の女性の俳句、八首。十と十一ペ-ジは、クラス会幹事の、俳句と、クラス会を読んだ句。十三ペ-ジと、十四と十五ペ-ジは、小生の在宅介護のばあちゃんが話す、ばあちゃんの同級生のことと、病院の待合室で、案内の看板を読んでいる様子を書いたのを、裏表紙は、からすなぜなくのの、「七つの子」の歌詞を書いた。秋号も、この様式で、作ってみたいと思っている。「禅語百選」に、「手を把つて共に行く」。「つくしんぼのように、どこか見えないところで、こころとこころがつなぎあっている」とある。このような冊子を作るのも、同級生という「糸」でつながっているのかもと、思っている。む
画像は、昭和6年、今から83年前に、発行されたもの。今の「いわき駅」前に、軒を並べていた商店の図。終戦末期の、三回の空襲によって焼失してしまった。この内の一回の空襲は、平一小への爆弾投下があった。戦後復興によって、現在は近代的な街になっている。ちょっと思い出して、「いわき市史」をぺらぺらめくってみた。戦災復興都市計画によれば、いわき駅は、菱川町あたりに移されるわけだった。先の震災のあとの、復興計画と、デフレ脱却のあと、消費税が上がる現代と、似ているなぁと思う。これから先、どんふうに、変化していくのだろう。