小学校3年生の終りに大阪から埼玉の新しい町に引っ越した。
そこは、まだ造成中の空き地もたくさん残る
いわゆる新興住宅地だった。
よその土地から移り住んだ人達ばかりだったので、
その一期生ともいうべき家族の大人たちは、
最初の1~2年、新しいコミュニティーを作ることに
熱を上げていた。
父は週末ごとに、近所のお父さんたちとテニスにソフト、
自治会館の建築計画と自治会作り。
母はご婦人の会合で、お茶に呼んだり呼ばれたりで、
ちょっと田舎のビバヒル!?みたいな日々だった。
必然的に子ども同士も仲良くなり、
学年を超えていつも一緒に遊ぶ仲間になった。
全員転校生でクラスにはまだ遠慮がある分、
この仲間同士では、いとこみたいに遠慮ナシだった。
その分、いろんなことを学んだ気がする。
ドラムカン、リカちゃん、ハンバーグ、タケシクン、
ユカリちゃん、アキラ(姉)ミノムシ(わたし)
だいたいこのメンバーで、たまに他の子も入れ替わり加わる。
空地だらけで、遊び場はふんだんにあったので
朝から夕方までいろんな遊びをしたなあ。
ロクムシやら、缶けりやら、崖の飛び降りっこやら。。。
チームに分かれる遊びの時は、大抵ドラムカンとタケシクンが
リーダーとなり、ひとりづづ欲しいメンバーを
引き抜いていくという方法で決めていた。
(今思えばシビアだわ~)
すばしっこい姉はいつも望まれてすぐ選ばれていたものの、
哀しいかな、足の遅いどんくさい女の子だったわたしは、
次々に選ばれたあとの残りカス。
10歳にして人生の厳しさを知る(?) 慣れっこだったけれど、
だんだん「どうせあたしなんか」ってなマイナス気分になり始めたころ、
ある日リーダーのタケシクンが一番に「ミノムシ!」と選んでくれた。
その時の嬉しかったこと!三つ年上のタケシクンが神様に見えた。
わたしがよっぽど嬉しそうにしていたからか、それ以来いつも
タケシクンはわたしを一番にチームに入れてくれるようになった。
彼は、実はひとの痛みには敏感なひとだったのだ。。。
彼のお母さんは二番目のお母さんで、まるでシンデレラの継母を
地でいくような怖いひとだった。
お父さんはいてもいないようなおとなしい人で人付き合いは好まず、
彼の家はお隣だったけれど特に交流もなかった。
お母さんがヒステリックに金切り声をあげて
タケシ!と叱る声は毎日よく聞こえてきた。
一番かわいそうだったのは、
彼だけ玄関からは決して入れてもらえず、
いつも裏の勝手口から出入りさせられていたこと。
子どもながらに、見ないふりをしていたけれど、
彼はどんなに寒い冬の日でも、遊んで帰った時は
裏口の外で服を脱ぎ、パンツ一枚の姿でバケツの水で
足を洗ってからでないと家に入れてもらえなかった。
今思えば、あれは十分虐待だったよね。。。
今さらながら、どんなに辛かっただろうと思う。
彼が中学生になって野球部に入ってからは
あまり一緒に遊べなくなってしまったけれど、
彼の一家が引っ越ししてしまうと聞いて、
ある日曜日に父がタケシクンを誘って、二子玉川園遊園地に
遊びに連れていってくれた。
兄妹のように楽しく遊んだ遊園地の一日。
礼儀正しい彼は遠慮がちにも、とっても楽しんでいた。
わたしは、父がこのままタケシクンをうちの子にしてくれたら
どんなにかいいのにと、こころの中で祈る思いだった。
真っ直ぐなきれいな瞳をしていたタケシクン。
きっと今もひとの痛みに気づく、やさしい大人になっているはず。
大人になってからも、こころがいじけてしまいそうな場面では、
いつもタケシクンを思い出す。
誰かが自分をたいせつにしてくれる、という安心感。
わたしもまた、誰かの力になれるんだ、という気持ち。
とてもたいせつなことをタケシクンは教えてくれた。
この思い出はわたしの一生の宝物。
だんだんみんな成長して、遊ばなくなったあの仲間たち。
自分の家も引っ越してしまって、もうあの町に行くこともないけれど、
今でも思い出すたびに、わたしのこころの中では
あの頃のあの仲間たちが元気に走り回っている。
たいせつな自由時間を一緒に過ごせて本当によかった!アリガトウ