時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

1700年代

2009-06-15 | essay
1700年代フランス製の置き時計。

1700年代といえば、
フランスでは、マリー・アントワネットが優雅に暮らしていたころ。
イギリスでは、ジェーン・オースティンが執筆していたころ。
日本では、杉田玄白が「ターヘル・アナトミア」を翻訳していたころ。

そんな時代の時計に触れてみる。
どこかの貴族の御邸のマントルピースの上で
コチコチ時を刻んでいたのだろうな。
次々持ち主が変わって、時を旅してきたんだなあ。
黙っているけど、時間の「重さ」を感じさせる時計。

春の海

2009-06-14 | essay
「 海の夜 」

月が雲間から 顔を出して
さざ波を 銀色に照らすよ

春の夜の海

たなびく雲が煙って
三日月を隠すよ

もうここからは 何もみえない
波の音だけが
そこに 海があることを告げる




チカラのある本・レオ・バスカリア

2009-06-13 | 本 のこと

こころを動かすチカラを持つ本。

読む側のこころの状態次第で
本の効きめは変わる。
人生のトンネルにいる時、目の前に壁が在る時、
ちょっとこころが弱った時、ぴたっとくる本。
わたしの処方薬本は、
レオ・バスカリアの「自分らしさを愛せますか」
という、人生哲学書(?)(原題:Living,Loving&Learning)

二十歳でこの本に出逢ってから、
宗教を持たないわたしには、一冊のたいせつなバイブル。
レオ・バスカリアは「葉っぱのフレディ」があまりに有名だが、
 (わたしはコレはちょっと苦手
その約20年前に書かれた本だ。

本に線を引いたりするのはキライだが、この本だけは別。
赤鉛筆ラインが自分用のカンフル剤。

絵本「パラダイスゆき9番バス」もすてきな本。
これは彼の人生哲学をやさしく要約&集約したものだと思う。
子どもにも読めるので、ぱらぱら絵を見ながら読めるように
手近に置いてある。
今はまだちゃんと理解できなくても、彼らのこころの隅っこに
浸み込んで、いつか遠い先に効力のあることを願おう。


マイ・バラライカ

2009-06-10 | MUSICのこと

熱しやすいというよりも、
周りに気づかれることなく瞬間沸騰するタイプ。
直感を信じて、思い立ったら走ってる。
(吉と出るか凶と出るかは・・・別ものですが)

バラライカとの出逢いもそのひとつ。
でも実物に出会えるまでに数年かかった。

バラライカは、ロシアの民族楽器の代表的な弦楽器。
二十歳すぎごろ、銀座文化で「ドクトル・ジバゴ」を観た。
全編にわたってもの哀しく響くその音色に
すっかりこころを奪われたわたしは、
まず、楽器店に足を運んだ。
当時はインターネットなど無縁の時代。
足で探すしかなかったのだ~。
しかし、どこにもない。
楽器店の店員さんの中には、存在さえ知らない人も少なくなかった。
そのうちきっと出逢えるさ、と思いつつ月日は過ぎて。。。

二年ほどは経っただろうか、渋谷で立ち寄ったYAMAHAで
ふと尋ねてみると、親切な店員さんがいろいろ調べてくれ、
銀座の「白樺」にあるかもと、貴重な情報をくださった。

「白樺」知ってます、知ってます!
銀座の大通りのロシアの民芸品の老舗っぽいお店で、
母と何度かのぞいたことがあった。
(残念ながら、現在はもうないが)
そうか!「白樺」に!?
気づかなかった~~。

というわけで、数年越しで、やっと実物とご対面。
一緒に店に置いてあった、
北川つとむ先生の「バラライカ教本」と共に
大事に胸に抱いて帰った。

そうして、当時外苑前近くにあった、先生の教室の門戸を
たたいたのだった。

ギターもピアノも弾いたことがなく、
音譜もろくに読めないぶきっちょなわたしに、
先生はとても丁寧に教えてくださった。
「その歳で、ドクトル・ジバゴは珍しい!」と笑った。
しかも、映画の中の音色は、バラライカではなく、
同じ民族楽器の、ドムラだということも教えてくださった。

青山墓地の見える静かな空間。月に2回の土曜日。
何年通っただろうか。
ハードな仕事の合間の、穏やかな時間だった。
さほど上達もしていなかったのに、
恐れ多くも、アンサンブルの皆さんと一緒に
何度かステージにも立たせていただいた。

結婚・引越しを機に教室を離れ、
日々の生活に翻弄されつつ年月を過ごすうちに、
埃をかぶってしまった、可哀想なわたしのバラライカ。

やっぱりもう一度弾いてみたい。と思い、
ホームページを探していて、先生の早過ぎる訃報を知った。
ずっとお会いしていなかったけれど、
またお目にかかれると当然のように思っていた・・・。
まだ、五十前の若さだったのに。
こころよりご冥福をお祈りいたします。。。

「いつか」「そのうち」なんて思っているうちに
音もなく指の間からこぼれていく。

いつかではなく、「今」思うことをしよう。
たいせつなものは、今、抱きしめよう。

鳴らしてほしそうにしているマイ・バラライカ。
へたくそだけれど、先生の教本の最初のページから
もう一度弾いてみよう


いつまでも、感性のままに、いつでもすきな方向へ走っていける、
柔軟なこころでいたいものだ。


とまった時間

2009-06-09 | essay
「 とまった時間」


止まってしまった時間。
それを横目で見ながら加速する時間。
自分のなかの様々な時間。

もう 手を伸ばしても届かない 愛しい時間の欠片。

今はただ そこへそのまま置いていこう。
この手のひらの上の時間だけを見つめて歩いていこう。


こころのふるさと

2009-06-08 | essay
わたしが生まれたのは
伊丹市の釣り池の上に建つ家。

母の姉夫婦が営む釣り池の家に
一家で間借りしていた時のこと。

その伯母は母より12歳も上だったので
母には頼れる親のような存在だったのだろう。

子どものなかった伯母は、そこで生まれた私を
我が娘のように愛しんでくれた。

三歳で一家が奈良に引っ越した後も、
母は実家に帰るみたいに週末ごとに
三人の子どもを連れ、大きな荷物を持って
電車をいくつも乗継ぎ、伊丹の伯母を訪ねた。

そして私も、何処へいくより、何をするより
この伯母「チャコのおばちゃん」に会いにいくことがすきだった。

チャコのおばちゃんは、楽しい週末が終わりかけると
わたしに 「いっぱい、おはなしを詰めていってや」 と
小さいビニール袋を何枚も手渡す。

伯母と笑ってしゃべりながら、わたしはビニールを
ふうふう膨らませる。すると伯母がしっかり輪ゴムで口を留める。
それを何度も繰り返すうち、お話袋がたくさん出来上がっている。

伯母は 「毎日ひとつづつ、みこのお話袋を開けて聴くからなあ、
もうこれで寂シイないよ」 と言う。

もっと大きくなってから、空気で膨らんでいたのだと
知ってしまったけれど、
あの時一生懸命膨らませた袋には、
きっと本当にたいせつなものが詰まっていたのだと思う。

大好きだったチャコのおばちゃんは
わたしが小学校三年の冬に亡くなった。
まだ49歳だった。
母があんなに泣いたのを見たのは
後にも先にもあの時だけだ。

人は、誰かがこころで想う限り生きられる。
実際にはたったの八年しか一緒に居られなかったはずなのに
もっともっと長い時間を共に過ごしたように思えてならない。
そして、もう何十年もわたしのこころの中に生きている。
たくさんの楽しい想い出と共に。

人を信じる気持ちを授けてくれた、チャコのおばちゃん。
近年になって、出逢えて本当によかったと思う。
もし今も元気だったなら、わたしの子ども達も同じように
可愛がってくれているんだろうな。
そして、ケラケラとお腹を抱えて一緒に
笑っているんだろうな 



ものを大事にするこころ

2009-06-07 | essay
  

 矛盾だらけの国。 
 古い建築物をあっさりと壊してしまう。
 昨日までここで優雅に枝葉を広げていた大木を
 無残にも突然伐採してしまう。
 工事の度に、きれいに敷いたタイルの舗道をも
 バリバリとドリルで砕いてしまう。
 かなしいけど、日本はそういう国。

 以前ヨーロッパを列車で旅した時、
 幾度か道路工事に出くわした。  
 なんと、敷石を丁寧に剥がして山積みにしておき、
 工事が済めば、ひとつひとつ元通りに埋めていく。
 それが、当り前な国々。
  
 今の日本は、大切なことを
 どこかに置き忘れてきてしまったようだ。
 
 エコだエコだと声高にくり返すテレビ。

 子どもたちに「ものを大事にするこころ」を、
 言葉で教えなくても背中で伝えられる・・・
 そんな大人のひとりでありたいな。 

 

青い紫陽花がすきだったひと。

2009-06-06 | essay
   

 「 待つひと 」

     彼女は 待っていた
     わたしが帰るのを
     ひっそりとした 部屋のなかで

     彼女は 待っていた
     わたしが話すのを
     温かな紅茶を淹れて

     彼女は 待っていた
     わたしが彼女のこころのドアを開くのを

     それなのに わたしは気づかずにいたのだ

     彼女がいつもひとりぽっちで待っていたことを
     そして いつまでもそのままで
     そこにいてくれるわけではないということを

 
                      (6月の彼女へ)
 
                               

こころに触れる映画

2009-06-05 | 映画 のこと

こころを豊かにしてくれるもののひとつ。

それは 映画

二十歳過ぎのころ、古い洋画に魅了されて、
会社帰りに毎週のように通った映画館がある。

時間が止まったような場所。
すきだったなあ、「銀座文化」。
今はリニューアルされてシネスイッチ2になっている。
あのころは、古い映画を中心に2週間ごとに上映作品が
変わっていた。
映画の前には、友達と松屋の前辺りにあったバーガー屋で落ち合って
腹ごしらえ
あの店もいつの間にかなくなってしまったっけ。
なんて名前だったっけかな。マイナーなハンバーガーチェーンだったけれど、
ソフトクリームの乗ったコーヒーゼリーがとっても美味しくてすきだった。

で、映画。座席に収まったなら
もうどっぷりスクリーンの中へ。

あまりに有名な名画の数々。
「風と共に去りぬ」「ドクトル・ジバゴ」
「ローマの休日」「雨に唄えば」「或る夜の出来事」などなど
数え上げ切れないほど!
たくさんのいい映画をスクリーンで観れてよかったなあ。
家でゆっくりDVDを観るのも今はすきだけれど。

気に入った映画は、ひとりでも2~3度足を運んだ。
なかでも、とてもこころに沁みたのは

フランク・キャプラ監督の「スミス都へ行く」(Mr.Smith Goes to Washington)

この映画のテーマは究極の正義
政治の仕事に携わるひとには、ぜひとも観てもらいたいな。
あの頃の、いろんなことで迷っていたわたしに、
ガツ~~ンと一発

ジーン・アーサーの「トンネルのなかで、光がみえてきて・・」ってな
くだりのセリフで、正に自分も今トンネルにいるんだってことに
気づかされた。

この映画が二十一歳のわたしに大きな転機をくれた。

制作から約70年も経っているけれど、
人にとって大切なことは、今も昔も変わらない。

いま観ても輝いてる。だいすきな映画


時間の雫

2009-06-04 | essay

時間の雫


遠い記憶と想い出は
こころの奥のみずうみに
ゆっくり しんなり
沈んでゆく

出逢ったひとたち
行き交うひとたち

去っていくひと
約束をするひと
再び逢うこともないひと

まるで 雨の雫
列車の窓をつたう雨のつぶ

硝子にぶつかっては
ふたつがひとつに
みっつがふたつに
流れては消えてゆく

一瞬後は もう今ではない

それでも全てが繋がっている

こころの奥の湖水の底に
きらきらしたまま
眠っている
         
          

図書館にただよう時空

2009-06-03 | 本 のこと

  すきなもののひとつ。

  本は子どもの頃から大好き。
  小学4年生のころ、毎週土曜はともだちとバスに揺られて図書館へ。
  バスを降りてから図書館までの長い坂の並木道も、
  人の少ない図書館で密やかに過ごす時間も、
  何かとても特別で贅沢な至福の時間だったように思う。
  普段は近所で走り回って遊んでいたから、
  土曜日だけちょっぴりオトナ気分だったのかな。

  借りる本を選んだあとは、いつも決まって
  お気に入りの絵本を眺めて過ごした。
  中でもすきだったのは、
  安野光雅さんの「ふしぎなえ」と「ふしぎなさーかす」
  今でもこの絵本を開くと、不思議とあの図書館のにおいを思い出す。

  現代の図書館はあまりに近代化されていて
  ちょっとさみしい。

  自分で、あいうえお順になっている小引出しを開けて、
  本の案内カードをめくる・・・
  あのアナログさがすきだったのにな~

  


こころの扉

2009-06-03 | essay
 こころの扉


  遠くても こころが寄り添う
  そんな瞬間がある
  
  唐突に開いたドアの隙間から
  「人生の意味」が滑り込む

  それは言葉ではなく
  かたちでもない

  瞬時に肌で理解する温度のようなもの

  友情でも 愛情でもない
  名前のない やさしい感情
 

                                 

たいせつなもの。

2009-06-02 | essay
たいせつなもの。たいせつなひと。
時間の流れとは別の次元に息づくものたち。

ふと思ったこと
書き留めておいた言葉たちを

解き放ってみたくなりました。

こころの風通しになったらいいな 

                    miko


メッセージ♪

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