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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 160 日本軍後退

2023年02月19日 18時58分21秒 | 貧乏太閤記
 陸上部隊は有利のまま水原の目と鼻の先まで、攻め寄せていたが全州で秀吉からの使者である奉行を交えて軍議を開いた。
奉行が命令書を読み上げた、「前線にある部隊は、別紙の配置書のとおり任地に向かうこと。 
任地では在地の賊の集団(義兵組織)が組織されぬよう、在民に褒美を取らせて、山に隠れている両班、役人、軍人の情報を得よ、それらをことごとく切り捨てること、それらの家族も家来もことごとく殺すこと。
一般の朝鮮農民や市民は労働力として大事に扱い、危害を加えるわが兵士がいたら捕えて、厳しく罰すること
在地農民は収穫に励むよう申し渡し、日本国内同様に年貢を収めさせること」などという内容であった。 
日本軍は大名ごとに割り当てられた任地を目指して南下していった、その任地は全て、全羅道であった。
秀吉は、文禄の進軍で多くの兵が、病と寒さと飢えで死んだことを踏まえて、秋口になった今、軍を南部の全羅道、慶州以南の慶尚道にまで南下させて、そこで冬をやり過ごす作戦にしたのだった。
 そのため、南部各地に倭城の建設や改修、防御固めを命じた、今度の遠征は朝鮮全土侵略よりも、確実な占領地の足固めを重視したのだった。
秋口から年明けにかけての日本軍の仕事と言えば、すべて城普請であった、朝鮮人も駆り出されたが、日本の徴兵された農民や足軽まで過酷な労働を強いられて各地で城が築かれ、補強されていった。

「どうやら日本軍は全州にはすでにいないのではないか」、漢城の明国軍の司令官は偵察兵を送った
「日本軍はもぬけの殻で、羅州周辺から南部一帯に城を構えて籠城しています」と返事が戻って来た。
「そうか、冬に備えて戦線を凝縮したのだな、それならば慶州方面も同様であろう」と、こちらにも偵察を出すと
「星州に、多少の兵が籠り、その先の尉山城は未だ建設中です」という報告だった。
「よし、まずは星州を奪い返すのだ」
わずか数百の城兵しかいない星州城は、たちまち陥落して守備兵は戦死、蔚山方面への撤退、あるいは投降して捕虜になった
その勢いで朝鮮、明国の連合軍は蔚山城を目指した
星州(ソンジュ)から蔚山(ウルサン)までは約100km少々、数日後には大軍が押し寄せてくる
「急げ、急いで総構えの竹垣を作れ、穴を掘れ、土手を築け」突貫工事をしていたが、蔚山の防御態勢は整っていない、食糧備蓄も僅かである今攻め寄せられては万事休すである
「おお、殿様が参られたぞ、みな元気を出して励め!」
加藤清正が西生浦城から一隊を率いて海上からやって来た。 12月22日朝鮮軍が先陣を切って攻め寄せてきた、城外で加藤軍の中隊が迎え撃ったが、あっという間に突き崩されて三の丸に逃げ込んできた。

城方は工事中のこともあり1万の兵がいたが、攻め寄せる側は朝鮮軍1万有余、明軍5万にも及び、朝鮮の将軍は都元帥権慄、明の大将は麻貴(マーグィ)である、権慄は今までも何度も日本軍と戦った、朝鮮陸軍の名将である
 
戦うたびに、日本軍の兵士は減っていく、捕虜になる者も出ている
急な朝鮮、明軍の到着で、兵糧も水も貯えが少なかった、早くも兵糧、水が切れて、更に朝鮮の凍える冬が始まったので寒さもまた敵であった。
「とてもこのありさまでは抵抗もこれまでじゃ、いっそ押し出して血路を開き、西生浦まで撤退するか」
大将の加藤清正さえ弱気になるほど、この状況は酷かった
籠城して五日目からは、みぞれや霰が激しく降って、鉄砲も使えない
明・朝鮮軍は、城内の様子を捕虜から聞いているので、あえて攻め寄せず兵糧攻めの包囲に変えた。
だが「近くの日本軍が救援に動き出すようです」という情報が明軍に入ってくると、逆包囲の恐れが出てきた
「敵の後詰が来る前に開城させよう」と言うことになった
白旗を持った丸腰の兵が二の丸門に近づいてきた
「城中の皆様方、これまでででござる、投降なされよ、されば食い物も水も与えると明の将軍は申しております」と日本語で言った
「なんだ、あれは味方ではないか」「おお、日本人だ・・・まてまて、あれは岡本ではないか、捕虜になったのか」
まさに、数日前に行方不明になった、味方の侍であった
「明日の昼までに返事をせよとのことでござる、もはや戦い続けるのは無理でござる、どうか投降なされよ」
「腰抜けが!」城中から鉄砲の音が鳴り響き、命中はしなかったが弾丸が使者の近くをかすめた、慌てて使者の岡本らは朝鮮陣に引き返した。
「殿、どうなされますか」重臣が清正に問うた
「・・・」清正も今までの元気が失われている、何よりも寒い、寒すぎる
日本の雪の寒さではない、切り裂くような、突き刺すような凍える寒さである、空気は乾燥していて、吹く風が手を凍えさせ、刀をも自由に操れない
鉄砲玉を込めることも難しい、それが氷雨になるともはや指は凍傷になりかけ、わらじの足指は感覚がない。
もともと年じゅう温かい九州武士ばかりだ、寒さに慣れている奥羽・北陸の武士の比ではない
しかも飲まず食わずで4~5日が過ぎている、馬も食った、かって豊臣秀吉が鳥取城などで敵を干殺しにしたやり方で、今は日本軍がやられている
加藤清正も、そのときには参戦していて、骨と皮だけで出てきた敵の惨状を見ている、(儂らも、あのようになってしまうのか)

 蔚山から海岸沿い15km南下すると西生浦、さらに海岸に沿って下ること30kmで釜山に着く、蔚山から35km南西に梁山、釜山までは40km 梁山から更に南西に20kmで金海、それぞれに大名の軍団が駐屯している
その諸将がただならぬ蔚山の様子を認識するのに5日かかった、直ちに諸将は連絡を取り合って兵を持ち寄って救援に向かうことが決まった
総大将は毛利秀元として毛利軍のうち3500を率いた、そのほか黒田、蜂須賀、鍋島など十いくつかの大名が、総勢1万数千の救援部隊を編成した
「我らは、急ぎ蔚山に向かうが、間に合い次第巨済島以西の軍にも第二次の後詰を願いたい」と伝令を走らせた。

 「味方は必ず救援に来るであろう降参はせぬ、城も明け渡さぬ、だが降参するふりをして返事を伸ばして時を稼ごう」清正はそう言った
海から逃げる手もあるが、海岸方面までびっしり包囲されて、船も抑えられてしまった。
包囲から一週間がたった、加藤清正が時間稼ぎをしていることにようやく気付いた明軍は、朝鮮軍を先陣に総攻めを開始した
三の丸はたちまち打ち破られて、50、100と加藤軍兵士が打ち取られた、そして二の丸に籠ると、鉄砲を撃ちかけて激しく抵抗した。
攻め寄せる朝鮮、明軍は攻めあぐねた
「今ぞ門を開けよ、打って出るぞ」一斉に押し出すと、朝鮮軍の中に切り込んで、敵を三の丸から追い払い、また二の丸に籠った
朝鮮軍は数百の死者を出して城外に逃げた、しかし、その後も何度も攻め寄せたがどうしても二の丸破ることが出来なかった。
12月の26日過ぎから、西生浦城に救援部隊が集まり始めて軍議を開いた、年が明けた2日にはあらかた出そろい、いよいよ蔚山に出撃した

                     朝鮮の騎馬隊



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 159 激戦!

2023年02月18日 17時12分31秒 | 貧乏太閤記
 捕虜も数百に達したが、それらの多くは市民の男女であった、兵士で生き残った者はほとんどなかった。
戦のあとの処理が行われた、日本軍の武士は国内では敵の首を取って、それを大将に見聞してもらう。 名のある兜首を取った者は勇士として大いに称賛され、出世も叶う、ところが朝鮮では取った首を秀吉に見せるために少なくとも10日間の日数がかかり、その間に腐ってしまうし、塩漬けにしても数人ならともかく、数千の首を塩漬けで送るのは不可能だ
そこで鼻を削いで討ち取った敵数の証として、部隊別に名護屋へ送った
この日、送った鼻は5000を越えたという
捕虜の多くは女で、男たちはほぼ全員が殺された、捕虜は名護屋に船で送られた。

 文禄の戦では、朝鮮全土を制圧したのち、明国に攻め込み北京の王宮、紫禁城を占領して大明国を従えると言うのが、目的であった。
だが予想以上に朝鮮は奥深く、気候までもが敵となって占領した平壌、漢城も手放して、南に撤退するしかなかった。
 秀吉は今度の渡海の目標を大幅に変えた、明の占領はおろか、漢城も占領しようとはしない、「忠清道」「全羅道」「慶尚道」から明と朝鮮の軍を追い出してしまえば目的は達成されたという。
「日本は、その気になれば、ただちに朝鮮など占領できるのだ」と言うことを知らしめることで良いのだと。
そのためには全州は何が何でも攻め落とさなければならない、小西たちの軍は北進を続けた、全州に近づいて物見を出すと意外にも
「もはや全州城に敵は一人もおりませぬ」という報告であった
兵数が足りず、今度の日本軍の残虐性が前回の比ではないとの噂が広がっていたから恐れて逃げ出したのだった。
確かに、小西行長の攻撃性は文禄のときとは全く違う、情け容赦ない攻撃で焼き尽くし、殺しつくすように家臣に命じている
これは秀吉に殺されそうになったトラウマであろう、秀吉が甥の秀次さえも一族皆殺しにした恐怖は、小西のような戦大名さえ恐れたのである
敵を皆殺しにすることが、秀吉の歓喜ではないかと思ったのではないだろうか
ともあれ全州は戦わずして日本軍に落ちた、続けて入城してきた東軍もここで合流して、次の作戦を秀吉直属の使者が、攻撃軍を手分けして公州、天安、清州、忠州まで進出して黄海側の忠清南道を制圧することを命じた
毛利、黒田隊35000は破竹の勢いで、公州(クンジュ)、天安(チョンアン)を占領した。
この勢いに怖気づいた明国の将軍たちは漢城、水原(スウォン)まで下がって兵を集中させたが、日本軍も安城(アンソン)まで進出してにらみ合いとなり、ここが軍事境界線となった
安城から水原まで40km、水原から漢城まで30kmだから、朝鮮にしてみれば喉元に匕首をつけられたような状況だ
ここを破られれば、漢城は再び地獄の都となるだろう。
水原は約200年後に「イ・サン」で有名になった「正祖」が別邸として広大な城「華城(ファソン)」を建設する町である。
安城、水原の中間のチタサン、竹山(チュクサン)で戦闘が行われたが、戦力は互角で勝敗がつかなかった。

 一方、朝鮮水軍の総督、元均元帥が戦死して大敗した朝鮮水軍は指揮官を失って意気消沈していた。 そこで再び李舜臣将軍の復権の声が上がった
「あいつだけは絶対許さぬ」と言う西人派官僚を、光海君が叱り飛ばした
「国難の時に、西も東もない、今は日本軍を朝鮮から追い払うためには皆一体となって立ち向かうしかないのだ、敵を利するようなものは国賊として、成敗する」と脅したので、ついに李舜臣は牢から解放され、再び朝鮮水軍総督となって復帰した、しかし元均の敗北で、多くの軍船が失われていた
それでも李元帥は、9月半ばわずかに残った数十隻の軍船を率いて、朝鮮西岸を狙う日本の水軍を迎え撃った、その数は大船は僅か10隻そこそこで、全部でも50隻に満たない貧弱な水軍であった。
一方瀬戸内毛利来島水軍を率いたのは、黒田長政と藤堂高虎、脇坂、来島であった、その数は150隻に迫る大軍勢である
早くも日本の大船団を見た、朝鮮の水夫は怖気づき船足を止めた
日本軍は「見よ! 先の戦で沈めた生き残りがやって来たぞ、これもみな沈めて全滅させようぞ」と意気込む
そして珍島と本土の岬の狭い鳴梁海峡に、縦列になった日本軍船が滑り込んでいった、朝鮮水軍は海峡の西で凍り付いたように動かない
だが、ただ一艘だけ海峡に突入してきた、そして先頭の日本船に大砲を撃ち込んだ、船首下に被弾して大穴が空いた、また一発、それは甲板を突き抜けた
そして指揮をしていた大将の一人、来島通総を破片が突き抜けて即死した
早くも緒戦で日本の指揮官の一人が戦死、船も浸水して傾いた
後続の船も潮の流れに巻き込まれて操縦がままならず、臨船と衝突した。
この朝鮮の船の中でただ一隻戦っていたのは、李元帥の旗艦であった
これを見た、朝鮮の各船は一気に勇気百倍となって動き出した。
他の大船も大砲を放ち、小舟は潮の流れをうまく使って、複雑な岩場を潜り抜けて日本船に近づいては弓を放つ、乗り込んで切り合いになる
日本の船は慣れない狭い海峡にひしめき合って、運航ままならず衝突して大破したり、座礁したりするものが増えてきた。
それでも勇敢に敵艦に飛び移り、白兵戦となると圧倒的に日本軍が有利であった、しかし全体を見ると日本が不利で、監察士官までもが海に落ちて危うく戦死しそうになったりと不利であった。
「これではままならぬ、退却じゃ」ついに黒田長政の命令で日本艦隊は戦場を離れた、朝鮮が有利であったが大海に出てしまえば小細工も効かず、数に勝る日本軍が有利になる
朝鮮軍は追撃をあきらめて軍港に戻った、日本艦隊も釜山に近い、熊川まで引き上げて体制を立て直すことにした。
損害は日本軍の方が多かったが、朝鮮水軍はもともと数的に少なかったので、次回に戦える船は僅か30艘ほどまで減っていた
一方、黒田らの艦隊だけでもまだ100艘ほどあるし、釜山周辺の九鬼ら本隊は200艘も無傷で待機している。
後日、日本軍はあらためて南海を西に進んで行ったが、もはや李舜臣の艦隊は南海から、西海岸に移動してそこで防御線を張っているだけであった。
結局、南海の制海権は日本軍が奪ったが、明国の水軍が南下してきたという西海岸には進出できなかった。

              李舜臣将軍



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 158  慶長の役はじまる

2023年02月17日 17時38分44秒 | 貧乏太閤記
 それから半月ほどで慶長2年(1597)になった
続々と諸将は釜山周辺の城に、それぞれ向かった
加藤清正は西生浦城に入ったが、秀吉からは「戦を急いではならぬ、戦の前に明との交渉を続けよ、朝鮮の王子を約束通り日本に送り、朝鮮が従属するならばそれ以上を求めるものではない、そのように交渉せよ」と命じた。
秀吉は未だ、明国との交渉をあきらめていなかった、ようやくここに来て、朝鮮での戦争よりも、秀頼を次期関白としての足固めをしようと考え出したのだ
が、朝鮮出兵をしなければ明や朝鮮に足元を見られて、場合によっては今度は対馬を占領されて、九州に攻め込まれる恐れさえ出てくる
ここは名誉ある撤退をしなければならなかった、「おまえたちが秀吉に従ったから兵を引いてやる」という形で終わりたかった、そのためにも朝鮮王子が日本へ人質として来る必要が不可欠だったのだ。
実のところ、明国も日本が撤退すれば自分たちも撤退する気であった、戦争をするにも金もかかるし犠牲者もでる、朝鮮に義理を張って金も兵も失い、得る者が何もないのだから、やめたいのは本音であったろう
だが朝鮮は、そうはいかない、「王子を人質に渡して従属せよなど認めるわけにはいかぬ」王家も軍人もみなそう思っている
明国にしても、朝鮮が明を離れて日本に従属されては困るから、朝鮮を応援するしかない。
 秀吉は朝鮮の考えが改まらないことに業を煮やして、本格的な攻撃再開を開始する。
2月には陣立てを発表した、総大将は小早川秀俊(秀秋)で、従う大将たちは
加藤清正、小西行長、黒田長政、鍋島直茂、島津義弘、長曾我部元親、蜂須賀家政、脇坂安治、毛利秀元、宇喜多秀家、大田一吉など36将、総勢15万である、文禄の役とほぼ同じで、九州、四国、中国の大名で編成されている。
既に加藤清正と小西行長、宗、松浦、大村など肥前、肥後の部隊15000が渡海して守備しているが、他の諸将は追々出撃して、5月にはあらかた渡海するよう命じられた。
 一方、日本の動きを察した朝鮮も、すぐに明国に救援の使者を送った
同時に文禄の役で活躍した権慄は元帥に昇進して、漢城および京畿道一帯、朝鮮王直属の総司令官として権威を得た。
そしてまずは日本軍の水軍を前回同様に妨害するために、実績ある李舜臣(イ・スンジン)将軍に出撃を命じた、ところがまたしても東人派と西人派の争いが勃発して、西人派が権力を持つと、東人派の元左議政、柳成龍(ユ・ソンニョン)が失脚した、李は柳の推薦で将軍となった人物だったので、連座して突然投獄された。
水軍の総司令官は、文禄の役で尉山の水軍基地を放棄して真っ先に逃げた、元均(ウオン・ギュン)将軍が指名された。

 日本軍が渡海する前に、加藤と小西が外交ルートでぎりぎりまで交渉するように、秀吉に命じられている
だが交渉内容は同じであったが、最初から朝鮮攻撃のスタンスが異なる二人は、交渉のスタンスも違っていた。
加藤は交渉決裂なら、武力で朝鮮を奪うという文禄の役の繰り返しを前提として、強く出る交渉をした
一方、小西はできる限り互いに妥協して、平和裏に解決したいというスタンスだった、このような消極的な小西を加藤は軽蔑して「これでは、話はまとまっても、朝鮮や明は実行などいたしませぬ」と、大坂の秀吉に書き送っている
秀吉も、小西に対し、「皇子の来日と、南四道の引き渡しだけという妥協をしているのだから、それは絶対譲ってはならぬ」と書き送った。
この時、加藤清正と惟政との会談で、互いのトップの言い分が正反対であることがわかった
 偽書状事件では日本では既に小西は許されて、朝鮮戦線に送られたが、明の方では直ちに沈は捕えられて北京に護送された、怒った万歴帝は最も残酷な八つ裂き刑を命じて、沈を処刑した。
日本では徳川家康らが必死で小西の助命をしたが、明では誰一人として沈をかばう者は居なかったという。
結局、交渉は6月までかかったが物別れに終わった、交渉が長引いたので名護屋に集結していた軍団が朝鮮に上陸したのは7月から8月になった。
そして8月、日本軍は東軍と西軍の二方面作戦で、北上を始めた。
明軍もこれに呼応して、大軍で南下を始めた。
海上では7月半ば巨済島を中心に、藤堂高虎らの瀬戸内水軍が、元均の朝鮮水軍と激突して、元均将軍が戦死するなど、一方的に日本水軍が勝利して制海権を握ったので、兵員や物資の輸送も容易になった。
朝鮮は水軍の名将、李舜臣将軍を、政治の対立で投獄したことが敗因となった。

 今度も先鋒隊は肥後の国を二分している、小西と加藤に任せられた
どちらも文禄の戦では、命がけで奉公したにもかかわらず、秀吉に叱責されている。 小西などは磔刑にされそうになったくらいである。
「見ていろ!」という気持ちは当然ながら二人共持っている、そしてこの二人はいつもいがみ合っているから、この度の先陣争いも熱が入っている。
 それぞれは侵入経路が異なるが、最初に目指すのは全羅道の要衝、南原(ナmウォン)であった。
秀吉はこの度の軍は総大将を小早川隆景の代理、小早川秀俊(秀秋)として、釜山に置き、東軍の軍団長は3万の大軍を率いる、毛利秀元が務める、これは毛利輝元の代理である。 
西軍の軍団長は、備前勢1万を率いる宇喜多秀家が命じられた。 加藤は家臣1万を率いて毛利に、小西は家臣7千を率いて宇喜多に属して、それぞれの先駆けとなっている。
日本軍の攻撃目標が全羅道であることが明らかになると、揚元将軍率いる明軍5千が朝鮮守備隊を支援して南原城に籠って、日本軍を待ち受けた。
日本軍は小西を先陣に南原城の東西南北すべてを包囲して、蟻の出る穴さえないようにした。
 城内には兵士だけでなく、南原の朝鮮人市民も千ほどが籠っている。
日本軍は数万で取り囲んでいるので、城内に向けて降参することを勧めたが、楊元はこれを拒んで、徹底抗戦する決意であった。
三日後の早朝から、日本軍は城内に向けて、大砲、鉄砲、弓矢を射かけてから、四方の城門めがけて堀を渡り突入を企てた。
城方も必死に城壁から石を落し、鉄砲、弓矢で応戦する
しかし、ついに城門の一つが破られ、そこから数百、千の日本軍がなだれ込んだ、中には広場があり、さらにその奥に本丸ともいうべき城塞がまたしても待ち受けていた、だが広場で迎え撃った、明、朝の兵はたちまち討ち取られ、本丸の門も圧倒的な日本軍によって破られ、明や朝鮮の将軍は日本軍の中に血路を開くしかなかった。
 楊元将軍は、部下に幾重にも囲まれて馬で城外を目指した、たちまち槍で突かれて外側の兵から倒されていった、何とか城外へ出た楊元は運よく逃げおおせることが出来た、しかし朝鮮の司令官や武将はことごとく討ちとられた。





空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 157 偽文書露呈

2023年02月16日 19時04分30秒 | 貧乏太閤記
 堺を発つとき、見送りに来た僧侶に明の使者は「あいすまぬ、もう一通挨拶状があったので、これを後ほど太閤殿下に渡していただきたい・・・単なる外交辞令であるから急がずともよろしい」と手渡した。
「間違いなく、受け取りました、では皆さま道中お気をつけて」僧侶たちは笑顔で使節団を送りだした。
 秀吉に、この文書が届いたのは翌日の夕方であった、京、大坂と目まぐるしく動き回る秀吉の所在がなかなか掴めなかったのだ。
全て漢語で書いてあるから、秀吉は読めない、そこで西笑承兌を読んで訳文させて聞いた。
 西笑は、読み進むうちに顔が青ざめていった
「殿下!これは由々しき事態でございますぞ」
「何事じゃ、手が震えておるが」
「明の万歴帝は、我が国に降伏などしておりません」
「なに! 何じゃと」
「降伏どころか、殿下が明国に降伏したと書いてあります」
「ばかな! この前の使者が持ってきた文書には明が降伏したと書いてあったのだろう、そなたが読んだではないか」
「いかにも、あの文書にはそう書いてありました」
「まさか、あれは偽文書か? 他には何と書いてあるのだ」
「殿下を日本国の王と認めるから、これからは大明国皇帝に忠節を持って勤めよ。  毎年、大明国に朝貢せよ。 朝鮮にある倭城は全て破壊して、朝鮮国は朝鮮人に返還せよ、日本の軍は全て帰国させよ」と書いております。
「なんだと! すぐにこの文書の真偽を確かめよ」
 翌朝には、面会の時の文書は偽物で、あとからのものが本物であることがわかった
「おのれ、儂をたばかったか! これには小西行長が一枚かんでいるに違いあるまい、すぐに名護屋に呼び戻して謹慎させよ、取り調べて返事によっては斬首に処すかもしれぬ」
ついに小西と沈の企みはバレてしまった
「治部少をこれに呼べ」三成はすぐにやって来た
「治部少、朝鮮へ攻め込むぞ、明も朝鮮も日本と和する気など無かったのじゃ、詳しい話はあとで聞かせる、まずはこの手紙を尉山の加藤清正に届けよ
間違っても小西には悟られるな、小西は儂を謀った、許さん! 名護屋に召喚させた」
秀吉は、かって徳川家康と対談した時、家康から「交渉の時間がかかりすぎるのでは」と指摘されて、それ以来、小西、沈ルートのほかに、加藤清正と明の外交僧惟政(ユジョン)のルートを新たに設けていたのだ。

小西行長は名護屋に戻ったところで、奉行に捕えられて秀吉の裁きを待っていた
秀吉の心は決まっていた、五大老と三奉行を前にして「切腹などで許せるわけがない、身内の関白秀次でさえ一族根絶やしにしたのだ、三条河原にて行長は磔、妻子と家老たちは斬首がよかろう、その首は三条大橋の欄干の川辺りに晒すがいい」
真っ先に異議を唱えたのは石田三成であった
「殿下、明国との間に戦が再開されようと言う矢先に、お味方を処刑しては士気にかかわるのではありませんか、大地震で人心が冷え切っています、どうかここはこらえてとりあえずは押し込めくらいにしてはいかがでしょうか」
「バカを言うな、許せるわけがない、儂を謀ったのだぞ」
そう言うと、今度は互いに朝鮮で苦労して戦った宇喜多秀家が
「殿下、怒るお気持ちはごっともです、なれど小西殿は朝鮮の戦では一番乗りを加藤殿と争い、いち早く平壌まで攻め落とした強者であります
また平壌から逃走したともいわれましたが、あれほど難しい退き陣はなかったのです、小西殿が多数の家臣を失いながらも平壌を守ったおかげで、漢城の我らは明の大軍に充分備える時間が出来たのです、どうかお考え直しください」
前田利家も「殿下、小西がやったことは悪いことですが、疲れて士気が下がった兵の為の時間稼ぎであったと思われませぬか、彼は武将としても日本になくてはならぬ立派な男です、彼を失って喜ぶのは明国と朝鮮ですぞ」
「・・・」
徳川家康がダメ押しをした
「殿下、いかがでしょうか、小西は武略だけでなく、交渉に於いてもまだ必要でありますぞ。 前田大納言殿が言われた通り時間稼ぎだったと思います、殿下をも謀りましたが、敵をも謀ったのです、此度も先陣として使い、この汚名を晴らさせた方が我が国にとっても大いに役立つと思いまする、明や朝鮮の益にさせてはなりません
沈とかいう小賢しい小者一人と、百戦錬磨の大将、小西殿の命を同等に扱えば、我が国の大損でありましょう、先陣でお使いなされ、死に物狂いの働きをするでありましょう」
まさか、これだけの反論が、今の豊臣政権のトップから出てくるとは、秀吉は予想しなかった
「わかった、わかった、もう言わずとも良い、治部少よ今すぐ馬を走らせて、『小西の命は太閤が預かった、すぐに釜山に戻り戦の準備をいたせ』と申し伝えるがよい」
太閤秀吉の体に再び若い血が沸き立ってきた、ようやく自分の出番がやってきたようで浮き浮きする心は、なかなか鎮まらなかった。
側室を訪ねたのは言うまでもない、「戦さ」それが秀吉を奮い立たせる起爆剤だった。

 朝鮮渡海軍の釜山への撤退、豊臣秀次の粛清、大地震と相次ぐ災難、災害が起こり、10月には年号を文禄から慶長に改めた。
  12月に入ると明国との戦を前に、徳川家康を若き時より支え続けてきた老臣、酒井忠次が死んだ
徳川四天王の一人で、年長者の忠次は、東西に分けた徳川軍団の東三河の総大将として指揮を執った。 
一方、西三河の総大将は家康の今川家人質時代から仕えた知将、石川数正であったが、小牧の戦の前に豊臣秀吉に口説き落とされて、徳川家を裏切って豊臣家臣となった。
そんなこともあって、家康はますます酒井忠次を信頼して重く用いたのであった、享年69歳であった。



空想歴史小説 貧乏太閤記 156  交渉再開

2023年02月15日 17時22分57秒 | 貧乏太閤記
 ついに六月には明の使者は釜山を発ち、対馬に上陸した、ここで朝鮮の使者を待った、直に朝鮮から正使、副使も対馬に到着した。
七月初旬についに明と朝鮮の使者は名護屋に着いた、ここからは船に乗って瀬戸内海を堺の湊まで登っていくのだ、
秀吉は京都伏見城で待っているとのことだ。

 今の秀吉の慰めになるのは、当然だが秀頼である
こんなにも幼い小さな人間、この小さな人形のような人間が自分の意思で動いて居るのが不思議に思えてくる。
その小さな人間が、ニコニコ笑いながら自分に向かって両手を広げて歩いてくる、「ああ・・・あぶない これ転ぶぞ、ゆっくり歩け」
ハラハラし通しだ、ハラハラしてもこの幸福感はたまらない
これが幼子から、罪のない女たちを何十人も一度に殺害命令を出した男だとは思えない、人間とはなんと身勝手な生き物なのか。
 だが、この幸せな時間も僅かである、秀吉には問題が山積みになっている
若手の官僚は大勢いるが、石田三成、長束正家、増田長盛のような切れ者は少ない、
秀吉自身かってのような切れ味がなくなり、間も長くなっているので若い官僚はじれながらも、次の言葉を待つ。
 突然、「西の丸じゃ」などと言い出し、側室のもとに一目散に向かうこともある、政務はそこで終わってしまう。
秀吉のストレス解消、暇つぶしには側室を訪ねてリラックスする時間がもっとも多かった
もはや若いころのようにひたすら子作りに励むこともなく、そのような欲望も失せていた、唯一例外が二人の子を産んだ淀殿であった
秀吉にとって、間違いなく秀吉の子を産むことが出来る女であった
3人目、4人目も産んでほしいと秀吉は望むが、産後でもあり、体調が悪いのかこの頃の淀君は不機嫌なのである、
怖い者は正室北政所だけの秀吉であるが、最近は淀殿にも、腫れ物に触れるように気を使う、それは世継ぎの生母の特権であった。
だからこそ10名ほどいる若い側室を訪ねて、膝枕でうたたねするのが束の間の楽しみである、その側室たちも30前後になったが、もはや若い側室を囲う気も失せている。
 秀吉の退屈を紛らす別の方法は、お伽衆と呼ばれる、退任した大名や武士、僧侶、商人、歌人茶人、芸人を招いて話すことであった。
その中には応仁の大乱の立役者、細川、山名の子孫、南北朝時代の名家赤松などもいる
秀吉と同時代の戦国の世を生きてきた、織田信雄、織田長益、織田信包、
宮部継潤、六角義賢、斯波義銀などと語る時は、若く盛んな日々を思い出して血が沸き上がってくるのだった。
また一芸に秀でて楽しませてくれる者もいる、
曽呂利新左エ門は大坂堺の鞘師であったが、知恵がまわり、話も面白く頓智があった、今でいえば「お笑い芸人」「落語家」のような存在である
文化教養の際もあり茶から和歌までたしなんでいる、憂鬱なときには大いに喜ばせてくれるので、秀吉から特に褒美をいただいた者である。
 秀吉の傍に仕えて祐筆(書記官)であった大村由己(ゆうこ)は秀吉の記録「天正記」を江戸時代に入って書いた人物である
西笑承兌(さいしょうじょうたい)は伏見城下に住み、秀吉に特に近い僧侶でお伽衆であるが政治顧問でもあり、安国寺恵瓊同様、外交僧でもあった
朝鮮や明との交渉にも活躍している。 後年は徳川家康に仕える

 七月早々、名護屋に着いた明国、朝鮮の使者は京の秀吉の返事を待っている
ところが15日になって大坂から名護屋へ早馬がやって来た
「京、大坂を中心に大地震が起きて伏見城も半壊、女中衆も家臣も死者が出たが太閤殿下はまもなく救い出されて無事である、大坂城は被害なし、
だがこの状況では、使節との面会はいつになるかわからないので、明らかになるまで使者は名護屋に留まる様に」との伝言であった。
慶長伏見大地震と呼ばれる地震である、7月13日は新暦の9月5日、秋が始まるころであった。 M7.5と言われている
方広寺大仏殿、東寺などが倒壊、伏見城天守も崩壊した

 名護屋への第二報が届いた、「伏見城では武士や女中数百名が死傷した、大坂、堺でも多くの家が倒壊したので、播磨から近江までの諸大名は帰国して再建にあたること、
別紙に書いた通り労役を割り当てられた人数を各大名は、京に送ること」
秀吉は復興のために、関東、北陸の大名にも復旧工事を割り当てた。
使節団は8月、ようやく堺まで来たが、面会場所の京はまだ復興途中であったので、大坂城で9月早々に対面することが決まった。
これ以上遅くなると、使節団が玄界灘を渡ることが困難になる
大坂城では、明国の降伏文書(偽物)を見て、秀吉は終始満悦であった
「これからは敵味方の関係は解消して、勘合貿易を再開して互いに栄えればよい、南蛮人に付け入る隙を見せないように力を合わせることも必要だ」
そして朝鮮使節には「帰国したら、直ちに皇子を送ってよこせ、その王子に朝鮮南部四道を任せるのだから、不足はないであろう」と自信満々に言った
翌日は大坂、堺を見学させるつもりだったが、どこも地震の後始末に追われていたし、使節団も予定より数か月遅れたため、急ぎ帰国したいと申し出たので
翌日、堺で僧侶に歓迎させて一晩泊まり、翌朝、堺からそのまま対馬へと向かうことになった。











 


 

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 155 崩れ行く豊臣家 

2023年02月14日 18時30分29秒 | 貧乏太閤記
 豊臣秀吉と言う、たった一人の最高権力者の命令で、ここで死んでいく女たち
刑場に集まって来た見物人たちも、子供の姿を見て涙した
誰からともなく、刑の執行に対して怒りの声、助命の声が聞こえてきた
40名近い人たちの刑の執行は1時間余りかけて行われ,
最後に首を斬られたのは哀れにも最上義光の娘、15歳の駒姫であった
哀れと思い直した秀吉からの、駒姫の刑執行停止の使者が刑場に着いたのは、全員の遺体が折り重なった深く大きな穴が、砂と土に埋もれた後であった。

 同じ頃、秀吉は大坂城で、間もなく三歳を迎える秀頼と戯れていたのだった。
その姿は孫を可愛がる好々爺そのもので、自分の命令で、秀頼と同い年の子まで殺された三条河原の惨状が行われていることなど、気にもかけていないようであった。
縁側には、淀殿もいて「あれ!危ない、あれ!立ち上がりなさい」などと一挙手一投足ごとに声を上げて笑ったり、叱ったりして家族の団欒を楽しんでいる
 そこに使者が訪れ、「三条河原は、全て終わったそうです」と伝えた
秀吉は「そうか」と言ったあと、「三成に、手筈通り聚楽第の破壊を早々に執り行うように、塵一つ残すなと伝えよ」と言いつけた。
 聚楽第は一か月にわたって破壊しつくされた、まったく跡かたなく更地になった、秀吉は甥の秀次が生きていた証を全て消し去ってしまった。
それだけしてもまだ腹の虫がおさまらないのか、秀次の最初の城だった近江八幡城も破壊した。
一体何が秀吉をここまで追い込んだのであろうか、それは21世紀の今も謎のままである。

 この愚行は、豊臣家の力を半減させた上に、子飼いの家臣、福島、小早川、黒田、蜂須賀、浅野までもが秀吉を疑うようになった
(拾い様を守るためには、親戚縁者の我らも濡れ衣をかけられて、一族粛清されるのではないか)という思いが深まっていった
無理もあるまい、次の天下人に自ら指名した秀次は姉の子なのだから、それに関連した諸大名、家老、妻子までも殺しつくした
それが天下一の関白であっても容赦なく誅殺、また右大臣だった公家から、摂政家の近衛、三条までも脅したのだから、大名の一家や二家を抹殺することなど造作もないだろうと思った

 秀吉の取り巻きは、秀次を「殺生関白」と罵ったが、大名たちの家臣の間では秀吉のことが「殺生太閤」とささやかれた。
諸大名は、秀吉の何をしでかすかわからぬ老いに恐怖を感じて、何も言わなかったが、その心は次第に秀吉に匹敵する力を持つ徳川家康に近づいて行った
豊臣家に未練ある大名は、北政所と前田利家に救いを求めて集まった
豊臣家は秀吉&淀殿と、北政所&前田利家の二大勢力が出来上がった、但しこれは敵対関係ではない。
怖いのは徳川家康&反豊臣家勢力の芽が出てきたことだったが、秀吉には、その危機感が全くない。
秀吉は、秀次と言う藪を焼き尽くして、徳川と言う大蛇を目覚めさせたのであった。

  秀吉は老境に入ってから、次第に感情の起伏が大きくなってきていたが、秀次事件が起きて以後、ストレスのせいなのか、ますます激しさを増してきた
それは躁鬱症なのであろう。
家臣らの輪に入って若き日の話を聞かせて、大いに笑わせ、自らも楽しくてならぬといった様子で笑い転げる
ところが家臣の些細な一言に、突然激高して「下郎、手討ちにいたす!」などと言う、皆が必死に止めて何とか治まるが、秀吉は怒ったまま去っていくこともしばしばであった。
 だから周りから見ていても、秀吉が次に何をするのか、何を言い出すかと戦々恐々であった。
多くの大名や武将がこの事件で罰を受けたが、まだ何人も裁きを受けていない
いつ、なんどき切腹を命じられるかわからない
そんな最中、ついに秀次の付け家老であった、山内一豊、田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴にも呼び出しが来た。
「いよいよ我らも死ぬ時が来たようだ」などと覚悟を決めて伏見城に彼らは行った。 奉行から刑罰の軽重が申し渡されると思っていたが、意外にも秀吉自ら現れて、正座に座った
そして口を開いた、四人は緊張して言葉を待った
「その方ら、此度の秀次の事件に於いて、儂の意を汲んで秀次を諌めたとのこと、家老としての務め果たしたことに秀吉感謝しておる。 
この功績を皆々の模範となるよう、加増して賞するものなり」
思いもよらぬ言葉であった、下手したら切腹と思っていたが逆の結果であった
 この話を聞いた徳川家康は、「太閤は、あまりにも多く身内と、大事な家臣を殺してしまった、ようやくそのことに気づいて味方造りを始めたのであろう、だがもう遅い、万一の時にどれだけの味方が集まるであろうか」

 八月に入るとまもなく朝鮮にも「秀次誅殺」の知らせが届くようになった
これは派遣軍を動揺させないために、石田三成らが朝鮮に渡って知らせたものである、そのため大した混乱は起きなかった
この年はこうした日本を割るような大事件が起きたが、静かに過ぎていった。 
 翌文禄七年(1596)が始まった
四月、明国、朝鮮から正使と副使が釜山にやってきて、小西行長に接見した。
そして海が落ち着く六月に渡海して名護屋へ使節団が行くことに決まり、秀吉に知らせたので、畿内で退屈していた秀吉は喜んだ
ところが、そんな矢先に明の使節正使が突然行方をくらました、それは外交官沈から「明皇帝の正式文書を秀吉に渡せば、その瞬間に使者の首と胴は離れるだろう、倭の皇帝秀吉は恐ろしい男である、昨年も次期皇帝の関白と一族全て殺したのだ」と言って、自ら書いた偽の文書を届けるように言った
生真面目な正使は、恐れて逃げ出したものと思われる
 それでも副使は、沈の言うことを受け入れて、偽文書を渡すことに同意した
ので、副使を正使に格上げした
だが小西行長は「念には念を入れねばならぬ、沈殿、そなたも副使と言うことにして日本に行ってくれ」と言った
沈は渋ったが、小西に押し切られていくことになった。
明の皇帝の正式文書は「日本が大明に降伏したのは殊勝である、秀吉を倭国の王に任じる」というものであり
秀吉は「明国皇帝が正式に秀吉に降伏臣従する」ことだったから全く正反対なのである。
だから使者は偽の文書を秀吉に渡さなければならない。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 154 老女の死にざま 

2023年02月13日 17時38分08秒 | 貧乏太閤記
 この行為は、さすがに徳川家康のように何事にも動じない者であっても眉をひそめる惨い出来事であった。
秀吉の家臣たちにも動揺が走った、かって信長が比叡山を焼き討ちして僧侶から女、子供まで殺しまくったときと同じ動揺だった。
特に秀次の側室は諸大名に縁がある者が多く、当然ながらその大名や縁者は命乞いに秀吉の高官を頼った、しかし秀吉の心は明らかに鬼になっていた
いったいなぜ、このようなかよわい女、子供まで全て斬首と言う惨いことをしたのか、本人さえわからなくなっている
 世間では、「秀次が生きていれば、秀頼の天下は奪われるから根こそぎ殺したのだ」とか
「右大臣の娘、正室一の台が、秀吉を狗畜生と罵ったからだ」
「秀次と一度でも体を併せた女たちを、秀次同様に汚らわしいと思ったからだ」
あるいは「秀次に側室を勧めた大名たちに恐怖心を与えるためだ」という噂が広まった。
そのように側室につながる諸大名を拾いだしたのが下記である、これだけの大名や公家、土豪が関白秀次と誼を通じていたことになる、秀吉が警戒したのもうなづける

池田輝政、蜂須賀家正、村井(貞勝縁者)、福島正則、六角、長谷川秀一、
菊亭晴陶、四条家、近衛家、山内一豊、徳川家康家臣
姉小路古川家、毛利輝元、宇喜多秀家、坪内(川並衆)、前田利長、
織田信雄、細川忠興、竹中(半兵衛息)、堀田(道空縁者)、
前野長康、武藤長門
浅野、小早川、別所、黒田長政、最上義光、伊達政宗

皆、縁者や家臣、実の娘を救おうと必死に駆け回ったが、ほぼ全員が殺害された、その中で助命された者が二人いる、池田輝政の妹で最初の正室、若政所
輝政は元より、親戚になる徳川家康、北政所も可愛がっていた若政所を殺すわけにはいかなかった、近江八幡城から動かず、長い年月を秀次と別居していたことも考慮されて秀吉から許された。
もう一人は秀次の娘で、生まれたばかりの女の赤ん坊だった、この赤子こそ秀頼の婚約者とされた赤子であった、生まれたばかりと言うことで尼寺に入れることを条件に許した。
 哀れだったのは、10代半ばの若い側室5名ほどであった、彼女らはまだ秀次のお手付きにもならなかったのに側室とされて全員、斬首刑に処された。
その中でも特に哀れだったのは、最上義光の娘、駒姫であった
秀次が奥州征伐の時、最上家に立ち寄り少女だった駒姫を見染めて「15歳になったら、わしの元に奉公に出すように」と命じた、15歳を迎えても義光は出し渋っていたのだが、家老に「それでは、関白の怒りに触れますぞ」と言われ
泣く泣く都へ送ったのだった。
都では、秀次の聚楽第にまだ入らず、別の屋敷で対面の日を待っていたが、その前に秀次は高野山へ送られたのだった
しかし、駒姫は秀次に会うこともなかったのに側室の一人とされて、哀れにも刑場で付き添いの娘ともども斬首されたのだった
最上義光の嘆きは誰もが涙せずにはいられなかった、そしてそんな仕打ちをした秀吉を恨んだ、関ケ原の戦のときには徳川に味方して、石田方(豊臣方)の上杉景勝と山形で一戦交えたのであった。
駒姫を京に送った家老も責任を取って自害した、このように斬首された側室の縁者や家臣でも自害した人は多い
また、親兄弟も切腹や遠流刑を命じられたものが少なくない
あの右大臣にもなった菊亭晴陶も流刑にされ、娘一の台だけでなく、その娘までも斬首刑にされている、この事件で秀吉によって殺された者は100名近くになるであろう、そして半分は罪なきかよわい女子供であった
この恨みが秀吉と淀殿、秀頼、石田三成に向けられたのは当然であった
結局、秀吉は自らの手で豊臣家に幕を引いた、というより自分の死に際に、豊臣一族を道連れにしたのかもしれない。

 悲惨な三条河原の処刑場では、大きな穴が掘られ、女子供たちは正室から順に土壇場に引き出され、そこで首を斬られると、首と体は前のめりに穴の中に落ちていく、そのような恐ろしいことが、これからわが身が起こると思うと、女たちは泣き叫び、許しを乞うたが聞き入れられるはずもなく
そんな阿鼻叫喚の場に、一人老女が立ち上がり・・・・・

 処刑の一番最初は、秀次の最初の妻となった若御台(若政所)であったが、兄の池田輝政と、輝政の舅である徳川家康、さらに若御台を可愛がっていた北政所の必死の命乞いで、唯一の例外として救われたことは書いた
秀吉はそれでは示しがつかぬと身代わりを求めた、輝政も誰を身代わりとも言うことが出来ずにいたが、若御台の御付き老女であった「こほのまえ」が自ら、身代わりを申し出たのだった
「どのみち先の短い者でございますから、こんなことでお役に立てば、これほどの幸せはありませぬ」と言って笑った。

 泣き叫ぶ側室たちの前に、「こほのまえ」は立ち
「皆さまがた、ババが一足先に行って皆様を待っておりますぞ」
「うるさい! 黙って早う歩け、後ろがつかえておる!」
足軽がせかせた、すると突然大声で
「無礼者! 儂を誰だと思っておるのじゃ、伯父は近衛家につながるお方、儂は池田輝政様の乳母であるぞ、薄汚い獄卒ずれが話しかけるでない
池田様のご家中が見ておられる、逐一池田少将様のお耳に入るであろう
命惜しくば、黙って待つがよい」
その毅然とした態度、突き抜くような鋭い目に足軽は凍り付いた
こほのまえは、また元の柔らかな表情に戻ると側室らの方を向いて
「姫君、何も恐れることはありません、ババが先に行って皆さまを極楽へご案内します。 この世が地獄、あの世こそ苦しみの無い安らぎの世界ですよ
死ぬは一瞬のこと、恐れずとも良い、では、お先に参ります」
「こほのまえ」は、そう言って今度は足軽を急がせた
今まで泣き叫んでいた側室たちは一様に静かになり、今度は経を咏む声が刑場に静かに響いた。
処刑される女たちは、10代半ばから30代までがほとんどであったが、「こほのまえ」の堂々としたふるまいを見て、あとに続く者たちも騒がず、粛々と刑を受け入れた。
小さな子供たちも、母親の顔を見て手を合わせる姿をまねた、斬首する役人も涙で手元が狂わぬよう心掛けた



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 153 犠牲者たち

2023年02月12日 17時42分02秒 | 貧乏太閤記
 若き頃、快活な青年武将、羽柴秀吉に憧れて武家社会に身を投じた秀次であった、秀吉の後援で順風満帆な人生を送ったが、秀吉の最期の攪乱の犠牲になったとしか言いようがない。
誰から見ても、秀次が謀反を起こそうとしていたなどとは言いがかり以外の何物でもない
石田三成さえ、秀吉にいわれるがままに書いた糾弾書を読みながら、秀次に同情を禁じえなかった。 三成さえ、秀次の無実を知っていた
だが、誰一人として秀吉に意見できるものはいなかった、言えばたちまち一味と言われて大名であっても命を落としたであろう。
それでも秀次の家老の多くは、秀次の無実を堂々と訴えた
羽田正親4万8千石、明石則実2万2千石、白江成定6万石、木村重玆、18万石、栗野秀用13万石、服部一忠3万5千石、渡瀬重彬、本多正氏などである
多くは秀吉に仕えて、秀吉から万石大名にされた者たちである
秀次が100万石の大俸を得た時に、付け家老として送られた者が大部分だったそして全て切腹、または斬首になった。
秀次の陪臣であっても、戦での敗者でもないのに、このような大身の大名がまとめて粛清されたとは前代未聞であった
それだけではない、
 秀次の家臣でない独立大名では、北政所の妹ややの息子、浅野幸長だけは、秀次の無実を訴え続けた
それがために秀吉の怒りを買い、「幸長め、長政の息子であることを良いことに儂にたてつきおって!、秀次同様に腹を切らせねば諸侯に示しがつかぬ」と言ってすぐに幸長を謹慎させた。
すると聞きつけた北政所が、すぐに伏見城に駆け付けて
「おまえさま!気でも狂ったかね、秀次をすぐに開放しなさい、幸長はなおのことです、おまえさまは大きな間違いを犯そうとしています、豊臣家を滅ぼす気ですか」
だが秀吉も頑固さでは負けず「誰が何とゆうても許すわけにゃいかん、身内であるから尚更許せんのじゃ、秀次の謀反の証拠はどうにも動かせん」
「秀次はともかく、幸長まで罪に問うとは、あの子は豊臣家の将来を危ぶんで秀次の無罪を命がけで申しているのですよ、褒められても罪に問われる筋合いはありません」
さすがに糟糠の妻、北政所に言われては仕方なく、「では幸長の死罪は許そう、じゃが儂に楯突いたからには無罪放免とはならぬぞ、減刑して能登へ流罪とする、それでよかろう、長政は罪に問わぬことにする」
ねねも、ここらで妥協するしかなかった、幸長は流罪になったが、前田家は厚く保護した、その後、前田利家や徳川家康の取り成しもあって、一年足らずで復帰できたのだった。
この他にも、秀次から金銭を融通してもらっていた毛利や細川も謀反加担を疑われて謹慎処分、後日取り調べを受けることになった
さらに、奥州の伊達、最上も秀次に近いと思われ嫌疑をかけられた。

 関白家の犠牲は大きかった、秀次はもちろんだが、家老や重臣がほぼ全員10名ほど切腹したし、秀次の小姓や馬廻りの武士は、これも20名ほど殉死した
そのほかにも、秀次の生前の恩に報いると言って自害した町人や僧侶などもいたのだ
熊谷直之は秀次の付け家老であったが、秀吉が人柄を愛して、頼んで付けた者であり、秀次の傍にいつもいたわけではなく、全く関与していなかった
それで秀吉は罪に問うこともしなかったが、真面目な直之は責任を感じて切腹したので、これには秀吉もショックを受けたようであった。

 また本多正氏は前に書いた通り、元徳川家臣で、徳川家康の知恵袋、本多正信の甥、秀次の家臣となって情報を正信に送り続けていた
そして最後には、自らを犠牲にして秀次騒動の炎を大きくするために動いた、懇意にしていた家老の羽田らを扇動して、できるだけ秀吉を刺激するように努めたのだ
そのため切腹を申し渡されたが、正信への遺書で「徳川家の行く末の人柱となれることは名誉である」と書いて死んだ。

 切腹した家老の中には、秀吉に縁ある者も多かった、それは当たり前だ、秀次につけられた家老の何人かは秀吉の馬廻り衆から出世した者であり、秀吉の命令で秀次に送られたのだから。
だが秀吉は、そんな者たちにさえ容赦なく切腹を命じた。
明石則実は、黒田官兵衛とは従兄である、当然ながら官兵衛、長政からは助命嘆願が寄せられたが頑として秀吉は受け付けなかった
 瀬田正忠は、利休の高弟七人の一人であったが、同じく高弟の秀次と利休を通じて親しく交わっていたことを咎められ、切腹を命じられた
細川忠興も高弟で親しく付き合っていたので嫌疑をかけられた。
 木村重玆は18万石の大身であったが、これもまた宿老で利休の高弟であったこともあり特に秀吉は「罪一等」と定めて、重玆だけでなく嫡男も切腹、娘を磔の刑に処すなど特に厳しく処した。
 服部一忠は、小平太と言いかっては織田信長の近習であった、桶狭間の合戦では敵の大将、今川義元に一番槍をつけて、功二等として褒美を賜った人物である、秀吉の上司であった重鎮服部さえも切腹に処された。
 前野長康は、蜂須賀小六の兄弟分で川並衆、藤吉郎時代、墨俣城建設で世話になった兄貴分でもあるが、これも情け容赦なく切腹を命じた
さらに、幼馴染の木下吉隆(三蔵)も秀吉に引き立てられて大名に出世したが、秀次を高野山に護送した後。何かの嫌疑をかけられて薩摩へ流罪となり、3年後に謀殺されたという、それは秀吉の死と前後している。
 だが中には徳永寿昌のように早くから、石田三成に内部を逐一知らせていた家老もいた、当然ながらおとがめなしであった。

 だが事件は、これだけの犠牲者を出しても終わらなかった
秀次切腹から数日後、彼の正室、側室、子、乳母、老女、御付きの女子衆まで京の三条河原の刑場に引き出されて、多くの京市民の前で公開処刑された
総勢30余名、罪なき罪に問われて、無残にも斬首となった。
秀次の子は2歳から5歳くらいの童すべてが斬首された、秀次家は滅びた。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 152 関白秀次切腹

2023年02月11日 17時41分13秒 | 貧乏太閤記
 そんなことを考えると秀吉は動けない、動くとすれば不満分子の頭(かしら)を素早く打ち砕くしかない、自分が後継ぎとして関白にまで持ち上げた、甥の豊臣秀次が、その「かしら」だから悩み抜いている、だがわが子、秀頼は可愛いし、生母淀殿も愛おしい
その淀が、秀次を異常なまでに恐れている、それは秀頼を守り、秀頼に秀吉の後を継がせたいと思うからだ
だが分が悪い、秀頼派は前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元あたりは堅いだろう、これに石田三成、増田、大谷、大野など近江派の秀頼の旗本大名も当然味方だ。
だが秀次派は3万石前後の付け家老だけでも10名近い、更に尾張、美濃の諸大名、利休高弟で秀次と近しい茶大名、さらにキリシタン大名も味方するだろう、それよりも徳川家康の動向が気になる、また北政所も何かと秀次を心配しているようだ
「なんとか円く収めることはできぬか」秀吉はそれを問う、気弱な老いの自分が出てくる、それなのに突然、「あとには一歩も引くものか」という頑固な秀吉に戻ることもある。
まるで二重人格のようなこの頃である、昨日言ったことを忘れる、だから石田三成でさえ戸惑うことがしばしである。
秀吉の妄想は、次第に現実と空想の境目が怪しくなってきている、被害妄想なのかあたかも秀次の謀反が始まるかのように思えてくる

 文禄六年の六月末、ついに秀吉を踏み切らせる情報が耳に入った
それは「聚楽第に南蛮人が何度か訪れている」という情報であった
 7月3日、石田、増田ら奉行衆数名が聚楽第に秀次を訪ねて、巷で噂されている謀反についてせ詰問した
当然ながら秀次は、それを「悪意の噂である」と否定したので、石田は誓紙を書かせて伏見城にもどった。

 「殿があらぬ嫌疑をかけられておるそうじゃ、それも謀反と言うから穏やかではない、これはどう考えても石田治部少と増田長盛の企てじゃ
太閤殿下のお子が産まれたので、わが殿が太閤殿下の後継ぎに決まったのを覆そうと企んだ者の仕業じゃ、奴らは幼い若君に代わって政権を奪うつもりじゃ
石田らこそが謀反人である、これを黙っておられようか
これより直ちに伏見城へ行って、太閤殿下に弁明しようではないか」
そう言いだしたのは秀次の家老、羽田正親であった。 彼は大和の内で48000石をいただく大身の家老である
これには木村、栗野、服部をはじめ数名の家老が同意して伏見城に押し掛けた、そして弁明書を秀吉に渡すべく行ったのだが、秀吉は会うことはなく
だが弁明書には目を通した
そこには、「このような悪意に満ちた噂は根も葉もない、大坂城に巣くう逆臣の企てである、関白殿下はそのような企みなど思ったこともない」とか
「太閤殿下を欺く者どもを、くれぐれも信用なさらず、そのような輩は厳罰に処していただきたい」などと数条書かれてあった
これを読んだ秀吉は逆に怒った
「これを持ってきた、たわけどもはまだいるか」と家来に聞くと
「先ほど、帰りました」と言う返事
「直ちに、ここに連署している者どもを捕らえて、上杉家の京屋敷に押し込めよ」と命じたので、たちまち捕吏たちが走って秀次の家老や重臣10名ほどを逮捕して引き立てた。

 この話を聞いた家老の白江成定は関白秀次に対して、「もはや何を申し開きしても、目が曇った殿下は許しはしますまい、ここは聚楽第に籠城して、細川様や徳川様、前田様、北政所様に仲介をお願いするしかありません」と言って支度を始めたところに、石田三成、増田長盛、前田利長らが兵を率いてやってきて
「関白秀次、太閤殿下よりそなたに謀反の嫌疑あり、直ちに支度をして奉行の指図に従うべし」と有無を言わせず車に乗せて木下吉隆の屋敷に謹慎させた。
吉隆は、秀吉の馬廻り衆であったが覚え目出度く豊後で35000石をいただいた
この男こそ、秀吉の出世の糸口を与えてくれた尾張の三蔵である
若いころの藤吉郎(秀吉)の片腕となり、藤吉郎から木下の姓も与えられた。
最初の側室「ふじ」との連絡役も務めてくれたあの三蔵(木下三右衛門蔵人)である。(3話、6話、35話参照)

 秀吉はついに決心したのだ、あまりにも心を悩ませる問題が多すぎて、さすがの秀吉も錯乱しそうであった、大きな問題の一つでも片付けなければ精神が壊れそうだった、そして消し去る難題の一番手に挙げられたのが秀次であった
秀次がいなくなった聚楽第へ兵士が送り込まれて、中にいた秀次の正室と20数名に及ぶ側室、秀次の幼い子供たち、付き従う女中、老女までことごとく縄をかけて数珠つなぎにして秀次の家老、徳永寿昌の屋敷に監禁した。

 翌日には石田三成らが木下の屋敷を訪れて、秀次に罪状を読み上げた
一、南蛮人を招き、キリシタン布教を認める密談を交わし、それらの力を借りて謀反をおこさんとしたこと
一、朝廷工作に、多額の金銀を太閤殿下の許可なく振りまいたこと
一、毛利をはじめ大名に対して金銭を貸したこと、これには一の台とその父である今出川晴陶(はるすえ)も一味の疑いあり
一、無用の殺生の疑いあり
一、茶の湯、鷹狩、戒めたにも関わらず、太閤殿下に許可なく執り行い、謀反談義の疑いあり
一、側室はほどほどの人数にするよう言いつけたにも関わらず、数限りなき事
一、前の左大臣など側室の実家を味方として、拾いの排除を企てたこと

以上の罪状は家老らの取り調べにより明白である
よって羽柴秀次は、関白及び左大臣の職を解く、高野山にて謹慎とする。

 そして即刻、秀次は家老の白江備後守や小姓など少数の供回りと共に、福原長尭(ながたか)、福島正則、木下吉隆などの軍勢に監視されて高野山に上った。 秀次は観念したのか、一言も弁解せず粛々として乱れることはなかった
 凡そ1週間後の7月15日、高野山金剛峰寺の御堂の一つに於いて秀次の刑は執り行われた。
検視官の前で、秀次に殉死を申し出た小姓数名の切腹の介錯を、秀次が自ら太刀をふるった、そして秀次も切腹した。
26歳あまりにもあっけない最期であったが、豊臣秀長の娘を娶って大和豊臣家100万石を継いだ弟、豊臣秀保も同年4月に不審死していたので、これも秀吉の差し金による暗殺ではないかと都雀たちは噂した。
巨済島で病死した秀勝も含めて3年の間に、秀吉の姉「とも」の三人の息子たちは全て死んでしまい、夫の三好吉房も四国に流され、秀次の子供たち(ともの孫)も赤子一人だけ残して全て殺された。
秀吉が、実姉に与えたダメージは豊臣家に与えたダメージそのものであった
秀次の切腹を介錯した家臣もまた切腹して主君の後を追った。





空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 151 秀吉を悩ますもの

2023年02月10日 17時26分08秒 | 貧乏太閤記
 時を同じくして北陸では前田利家も客将の高山右近と、秀吉の危うさを語り合っている。
 前田又左衛門利家、官位は家康と同じ従二位権大納言で90万石の大身
若き頃は織田信長に仕え槍一筋の荒武者で「槍の又左」と呼ばれた
まだこの先どうなるかも本人さえわかっていなかった藤吉郎を、信長に引き合わせたのは利家であった。 藤吉郎(秀吉)17歳、利家16歳の時であった
その前田利家も今は57歳になり頭も眉毛もひげも白くなった、体も次第に衰え始めたが眼光は鋭く、気迫は衰えていない
利家はこの時、久しぶりに領地である加賀尾山城(金沢)に戻ってきている
秀吉にキリシタン追放に逆らって信心を捨てず、6万石の大名の地位を捨てた真のキリシタン、高山右近は秀吉の逆鱗に触れ浪人となったが、実直な利家は純粋な右近に惚れ込んで召し抱えた。
秀吉も、他の大名であれば許さなかっただろうが、前田利家には言うことをせず見逃した、それ以来、高山右近は客将となって利家の嫡男利長を支えている

「太閤殿下と竹馬の友である大納言様に申し上げるのは、はなはだ不都合でありますが、殿下は千宗易(利休)様を切腹に追いやられたころから人が変わりました、高弟の山上様を殺した時の残忍さで、茶道を極めた人々は一斉に殿下を見限りました」
山上とは千利休の高弟で、堺の豪商であり茶道にも抜群の才能を発揮した
しかし直情直言の生真面目さがあり、仕えていた秀吉にさえ辛口の皮肉を何度も言って怒りを買い国外に追い出されている
前田利家に仕えた後には、小田原北条氏に仕えてそこで秀吉に投降した、それでも秀吉に楯突いて挙句、耳と鼻を削がれた上に首を斬られたのであった。

 「そのとおりだ、わが倅、利長も口には出さぬが不快な気持ちであっただろうことは察することが出来た」
「それにとどまらず、宗易様までも切腹を命じたことには、殿下に死神がついたとしか思えませんでした、このようなことを平気で行うようになった心変わりはいったい何が原因なのか? いえ、それを暴いたとて今さらせんもないことでございます、されどそれがやがて朝鮮出兵につながり敵にも味方にも万余の犠牲を強いています、誰にも益がない戦を、大納言様はいかが思われますか」
「右近殿、それは問うまい、儂にも口に出来ぬことはある」
「ああ・・申し訳ありません、思わず熱が入ってしまいました」
「だがのう、そなたが言う通り、殿下には様々な方面から不信の目が注がれておる、このままでは徳川大納言どのに傾く者が増えてくる予感がする
儂の目の黒いうちは徳川殿には思い通りにはさせぬが、殿下は徳川殿になぜか遠慮が過ぎるところがある、そのうちに徳川殿が衣の下から爪を出さねばよいがと思っている」
「大納言様から殿下を御諫めできませぬか」
「それは・・・北政所様の言うことさえ滅多にお聞きなされぬようになってきたと言っておられた、儂は案じておるのだ、心配するお身内の声さえ聞かぬ頑固さこそ老いの現れじゃ、老いはこれから様々な弊害を引き起こす、殿下が気がつかねば儂がそれを助けるしかないと思おておる」
「気苦労がたえませぬなあ」
「仕方あるまい、利長にも殿下、関白様、拾いさまをお助けせよと言いておるのじゃが、若い者にはまた違う見方があるようで、色よい返事をいたさぬ」
「私も実を言えば殿下にはご恩を感じているのです、前田様より2万石を賜りましたが、あれは殿下のご意向もあったのではと思ううておるのです、その前年に直接帰参を命じられましたので、『信仰を認めていただけるなら』と申した為、また怒りに触れてしまいましたが」
「そうであったか、そなたが言う通り、あの2万石は殿下から頼まれたものじゃった」
「やはり、そんな気がしたのです、本当はお優しい方なのですが」
「それだけに今の頑固さが心配なのじゃ、徳川になびき始めた者が出てきだした、伊達政宗などは露骨に近づいておるらしい」
「それだけならまだしも、私の茶道仲間からも利休殿粛清の一件以来、弟子であった大名などが殿下に見切りをつけだしたとか申します」
「弟子と言えば、織部(古田)、細川、蒲生・・は死んだか・・そうじゃわが倅も弟子の一人であった、関白殿の家老の木村などもそうであった」
「今の私はご恩ある前田様に身を捧げるのみ、これ以上は申しませぬ」
「そうじゃのう、我らはあくまでも豊臣恩顧じゃ、静かに動静を見ておればよい、秀頼さまに仇成すものが出てくれば討つのみじゃ」

   今、豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家が、早くも2代目の政権を巡って不穏な動きとなって来た、それに明や南蛮という織田信長まではなかった、新たな戦争の危機まで迫っている。
前田利家がいうように、太閤(淀、秀頼)対、関白秀次の構図に加えて
日本 対 異国 、さらに「朝鮮出兵反対派」もできかけている
その中核を成すのも秀吉の過去の圧力を受けた「キリシタン大名」と「千利休の弟子大名」であり、秀次は利休の高弟として、こちらでも反秀吉派の旗頭に祭上げられる可能性がある
ところが秀次本人は危機感は持っているが、秀吉に対抗しようという気持ちなど少しもなかった、「なかった」が、秀吉の秀次に対する圧力が強まるほど、「窮鼠猫を噛む」式に、おとなしい秀次を追い込んでいく、そうなれば秀次も反撃せざるをえなくなるのではないだろうか。

 一方、秀吉も危機感が高まっている、それは何といってもキリシタンと南蛮人の問題であった。
三成に命じてキリシタン禁制、バテレン追放を発布したが、さほど効果はなく未だに各地で布教拡大が行われている
それを取り締まりたいが、キリシタン大名もすでに20を超えるほど浸透している、しかもこの先、成り行きではまた朝鮮と大明を相手に戦争になるかもしれない、ここで国内戦争など起これば大変なことになるのがわかる
 秀次の件も悩みの種だが、それ以上に南蛮人の問題が頭から離れない、もし南蛮人と明、朝鮮が手を組み我が国に立ち向かえばどうなるか
秀吉が九州で聞いた話では、南蛮人は占領しようとする国にまず教会をたてて、その国民にキリスト教徒を増やし、それを配下にして国を奪うのが手段だと言った
 それは、まさに今の日本がそうで秀吉の許しもなく大名たちの一部は自らキリシタンになり領国の中にキリスト教を広める手伝いをしている
 秀吉には当然ひざまずくが、南蛮の神デウスとやらにも同様にひざまずくのだという。
これを聞いて秀吉は昔の一向一揆を思い出した。
あの織田信長さえ本願寺一向宗に10年も手を焼き、しかも討ち果たさぬまま和解してようやく鎮めたのだった、南蛮人とキリシタン大名が手を組んだ宗教戦争が国内で始まれば、一向一揆の比ではない
南蛮船は今は貿易船しか入ってこないが、軍船は朝鮮や日本の水軍の比ではないという、信長が作った鉄鋼船より遥かに大きく大砲の装備も多いという
まず海戦では勝てまい、そして沿岸や淀川などを上って大坂城や街並みを砲撃すればたちまち大火が起きて大混乱が起きる
それに乗じて国内の反乱分子が攻め寄せ、南蛮の軍隊が最新式の武装で共同して攻め寄せれば、日本軍が朝鮮を攻めたことの裏返しにもなりかねない