画像は、大阪万博に建てられた、太陽の塔の「未来の顔」。八月の頃だったと思う、NHKのテレビの「歴史探偵」の番組で、「太陽の塔」の事を、ながら見をしていた。画像のは、手元にあるメダルで、直径25mmの大きさで、経年の劣化をしている。未来の顔というので、我が身の未来を想像をしたら、彼の世の世界になる。彼の世に行くのは、明日かも、明後日かも、はたまた、一年後、二年後かも、その日は分からない。今は、まずまずと、暮らしている。まずまずは、そのうちダメになる。その後の顔は、画像のようであればと、思っている。健康も、いずれ、不健康になる。健康を維持して、過ごすのが、一番の願い。現世の事が、未来へと、つながると思う。「えんま様、地獄極楽よく調ぶ、悪事は出来ぬ、今の世の中」と、いうこともある。またまたの、支離滅裂は、ご容赦のほど。
前回、太陽の塔を載せた。画像は、太陽の塔の過去の顔。手元にあるのを、拡大をした。このような、「お顔」なんだぁと、眺めた。我が身の過去はと、自問をした。この世に生を受ける以前が、過去なのかも。両親、祖父母から、つながっている。祖父母は、小生が10才の、終戦の年に、相次いで、没している。親の転勤で同居していない。祖父の没した時は、六月の下旬。二駅間を、蒸し暑い汽車に乗って家に来た覚えがある。祖父との直接の接点はなく、一回、叔父が没した時に、祖父の生家に、電話をしたことがある。「そちらのお家から、分家した末吉の孫です。叔父が没したので、ご連絡しました」と。小生がゴルフをしていた頃、時々プレーしていたゴルフ場の、何番かの、ティグランドから、祖父の出所の集落が見えた。このことも話をした。祖母とは、ふた昔も前に、叔父と、祖母の出所の葬儀に参列をしたことがあ。現在は、代替わり、代々替わりで、接点は無い。小生が、この世のに生存する以前の、長い過去があって、現在があるのだろう。今、思えば、せめてもの義理を果たせたと、思っている。大過なく生存をしていることを、先祖様に、感謝。
七月頃だったと思う、NHKのテレビの、「歴史探偵」で、「太陽の塔」を、ながら見をしていた。太陽の塔は、現世と、過去と、未来の、三種の顔で、表現されているという。記念のメダルセットを思い出して、引っ張りだした。メダルセットの添え書きは、「太陽の塔理念」という表題。以下は、原文のままです。「太陽は人間生命の根源だ。惜しみなく光と熱をふりそそぐ、この神聖な核。われわれは猛烈な祭りによって太陽と交歓し、その燃えるエネルギーにかたえる。EXOP ’70シンボルゾーンの中心に、祭りの神格として「太陽の塔」をそびえたたせたゆえんである。岡本太郎」とある。画像の左は、「現世の顔」という。右側の上のは、「未来の顔」で、右下は、「過去の顔」と、テレビの番組で知った。「現世の顔」も、我が身の境遇であれば、然り。現実的な生活では、インフレ、物価高には、「爪に火を点す」とすればいいこと。老域になる十数年前までは、「稼ぎに追い抜く貧乏神」を、味わい、現在は、「老少不定」ー人の生死は予測できないーと、胆に命じて、人生の落ち目の道を、とぼとぼと行く。湿っぽいことを書いてしまった。でも、「未来の顔」になるような気持ち、「貧乏に花咲く」が、一番で、「貧にして楽しむ」、これが、わが身の顔になるのだろう。支離滅裂は、ご容赦のほど。
画像は、20日のNHKのテレビから。朝方、揺れを感じた。ゆらゆらゆらと、ちょっと長め。このまま、揺れが止まればと、思って念じていた。揺れが収まり、安堵をした。テレビのデーター放送で、震源地が、栃木県南部とあった。震源地としては、珍しいかな。地震の揺れには、敏感になっている。先の大地震のひずみが、続いているのかなぁ。画像では、約三時間あとに、岩手県沖を震源で、震度4があったが、ゆれは無かった。いつ起きても、おかしくないという大地震があると、言われている。備えがあれば、いいのだろうが、予測はできない。大地震が、真夜中に発生したら、停電。暗闇の中での動きを思うと、ぞおーっとする。最低限の、動くための明かりは、準備してある。最低限の生活は、何とかできる。原発事故が発生をして、強制的な避難だけは、ご免被りたい。世の中の、平穏を願うしかない。
昨日、四十二日が過ぎた。画像は、供えた花盛り籠。一週間ごとに、供えていた。四十九日が今度の日曜日なので、これが最後になる。本位牌の開眼供養も終わった。介護や医療関係への、支払いも済んで、普段の生活になっている。在宅介護が長かったので、ヘルパーさんや看護師さんが、毎日来て、ばあちゃんに話し掛けたりで、何かと、家の中は、にぎやかだった。最後まで在宅と覚悟をしていたので、その分は、それでよかった。直接世話をしていた妻は、手持ち無沙汰で、ぼおーっとテレビを見ている。それまでは、ばあちゃんの食事の事や、肌着の整頓、おむつの補充や、体拭きのタオルの整頓など、こまごまとやったいたのが、無くなり、空いた時は、今までの、いつもの今の時間の事を、思い出しているようだ。別の事だが、台風14号は、各地に被害を発生させていると、報じている。お見舞い申しあげます。当地方には、今夜半から、激しくなるようだ。数年前に、当居住地の北部に浸水被害が発生した。当時の深夜に、風雨が激しい中、水防サイレンが、一分間吹鳴し、休止、続いて、一分間の吹鳴が、不気味に聞こえて、とりあえずのものを二階に上げた。ばあちゃんを二階に上げる覚悟をした。ベットから、リフトで吊り上げ、背負いひもは、10メートルの晒の反物を使う。火事場の馬鹿力でと、考えていた。ネットで河川の水位情報を確認していた。一つの河川は、計測不可。別の河川は、水位が低下し始めているのを、約一時間ほど、確認をして、この場所は、浸水は無いだろうと、判断をしたものだつた。闇の中、消防車のサイレンが、絶え間なく、風雨の中に聞こえていた。各地も、大事にならないように、願っている。
画像は、月刊誌、NHKのラジオ深夜便の、9月号から、アンカーエッセー、後藤繁榮記の、「常磐ものは冗談ぬきの美味」の冒頭。「常磐もの」は、福島県沖のさまざまな魚のこと。いわき市の鮮魚店で、地元産の魚の美味さを、アピールしている。小生の一番は、寒い時期に食べる「めひかり」。一夜干ししたのを、さぁーっと焼いて食べる。鮮魚店目利きのなので、格別。思い出の魚料理は、近年は、食べられない、サンマの「ポーポー焼き」。これは、ばあちゃんの得意料理だった。さんまを叩き切りして、刻みネギを和えて丸めて、平たくして、両面をこんがりと焼く。醤油をちょろっとかけて、熱々のを食べる。また、ばあちゃんは、料理上手で、アンコウを丸ごと買って、白身の酢味噌あえ、茹でたネギを添えての、一品は、思い出深い。ネギは、数年前に自家消費の分を頂いたのが最後だった。アンコウ鍋の味噌は、ばあちゃんの実家の自家製のみそ。味噌玉にしてあったのを手でほぐし、米麹と塩を混ぜ合わせて、味噌桶に寝かせる時は、「味噌作っから」と、連絡があり、味噌つくりに行った。大分前のことです。かつおの刺身は、「ひやま」のをと、指定して鮮魚店へ注文をした。カツオの半身を、藁を燃やしての直火であぶった刺身は、畑から採ったすぐのニンニクを摺りおろしたの、醤油で食べる。これも、天下一品。今は、もう懐かしむだけです。月刊誌の、ラジオ深夜便は、だいぶ前に、午前一時からの、「話芸百選」や、「昭和の漫才を楽しむ」の録音のためだった。ラジオ番組は、今も放送をしている。
画像は、百歳の記念の小冊子を見ている顔。日曜日に、五七日の墓参をした。長年続いた介護の方たちの、訪問が無くなった日々に、なれてきた。夏場の疲れと、没後のあわただしさの疲れが、まだ残っている。週末には開眼法要がある。七七日の法要は、済んでいる。月末頃は、気持ち的には、落ち着くのかも。記念の小冊子を作るようになったのは、在宅介護が始まって、時々、顔を覗きにいくと、話しかけてきた。その頃は、まだ仕事を継続中で、昼間に一回、夜に一回と、様子を見ていた。夜のご飯の介助を時々していた。その頃は、よくお喋り聞いていた。看護師さんに報告をする、食事の量と水分の量の一週間の表に記入をしていた。表の裏側に、お喋りを、走り書きしていた。それらをまとめて、冊子を作った。印刷は、仕事で使っていた小型のカラープリンターで。画像のことは、ばあちゃんが自分の写真をみていたのを撮った。おしゃべりは、話しかけると、楽しいことや、テレビのお笑いや、頭のスイッチが入り違うと、悪態もあれば、悪口もある。悪態や悪口は、ヘルパーさんや看護師さんには、甚だ迷惑のことだった。「ばあちゃんのストレス解消なので、すみません」と、謝った。ばあちゃんが、「なあーんにも、なぐなったぁ」というのは、何度も聴いていた。戦中戦後の、貧困の時、わが身の嫁入りに持ってきた着物を、一枚二枚で、食べ物を、物々交換をしていた頃の事。娘時代だけの二枚残ったとか。終戦近くの夫は、年俸、100円だったと聞いた。別の事だが、数年前に、この時の在職が知ったので、年金事務所で調査を願ったら、年金加入期間が、三か月と記録が残っていたと、連絡があった。
昨晩は中秋の名月。初秋の日暮れは早くなっている。月の出は、雲間に見え隠れしていた。雲の切れ目をカシャッとした。月明かりが、雲に反射している。小生のカメラでは、お月さまを撮れない。もう一段上の望遠レンズが、欲しい、けど、高額になる。リコー製で撮ってみればよかったかも。電池切れしている。旧暦の八月十五日が、中秋の名月。来年は、20日ほど遅く、九月29日になる。月を愛でる、十三夜は、10月8日になる。別のこと。九月九日は、「重陽の節句」とある。易学で、奇数の数字が、「陽」なので、「九」が重なるので「重陽」というとか。詳しいことは、分かりません。一月一日。三月三日。五月五日、七月七日をみれば、なるほどなるほど。季節を感じるには、旧暦の日付けと思っている。早めに秋を、初冬を感じるのかも。
没後三十二日になる。供え花を、新しいのにした。前回、一対を注文をしたら、何かあったんですかあと、花屋さんに問われた。せめて四十九日までは、花は盛篭にしようと。看護介護の、今月分の支払いがあるので、事業所さんがくる。きれいな花を飾っておく。下記は、以前にも載せた。「見送り」と題しての一文。脳梗塞の治療が終わり在宅介護が、九十五才頃から始まった。晩秋のある日。見舞いに、三女夫婦がきた。長座卓を囲んでの談笑に、ばあちゃんも車椅子に乗ったまま、皆の話を一緒に聞いていた。「ばあちゃん」と、時々話はをかけられても、うなずいているだけ、ぼんやりとしているのを、「眠むてぇんだっぺぇ」と、云っていた。帰り支度で席を立つ娘らを、目で追っていた。「ばあちゃん、元気でねぇ、また、来るからねぇ」と、声をかけられると、うなずいていた。見送りは廊下で、手を握られ、声をかけられいも、うなずいていた。ゆっくりと走り去る車に、五回六回と、手を振っていた。車の窓からの手の振りも、見えなくなった。晩秋の日暮れは早い。赤いテールランプも見えなくなっても、ぱあちゃんは、手を振り続けていた。そおっとそのままにしておくと、また、手を五回六回と、車が見えなくなったあたりを見つめ、また、手を振っていた。夕闇が濃くなり、「あっちえ、行くべぇ」と、声をかけると、口をへの字にして、涙がほほを伝わって流れていた。パジャマの袖で、涙をぬぐい、嗚咽をしていた。脳梗塞でも、頭の中では、娘に逢えない寂しさが、つのっているのだろう。ーー百歳の記念の小冊子からーー。
画像は、ばあちゃんの思い出の品。アルバムに挟んであった。尋常高等小学校高等科第二学年、昭和四年とある。帝国普通教育会とあるので、全国の展覧会に出品した時のもの。ばあちゃんが、旅立ってから、ひと月になる。下記は、百歳の時の記念の小冊子に綴り込んだものです。題は、「世話かけるねぇ」九十五才のころ。「ばあちゃん、ご飯だょお」と、お盆を持っていくと、「おれは いい、おれは いい」と、手でも遠慮する。「これは、ばあちゃんの分、皆ぃんなは、あっちで食べっから」と、言い聞かせる。スプーンを使い口いっぱいに、頬張る。「ゆっくり食べんだょお」と声をかけると、「世話掛けるなぁ」という。食べている間、ずうーっと、目をつむっているときがある。「眠むてぇのげぇ」と聞くと、首を横にふる。「何か考えてぇんのげぇ」と聞くと、「いろいろ」と、ぽつり。ある時は、口をへの字に、泣きべそをしていて、ほおばったまま。口を、とんがらかして、こらえていた。ぽろぽろぽろと、涙が頬をつたわって落ちる。「泣くさんなぁ、大丈夫だから」と、肩をとんとんとんとしてやると、うっうっうっって、泣き出してしまう。自分の不甲斐なさを、悔やんでいるのかも。食べ終わり、「器、下げっかんねぇ」というと、「ごっつぉさん」と。「お粗末さま」で、器をさげた。ーー脳梗塞のあとのことーー全介護になった自分を、考えていたのかも。
没してから、七日毎に、墓参をしている。四十九日までは、霊魂が、名残り惜しい期間のようだ。葬儀の後に引き続いて、「三七日」の七日毎の供養も、済んでいる。気分的には、まだまだと、感じている。本位牌を仏壇に納める日、四十九日になれば、落ち着くのかも。神棚封じの半紙を、取り除く。神社の参詣も、いいようだ。普段通りの生活をしていい区切りの日が、「七七日」という。「百か日」は、気持ちの整理を終える日とのこと。区切り区切りでの法要で、気持ちが落ち着くのだろう。一年間は、慶事は控えなければならないともいう。
画像は、八月の、小名浜と山田の、気温のグラフ。グラフの上段は、発生した日中の最高気温の比較。赤色で塗布した上側の折れ線の上側は山田で、下側の折れ線は小名浜。グラフの下側の青く塗布した下側が山田で、上側は小名浜。観測点の小名浜と山田の、日中の最高気温の値の差と、最低気温の値の差を、比較してみたもの。小名浜は、海洋性で、山田は、内陸性なのかと、勝手にみた。最高気温が、30度以上の日は、山田では、16日あり、小名浜では、7日だつた。最低気温は、青く塗布したのを見ると、山田の方が多い。んだなら、どうなんたぁと、問われても、んだなぁです。お天気の事は、報じられてるようになる。季節の訪れは、早いだろうと思う。冬の訪れも早いかも。来年の春の訪れも早く、でも、だらだらした春で、梅雨いりも梅雨明けも、ずれて長雨が続くのかも。あたり外れは、ご容赦の程。